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ランチ [2016年]

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 ランチ。

 いつもの店。


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悲観主義者は成功しない。最後に勝つのはオプティミスト? [【再掲載】]

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なぜか?日本人はペシミスト(悲観主義者)が多い。

 ものごとを悪い方にばかり考える。例えば「俺は会社を作り、世界と商売をするぞ!」といったする。まわりは必ずこういうだろう。「甘いなあ」「身の程知らず」「そんなの無理に決まっている」多くの人は夢や目標を批判、否定しようとする。

 その背景には日本人の考え方があるだろう。「世の中に期待しない」「夢は所詮、夢」と厳しくものごとを考えることが大人の発想であり、世間を知っていることだという意識があるからだ。だから夢を語ると、だいたい先のような批判をされる。

 僕自身も経験がある。

 高校時代に「映画監督になりたい!」といったら、友達や先生、親、大人からもの厳しく批判、否定された。「世の中、そんな簡単にいかない」「もっと現実を見つめろ」「小学生みたいなことをいうな」「お前、才能あるのか?」ともう総攻撃。その後は夢を語らないようにした。

それがアメリカ留学し、大学の先生やクラスメートに「夢」を訊かれて答えたときは全然、違う反応だった。「映画監督か!グレート。がんばれよ」「グッド!いいね」「絶対になれるよ。応援する」ほとんどが好意的な意見で、背中を押すものばかり。日本は止めようとする人ばかりだったのに、何が違うのか?


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 僕が留学したのは23歳。

 日本なら大学卒業、就職の歳。後ろめたいものがあった。大学でそんな話をしたことがある。「僕はもう23歳だから…」というと「何いってんだ。まだ、23歳じゃないか!」「まだまだ、これから、何だってできるさ!」と、これまた何人もから言われた。アメリカは楽天家ばかり? でも、とても励まされた。

 確か、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースも60歳を超えてから成功したと聞く。さすが、アメリカン・ドリームの国。大学で出会った人たちも、皆前向きだった。で、気づいたのは日本は何で夢を語ると否定したがるのか? なぜ、夢を否定する? 厳しい現実を受け入れることを大人の考え方だと思い、何かにがんばろうとすると「子供じゃないんだから」などというのか?

 帰国してからも、「映画監督になること」を目標にして、

 アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。相変わらず、友達も、親も、知人も、声を揃えてこういった。「いい加減。現実を見ろ。いい歳なんだから、早く会社に就職しろ」そして相も変わらず「世の中、甘くない」と言われた。

 身のまわりでも、ミュージシャンになりたい! 俳優になりたい! 小説家になりたい!という友人がいたが、1年、2年と経つと、次第に脱落。ふるさとに帰る者。会社に就職する者が出てきて、5年も経つと皆、いなくなった。「やっぱ、食って行けないから」「しょせん夢は夢なんだよな」そんな言葉を残して消えて行く。大人たちは、そんな彼らを見てこう言う。

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「世の中、甘くない。諦めが肝心だよ」

 しかし、それは違う。彼らは全力で努力して諦めたのではなく、ほとんどが努力不足。見ていると、少しばかり足掻いてみて駄目だと、落ち込んで悩む。その期間の方が努力する日数より長い。そして、彼らはもともと「日本でもアメリカン・ドリームを実現するぜぇ!」という楽天家タイプではない。彼らを批判する大人たちと同じように、何かにつけ「どーせ無理だ」「世の中、甘くない」などと言っていた。

 「俳優になりたい!」といいながらも、現実の厳しさを知っているペシミストだったのだと思える。だからこそ、2年3年で諦めてしまったのだ。そもそも、数年で俳優や小説家になれる訳がない。でも、彼らは自分の努力が足りないのではなく、「世の中が厳しい。だから無理なんだ」という解釈をしていた。

 気持ちは分かる。僕も何度か挫折しそうになった。いろんな努力をしても、なかなか映画監督へのチケットは手に入らない。近づくことさえできない。でも、人が机の上で考える方法論なんて、ものすごく限られたもの。本当は別のところに、違った方法論があるものだ。なのに、ペシミストはそうは考えず。「世の中は甘くない。厳しいんだ」と解釈して諦めてしまう。

 一方、オプチミィスト(楽天家)はもう少し、がんばれば、

 別の出会いがあるかもしれない。別の方法論が見つかるかもしれないと考えて、諦めない。そう、この「諦めない」ということが大切なのだ。ペシミストは努力しないのに、「世の中甘くない」と決めて、諦める。だから、それで終わったしまうのだ。

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 実際、僕は5年目で脚本家になるチャンスを掴み、

 2年後に監督になる。そして、さらに8年後に映画監督デビューする。それから4本の映画を撮り。最新作は日本全国50カ所の映画館、シネコンで公開される。もし、途中で諦めていたら今の自分はない。

 振り返ると、アメリカ時代にもらった言葉に支えられたと思う。「まだ、23歳じゃないか」「今からだってできる」「映画監督。グレート。がんばれ」「絶対になれるよ。応援する」特別の人ではない、普通のアメリカ人から何度もそう言われた。だが、僕がアメリカには行かず、ずっと日本で生活していたらどうだったか?

 バイトを続けながら、映画監督を目指していたら? 

 ほとんどの大人、そして友人たちがこう言い続けただろう。「世の中、甘くない」「夢は所詮、夢だ」「どーせ、無理だ」「可能性は低い」そんな言葉を何年も何年も聞いていると、「そうだよな。やっぱ無理だよな」と思えたはずだ。そして、夢を諦めることこそ、大人だと思い、就職。そして、がんばる若い人を見れば「甘いんだよなー」といいたくなったろう。

 でも、それは違う。こんな言葉を聞いたことがある。「最後に勝つのはオプティミスト」そして「世の中には失敗した人と成功した人がいるのではなく、諦めた人と成功した人がいる」アメリカン・ドリームというのは決してアメリカ固有のものではない。ただ、日本人の多くはペシミストであり、何かがんばる人がいると、頼みもしないのに「世の中甘くない」「現実は厳しい」と言いに来る人たちが多い。

 それで若者は結局、諦めてしまう。

 けど、夢でも、目標でも、テーマでも、自分が掲げるもの、目指すものを掴むことはできるんだ。それには努力や洞察力も必要だが、一番大切なのはペシミストにならないこと。オプティミストでいること。そして「諦めない」ことなのだ。何事も諦めてはいけない!

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【映画は時代の反映。作家が自分の心に問うとき名作が生まれる?】 [【再掲載】]

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311後に友人のテレビ局ディレクターがこんなことをいっていた。

「これからの映画は311前と後で分かれる」

 同じことを感じていた。311以前に作られ、それ以降に公開された映画を見ると、「何これ?」という時代錯誤を感じ、見ていられないものがあった。震災や原発事故を描かなくても、それを体験した人が作ったものと、それをまだ経験していない時期に作ったものは雲泥の差があった。

 僕の映画もそれまではさわやかな青春ものだったのが、一気に「朝日のあたる家」に進んだのも時代の反映だったと思える。あの時期にどんな美しい青春を描いても観客には伝わらない。東北の人たちだけでなく、日本人。いや、世界にも通用しないと感じた。同じ時期。宮崎駿はこう言っている。

「もはや、ファンタジーは通用しない」

 あれだけファンタジーの傑作を撮って来た人がだ。やはり311以降には無意味と巨匠は悟ったのだろう。そもそも、ファンタジーというのは平和な時代にスリルやサスペンスを求める世界。2時間の間、映画館でハラハラドキドキして現実に帰って来るためものもの。

 それが今の日本はまさに「ナウシカ」の腐海そのもの。そんな時代に現実逃避してどうする?ということなのだろう。その宮崎駿が監督したのは「風立ちぬ」ファンタジーの巨匠が現実を描いた。彼のナンバー1作品だと思うし、そのメッセージに心打たれた。時代を反映していない作品は観客に届かないことを思い知った。

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 これは僕の意見だが、ファンタジーと共に現代通用しないジャンル

 がもうひとつある。「ラブストーリー」だ。それをうまく説明することはできないのだけど、この混濁の時代。「恋愛」まで行き着かないのではないか? と感じる。今の時代に求められているのは「絆」それは親子の絆であり、家族の絆。そこをまず、もう一度見つめることが大事な時代になったように思える。

 親子のつながり。家族のつながり。友達とのつながり。それらが希薄になり、長い年月が過ぎた。けど、それをもう1度見つめ直す時期が来たのだと思える。当たり前だと思えた家族が崩壊する。その家族こそが災害のときには一番の味方だった。空気のようだった家族の大切さを日本人は再確認したのだと思う。

 家族。古里。親子。友達。それがどれほど尊くて、貴重なものなのか? こんな時代に一番考えなければならないこと。見つめなければならないこととは何か? そこにドラマの意味があるように思える。

 物語を作る上で大切なのは、

 その時代を生きる作者自身がその時代をどう感じるか。そして自分の心に問いかけること。本当に願っていることはなにか?を描くことだと思う。***が流行っているから、***が人気だから、ではなく。自分の心に問うことこそ、時代を反映した他素晴らしい物語が生まれてくるのだと思える。

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永田よしのりの映画講座③~テレビ局主導の劇場版映画製作~ [【再掲載】]

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by 永田よしのり(映画文筆家)


 今回は映画の宣伝について書いていこう。

 大手映画会社の場合は、その作品を宣伝するための宣伝費も確保でき、その宣伝スポットによって一般大衆の興味をひき、劇場に観客が訪れる、ということになるのだが、独立系インディペンデント映画ではその宣伝費をなかなか捻出することが出来ない、という絶対的な事実がある。

 ここ10年ほどは、純粋に映画会社が製作する映画というものは減ってきていて、地上派のテレビ局が出資して、映画製作するという方向にシフトされている。

 これは地上派でのテレビ放送ありき、の映画製作であり、それなくしてはテレビ局の映画製作出資はありえない。

 だから、ついこの間劇場でかかってたよなあ、

 と思うものでもすぐに地上派で放送できてしまうのだ。そこで、放送枠からスポンサーをつけてスポンサー料を稼ぐわけだ。

 ひと昔前は、映画が劇場で公開されたら、少なくとも上映期間が終わってから半年経たなければ、映像ソフト化しない、というルールがあった。

 テレビ放送も同じで、新作映画を地上派で放送するのには、どんなに早くても1年後、というお約束があったのだが、今ではそんなものは存在しない。

 なぜなら、テレビ局が、出資して製作、劇場でかけているからで、そこにはテレビで放送してスポンサー料金を稼ぐという目的があるからだ。つまり、人々の記憶が新しいうちに、劇場に上乗せして稼ごうという意志があるため。

 もう、二重取りに近い。

 映画館でお金を払って映画を見たら、その数カ月後にその映画がテレビで放送されるのが分かっているならば、普通は映画館には行かないだろう。

 だから、テレビ局製作主導のものは、テレビドラマの続編やスピンオフものが多く、最近では最終回を劇場版で、などという手法もまかり通っている。

 つまり、映画を映画として大事に扱おうという考えは全くないのだ。あくまでお金を稼ぐ手段のひとつとして、テレビドラマを劇場でかけているだけのこと。そこでそこそこの集客が認められたならば、テレビ放送する時にスポンサー収入を取りやすくなる。

 そんなものに〃映画愛〃がないのは、当たり前だろう。

 そして、そうした製作費を出してくれる所がなければ映画を製作することが出来ない、というのも事実。

 だから、映画はどんどんテレビドラマ化してきてしまっているのだ。このテレビドラマ化というのは、自宅で見ている画面サイズと同じものを劇場で見せられてる、という意味と、テレビドラマの製作スケジュール順守の傾向が、劇場作品にも現れ始めている、という点についてのこと(もちろん全てがそうだとは言わないし、テレビドラマだとしてもクオリティの高いものは必ず存在しているのも事実。だが、めったにはないと思う)。

 スケジュールが絶対の現場では、

 役者は最初に決められたこと以外はまず出来ない。

 そこには役者自身が演技にそれを発露させる面白みはまず生まれないのではないだろうか。

(つづく)


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夕飯はカレーライス [2016年]

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 夕飯はカレーライス

 大量に作って、毎晩食べている。

 本日で7日目。


【我慢して仲良くすることが大切か? いや、価値観を同じくした同士が前に進むこと】 [My Opinion]

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【我慢して仲良くすることが大切か? いや、価値観を同じくした同士が前に進むこと】

 映画製作はチームが肝心。

 映画界では黒澤組、大林組、市川組、山田組と監督を中心に実力あるスタッフが集まりファミリーのような形で映画を作る。監督が優秀であるだけではなく、スタッフもまた優秀でなければ、いくら監督が優秀でも、素晴らしい作品はできない。そして、ただ単に実力ある人たちが集まっただけでは優れた映画はできない。

 実力と共に価値観や方向性も問われる。新しい技法や方法論を取り入れて映画を作りをしようとする監督に、古い価値観やルールを重んじるスタッフがいると、監督のやり方を批判し、足を引っ張るだけとなってしまう。いくら技術があっても、方向性が分からなくては力にならない。

 まず、監督の意向を理解し、

 賛同できる人がスタッフとして参加しなければ、単なる抵抗勢力を抱えるだけになってしまう。監督デビュー直後は僕のまわりにもそんなタイプがいた。悪い人ではない。が、考え方が古い。過去の価値観を掲げて、新しい方法論を馬鹿にしている。なので、古くからの方法論、よくいえば伝統的な撮影、悪くいえば古めかしい撮影法が大事だと主張する。

 どんな主義でも、方法論でも構わない。だが、それを撮影現場で監督である僕や、他のスタッフに強要するのが問題だった。本人は新しい方法論が理解できない。「そんな訳分からない撮影法でいいものが出来る訳がない。太田はまだ新人監督だから、それが分かっていない。ベテランである俺が教えてやらなくては!」と技術部のスタッフが、演出や撮影の仕方に口を出し、あれこれ指示を始めたのだ。

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 だが、映画の世界では、

 それぞれのパートが別のパートの仕事に口を出すのは御法度だ。トラブルの元となる。撮影部が録音部に音の録り方をあれこれ指示する。照明部が演出部のやり方を指図する。これはもうアウト。もちろん、各パート同士で頼み事は出て来る。それをお願いすることはある。が、価値観や方法論を押し付けるのは大問題。

 会社でいえば、技術開発部が営業部に「その営業の仕方は違う! 俺の言う通りやれ」というようなものだ。それぞれのパートはそれぞれの分野のプロ。それを別の分野からあれこれ言われれば揉めるのは当然。そのベテランスタッフは「太田のために、俺が言わなければ!」と僕だけでなく、方針を理解し実践する他のパートにまで、「そんなことじゃロクな作品にならない!」と古くからの方法論を強要したのである。

 結果、そのスタッフは足を引っ張るだけの存在となってしまい、チームの空気を悪くし、作品クオリティを落とし、何をしにきたのか?分からなくなってしまった。が、そんな人はときどきいる。特に世代が上の人たちは、そんなタイプが多い。自分たちが若い頃から培った方法論や価値観を大事にし、若い世代にもそれを伝えねばならない!という責任感を強く持っている。


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 ただ、映画界はこの10年ほどで大きく変わった。

 フィルム撮影からデジタル撮影へ。10年前はまだフィルムで撮影される映画がほとんどだったが、今はほとんどがデジタル。映画館でもフィルム上映できるところは、非常に少ない。ほとんどがデジタル上映である。フィルムとデジタルはかなり違う。特性も方法論も違う。同じ武器でも刀とピストルが違うように、それぞれに使い方は別だ。

 映画も同じで、デジタル撮影になったにも関わらず、フィルム時代の価値観や方法論を未だに実践しようとする旧世代が、そんなふうに古いやり方を振り回してしまうことがある。そして、その方法論の意味を顧みれば、もはや無意味であることが分かるのに、彼らの多くはフィルム時代のひたすら古い方法論を信じて押し付けようとする。本人にとっては「これが正義だ!」という感覚なのだろうが、そんな人が1人いるだけでも撮影は大いに無駄な時間を費やしてしまう。

 本来、そのスタッフに悪意はないので、その辺のことを説明して上げられればいいのだが、ベテランの人たちは古い方法論が深く染み付いており、またそれらをプライドに思っていたりする。若い人ならまだいいが、残念ながら、そんなタイプの人は同じ古い価値観を持つ監督と仕事をしてもらうしかない。

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 世代問題だけではない。

 若い人たちでも、テレビドラマを多くやっている人。CMを中心にやっている人。ドキュメンタリーをやっている人。それぞれの分野の価値観や方法論が染み付いている。それを映画の現場で頑に主張することがある。例えばドラマの人は「クオリティはいいから、早く撮らないと!」と思いがち。CMの人はスポンサーのことばかり気にする。そんなふうに、その業界の価値観が出てしまう。

 それでも映画の現場では映画の価値観で仕事をしてくれればいいが、なかなかできない。もし「俺はCMの価値観が大事だ!」というのなら、問題ではあるが理解はできる。だが、多くは「お前は間違っている!」という態度を取る。え、ここは映画の現場だぜ!というのに、CMの論理で仕事する。おいおいおい! と思える。

 だが、彼らの多くは「CMだ。映画だ。関係ない。これが正しいスタイルだ!」と思い込んでいて。映画の現場でCMの方法論を振り回す。若い頃から学んで来たことが、ひとつの世界の価値観でしかないのに、別の世界でそれを振り回していることに気づかない。アメリカ人が日本の家に入るとき、靴のまま畳に上がり「これがアメリカのスタイルですから」というようなものである。


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 分野だけではない。

 フリーのスタッフと会社に所属しているスタッフでも価値観が大きく違う。会社に属すスタッフというのはあまり聞き慣れないと思うが、カメラマンでも、照明部でも、技術部で、会社に所属している人がいる。或いは登録してあり、仕事がくれば派遣されてくる。フリーで個別にお願いするより、カメラ&照明込みでー安くなることが多いので、テレビの仕事はその種の会社にお願いすることがある。

 ただ、会社に所属しているスタッフは

 あれこれうるさい人が結構いる。「夜中まで撮影したくない」「危険な撮影はできない」「家が遠いので集合時間を遅くしてほしい」とか、事情は分かるものがあるが、映画はまず「やる気!」だ。低予算でも、時間がなくても「いいものを作りたい!」という思いを持つからこそ、素晴らしいものができる。なのに、あれこれうるさい。

 会社員というより「やる気のない公務員」という感じなのだ。とにかく多くのエネルギーを使わずに、なるだけ楽して仕事をしたいという姿勢。「どーせ、たくさんある仕事の1本だしね」という思いがありありと伝わって来る。現場でもやる気が見えない。そう、役所にいけばよく見かけるタイプ。

 自分の仕事ぶり、クオリティは考えず「8時間働いたんだから、それなりの月給もらわなければねー」と思っている人。それに近いことがある。製作会社は人件費を安くするために、そんな社員スタッフを引き入れることが多い。そのために現場のテンションを下げてしまう。もちろん、社員でもやる気がある人もいるが、生活が保証されている人は「どーせがんばっても、給与は変わらないから!」という意識を持つことが多い。

 それに対してフリーは会社員ではないので、

 誰もカバーしたり、保護したりしてくれない。待っていれば会社が仕事を持ってきてくれる立場ではない。だから、一生懸命に仕事をして、また次も呼んでもらえるようにがんばる。いや、それ以前に映画愛がある人が多い。「この作品はギャラ安いけど、いい映画になるので絶対やりたい!」とか「ギャラはいいけど、本当に詰まらないアイドル売り出し映画だから断ろう」とか、自分が「やりたい!」という思いを大切にしている。よく知るチーフ助監督はこういう。

 「社員はほんと嫌だ。やる気ないし、文句が多いし。やっぱフリーだよね。社員がいると、それだけで現場の空気が悪くなる。現場の空気は大切だ。でないと、いいものは絶対にできないんだよ!」

 会社に所属しているスタッフも悪意はない。ただ、映画作りより、生活や安定を大事にする。そして必要以上のエネルギーを使わないようにする。そこがやはり会社員なのだ。なら、映画ではない世界で、或いは、それが許される組で仕事をしてほしいと思える。そんなふうにスタッフといっても、世代で、カテゴリーで、フリーか社員かで、価値観や姿勢が変わってくる。

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 いやスタッフだけではない。

 製作会社の存在も大きい。製作費を抜くだけ抜いて何もしない会社とか、社長の趣味で作品を歪めてしまうところ。誤摩化しと手抜きでスタッフのやる気をなくすところも多い。映画会社の体質も同じ。その会社が関わると映画が根本的にダメなる!という会社もある。その理由を書くと長いので、別の機会にするが、愛のない会社が絡むと素晴らしい映画はできない。

 こんなふうに考えて行くと、いい映画を作るためには、いい組で作らねばならないが、そのためには素晴らしいスタッフ、会社が集まらなくてはならない。その中に別の価値観を振り回す者がいれば、現場でトラブルが起こり、他のスタッフのやる気を削ぎ。ダメな会社が関われば、根こそぎアウトになる。なかなか、大変なことだ。だからこそ、名作と呼ばれる映画はなかなか出来ないのである。


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 少し映画を離れて考えてみたいが、

 何かを成し遂げるには、やはり同じ価値観を持つ者が集まり、ひとつの方法論を信じることが大事なのだと思える。しかし、日本的発想では「みんなで仲良くやろう」とか「協調性が大事」とかいわれる。それは間違ってはいないのだけど、「みんなで仲良くやろう」は違う価値観を持った人が互いに妥協しながら我慢している状態ではないか?「協調性」も同じ。

 古い価値観が今も通用する分野もある。新しい方法論を用いなければ滅んで行く世界もある。カテゴリーによって、価値観やルールも違う。それを押し付け合うことでトラブルが起きているのではないか? 同じ日本人とはいえ、全く違う価値観や世界観を持っていることが多い。だからこそ、妥協して仲良くすることではなく、同じ価値観を持つものが集まることで、大きな前進ができると感じる。

 批判するヤツ。価値観が違う者。

 古い伝統を押し付ける人。いろんな人がいる。あれこれ主張する者同士が足をひっぱりあっている。だから、大手企業が不振なのではないか? 或いは、社内にいる新しい方法論を持つ人たちが古い価値観に縛られた人たちに足を引っ張られている。でも、集団というのは調和を大事にする。

 そこからも学ぶこと。主義主張の違う様々な人たち、価値観を押し付けるその種の人々と協調、仲良くすることより、理解し合える者同士が前に進むこと。この混濁の時代を乗り切る上でそれが大切なことではないか? と考えている。


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6年前の監督作「青い青い空」懐かしい! [【再掲載】]

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6年前の監督作「青い青い空」懐かしい!

出演者が凄かった。松坂慶子、長門裕之、波岡一喜、鈴木砂羽、藤田朋子,,,,,,,,,メジャー映画のキャストよりスゴイと言われた。そして、長門さんの遺作。いろいろ思い出す。



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本日のランチ [2016年]

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 いつもの店でランチ。



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古い価値観を掲げるベテランスタッフ。でも、時代は変わって行く。 [【再掲載】]

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撮影現場における新人監督とベテランスタッフとの確執

について、前回少し触れた。今では僕も現場の最年長者の1人になってしまったが、監督業をスタートしたときは、まだまだ若い方で、多くの年配のスタッフががんばっていた。ある人は僕が生まれた歳から撮影現場で仕事をしており、もう先輩というより父親か祖父かという存在であった。

そんなベテランの方々は日本映画がまだまだ元気な頃から仕事をされて来た、尊敬すべき人たち。だが、新しい方法論を撮影に持ちもうとすると一番の抵抗勢力になることが多かった。僕はアメリカ映画を見て育ち、ロサンゼルスの大学で映画を学んだ。自主映画時代からハリウッド式の撮影をしていた(製作費は極貧だったが)。日本の監督は昔から助監督を10年勤めてから監督になったが、僕はまともに助監督業を経験していない。

そして、伝統的な日本映画の作り方では今の観客に伝わるものはできないと考えていた。一番の問題は撮影方式。ハリウッドでは複数のカメラで俳優の芝居をあらゆる角度から何度も撮影する。その中からベストのものを選び編集していく。日本は1台のカメラで必要なものだけを撮影する。編集はただ繋ぐだけ。

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なぜ、そんな違いが出たかというと、

日本は貧しかったのでフィルム代を節約していたのだ。現像代。プリントとフィルム時代は高額な出費になるからだ。それに対してハリウッドは豊富な製作費があるので、リハーサルのときからフィルムをまわす。様々な角度から撮影した映像があることで、編集でテンポやスピード感というものを生み出すことができた。

僕が学生時代に好きだったアメリカ映画のほとんどは、そんな編集のセンスとスピード感が魅力だった。が、日本映画は必要最低限しかフィルムをまわさない。カメラの前で延々と俳優が芝居をする。舞台中継のようなスタイルが多かった。

が、デジタルが導入されてからは日本も状況が変わった。現像代がいらない。ビデオテープは消してまた使える。ハリウッド式が日本でもできるようになった。さらにカメラも安くなり、個人でもデジタル・カメラが買えるようになる。

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だが、夢のハリウッド式撮影をすると、

多くのベテランスタッフが不機嫌になった。「邪道だ」と批判された。日本映画なのだから1台のカメラで必要なところだけ撮影しろといわれた。はあ? その方式は制作費が十分にないから節約のために行っていた方法であり、フィルム代、現像代がいらない現在はこだわる必要はない。が、ベテランスタッフはこういう。

「ハリウッドのやり方は無駄が多いんだよ。あいつらはバカだから、本当に必要なショットを計算できない。だから、何でもいいからいっぱいまわしていいところを使おうという発想なのさ」

言葉がでなかった.......。日本映画は貧しいのではなく経済的であり、効率がいいというのである。何だか、太平洋戦争の論理のようだ。航空母艦に戦車部隊。それと竹槍で戦っても気合があれば、勝てるといっているかのようだ。同時に、映画の表現を分かっていない。

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日本映画方式ではできない表現がハリウッド式ではできる。それに近い方法を実践したのは黒澤明監督だ。彼はマルチカメラ(複数のカメラ)で撮影。それによってよりドラマティックな映画を作り上げた。

彼らに言わせれば黒澤も計算できないから、

何でもいいからフィルムをまわせ!という1人なのか? いくら理屈をいっても「日本映画界は貧しかった!」というのが理由なのだ。それを自分たちの方が頭が良いという風な理屈になっているあたりが、歪んでいる。そんな彼らが新しい方法論を目の当たりにする。全面否定だった。

「何台もカメラを使っていいところを選べば、誰にだっていい映画は作れる」とまでいう。だったら、ハリウッド映画は皆、傑作か? そうではない。マルチカメラで撮ったからと必ず傑作にはならない。でも、従来の日本映画と違う、ハリウッド映画のようなテンポとスピード感がある作品にすることはできる。なのに、年配のベテランスタッフは撮影中。不機嫌で文句ばかりいっていた。

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あとで感じたのは、ベテランスタッフはある種の自己弁護をしながら仕事をしてきたのではないか? 豪華絢爛なハリウッド映画を見て「俺たちは貧乏じゃない。無駄をしないだけ賢い仕事をしている」それによって劣等感から逃れようとした。そんな発想の人たち。だから、方法論が違うというより、自分たちのアイデンティティを守らねばというかのような思いだったのだろう。

「映画というのは1台のカメラで撮影。

頭で考えて、必要なところだけ撮影する。それが映画というものだ」ーという発想で凝り固まってしまい、それ以外を認めることができない。そして印象的だったのは「方法論が違う」とか「発想が違う」とは思わず。「お前は全く映画作りというものが分かっていないなあ?」と相手をバカ扱いすること。

これはもう古くからのやり方が体に染み付いていて、それ以外は映画撮影ではないのだろう。だから、「あの新人監督は分かっていない。このままでは駄目だ。まともな映画ができない。俺が何とかせねば!うるさくいって、嫌われてもまともな映画を作らせないと大変なことになる」そう思い込んで、撮影の間中。口うるさかった。

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が、こちらにすれば、邪魔されているだけ。撮影の方法論は監督が決めるもの。それをベテランとは言え、技術スタッフがあれこれ、演出法や撮影法に口出しをする。でも、撮影途中で帰ってもらう訳にも行かず。大先輩でもある人を怒鳴ることもできず。大変だった。結局、完成した映画を見てベテランスタッフは感動していた。が、撮影法に関しては最後まで認めようとせず。「いっぱい撮影して、いいところを選べばいいものが出来て当たり前」といっていた。それでいいものができれば苦労はない。

織田信長を思い出した。

彼は従来の刀を使った戦に鉄砲を持ち込み。大きな勝利を納めた武将だ。学生時代。歴史の時間に「だったら、なぜ、他の武将も鉄砲を使わなかったんだろう?」と思った。その答えが分かる。ベテランスタッフと同じように、他の武将たちは「刀で戦うことこそが武士だ!」と信じていたのだろう。きっと信長はこういわれただろう。「あいつは武士ではない。鉄砲なんて邪道だ。戦は刀でやるものだ!」

しかし、古い価値観を守り、新しい技術を拒否していては、やがて滅びるのは常。ベテランの武将が次々に倒れ、信長が天下への道を歩んだように、今、映画界でフィルムを使った映画作りはほどんどない。若手の監督たちは皆、ハリウッド式撮影をする。僕の組でも「それは邪道だ」というスタッフは誰もおらず、当たり前のように複数のカメラで撮影する。

でも、より新しい技術が出て来て、「監督。それは古いですよ」と言われる時代がすぐに来るだろう。古い価値観にしがみついていては消えて行くだけ。とくに、この10年。映画の世界だけでなく、日本時代が変化している。方法論だけではない、価値観が変わりつつある。昔ながらの価値にしがみついていては消えて行くだけ。では、新しい価値観とは何か? それを探したのが新作の「向日葵の丘」である。


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昨年秋より、食欲が急激に低下 [2016年]

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 いつもの店でランチ

 昨年秋より、食欲が急激に低下

 以前は昼の中華ランチとか、1人前では足りなかったのだが、

 今はサンドウィッチだけで満腹。

 一昨年の撮影時より7キロ痩せた。

 がん?

 いえいえ、歳と取ったということだろう。

 昔はフードファイターになれるかも?

 と思えた時期もあったけど....。

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