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僕が原作ものを監督せず、オリジナル・シナリオにこだわる訳? [【再掲載】]

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僕が原作ものを監督せず、オリジナル・シナリオにこだわる訳?

よく訊かれること。

「太田監督はなぜ、自分の監督作品のシナリオを自身で書くんですか? それも原作ものではなく、全部オリジナル・シナリオでしょう? 大変じゃないですか?」

確かにそうだ。多くの映画監督は「次は何を撮ろうかなあ?」と考えると、ベストセラー小説や好きな作家の本を読み、「よし!これを映画化しよう」と思い立ち、作品をスタートさせる。そして脚本家に頼んで脚色(小説をシナリオにすること)してもらい、それを監督して映画にする。

が、僕の場合。これまで監督した4本。全てがオリジナル・シナリオ。つまり、原作がない。僕自身がストーリーをオリジナルで考え、登場人物を作り、書き下ろした脚本を使っている。それを自身で監督する。先の質問は、そんなことをする監督は非常に少ない。だって大変だから。なのになぜ?という意味なのだ。

確かに、そうだ。

あのスピルバーグだって、原作もの(「ジョーズ」「カラーパープル」「ジュラシック・パーク等)があるし、オリジナル・シナリオ作品も、自身ではなく、別の脚本家が書いている(「未知との遭遇」「1941」「インディ・ジョーンズ」シリーズ)。なかなか、オリジナル・シナリオを自分で書いて監督する人は少ない。

黒澤明監督も「七人の侍」「生きる」はオリジナルだが、「赤ひげ」「どん底」「乱」「蜘蛛巣城」は原作もの。オリジナルも必ず誰かと一緒に執筆している。

「ゴッドファーザー」のフランシス・コッポラは若い頃に、「自分が監督する作品は全て自分でシナリオ書く」と宣言していた。彼も元々は脚本家としてデビューしたあとに監督になった人だ。が、なかなか、そうも行かず、「地獄の黙示録」以降は別の誰かがシナリオを書いたものが多い。

一番近いのはクエンティン・タランティーノ監督だろう。彼の作品はほとんど(全部かも?)オリジナル・シナリオ。それを自身で書いて、監督もしている。が、他にはなかなか思いつかない。というふうに、オリジナル・シナリオというのは大変。それを自身で監督までするのは、さらに大変。だから、「なぜ?」と訊かれるのだ。

まず。説明せねばならないことがある。

原作小説というのは、それ自体を書くために、長い年月ともの凄い労力をかけている。何年もかけて取材。ようやく完成する。もし、それと同じクオリティのオリジナル・シナリオを書くには、同じように膨大な年月ともの凄い労力をかけねばならない。でも、それにはかなりの経費がかかる。そんなこともあり、すでに完成している原作本に原作料を払って映画にする方が早いし、安上がりということもある。

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また、オリジナル・シナリオを映画化するより、

ベストセラー原作を映画にした方が知名度があり、ヒットさせやすいという現実もある。そんな訳で、映画界では時間も労力もかかる上に、知名度がないオリジナル・シナリオを使うより、人気のある原作を映画にすることが多いのだ。

では、なぜ、そんな面倒なオリジナル・シナリオを自分で書いて、それを自身で監督するのか? そこには理由がある。

もし、誰かの書いた小説や漫画で心惹かれるものがあればいいのだが、それがなかまか見つからない。面白い小説はある。でも、小説は文章を読んで面白くなるように書かれてあるので、それを映像化したからと面白くなるとは限らないのだ。映画化しても面白い小説って本当に少ない「ゴッドファーザー」とか「ジュラシックパーク」とか、すぐに思いつかないほど。

そう考えると映画にするには、

最初から映像にして面白くなる物語を用意しなければならないのではないか?と思えていたのだ。俳優が演じ、美しい風景があり、音楽が流れる。そんな小説では見せられない魅力を多用してこそ、映画ならではの面白さが伝わるはず。

だから、オリジナル・シナリオであるべき。と思っている。でも、それを書くのは確かに大変。「青い青い空」のときは題材となった書道を3年かけて取材、勉強したし「朝日のあたる家」のときは福島の原発事故を1年以上勉強した。

なので、よくオリジナル・シナリオでやってしまうのは、取材や勉強に時間とお金がかかるので、ちょこちょこと調べて(同じ題材の漫画読んで済ますとかして)物語を書いてしまうこと。小説はその辺、本当によく調べている。が、シナリオの準備に2年も3年もかけていられないので、短期間で適当に済ますことが多い。だから、中身がない物語になり、説得力に欠け、詰まらない映画となりがち。だから、原作もの!ということになるのだ。

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でも、時間もお金もかかっても、

ちゃんと調べてオリジナル・シナリオを書けば原作ものに負けない物語ができる。おまけに最初から映画にすることを念頭に書く。活字で表現する小説ではないのだから。そうすれば原作ものでは出ない魅力的な作品になる。

新作「向日葵の丘」では1983年が舞台なので、当時のことを徹底して調べなければならなかった。が、幸い、僕はその頃。オンタイムで、青春時代。さらに、当時からその時代を映画化したいという思いがあり、資料をたくさん残していた。そんなこともあり、何年もかけて勉強する必要はなく、数ヶ月でシナリオを書き上げた。

とはいえ、1本のオリジナル・シナリオを書くのは本当に大変だ。だから、僕は4−5年に1本しか映画を作れなかったというのもある。そして、脚本料は安いので、3年かかって取材して書いたものでも、先に上げたように安易にちょこちょこと勉強して書かれただけのシナリオと同じ額のギャラしかもらえない。取材だって、執筆中の生活費だって出ない。だから、そこまでする脚本家はいないということもある。

それを僕はやっているので、

毎回、映画が完成したときに残るのは借金だけ!ということになるのだ。しかし、監督とした「ストロベリーフィールズ」も「青い青い空」も、「朝日のあたる家」も、リピーターが多く、何度も映画館に足を運んでくれる人が毎回、多数いる。それはやはり年月をかけて調べ、取材した事実を踏まえて書いた物語なので、1度見ただけで十分!とはならない、重さ、深さを感じてくれるからだと思える。

新作の「向日葵の丘 1983年・夏」も原作なしのオリジナル・シナリオ。それを僕自身が監督している。今回も多くの観客が「繰り返し見てくれるような映画になっていた」と言ってくれたので嬉しく思っている。


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映画「野火」の宣伝部から年賀状を頂いた。 [2016年]

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 映画「野火」の宣伝部から年賀状を頂いた。

 そこにはこう書かれていた。

 「多大なるご支援を頂き、ありがとうございました」

 こちらの主演女優の暴走(?)発言のことです。

 あれで「野火」も「向日葵」も話題になり、

 スポーツ新聞等でも大きく扱われました。

 その感謝を込めた年賀状。

 ありがとうございます。

(主演女優発言は以下の動画で!)




監督が望むキャスティングができない理由。僕がわがままを通す理由。 [【再掲載】]

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「映画の出来はキャスティングで70%が決まる」

 といったのは確か伊丹十三監督のお父さんである伊丹万作であったと思うが、本当にその通りだ。にも関わらずに本映画界では、最高責任者であるはずの監督が思うようにキャスティングできないという状況が多々ある。なぜなのか?

 先日、後輩監督から聞いた話。彼の新作映画。主演女優を選ぶことになった。製作会社のプロデュサーが「A子で行こう!」と言い出す。彼女は大手プロダクション所属で、今年の大手テレビ局のドラマに出演が決定している。ブレイクしそうだし、すでに人気はある。この子を主演で行こうと主張する。

 一方、後輩である監督はもう一人の最終候補であるB子がいいと思っていた。同じ大手プロダクションだが、こちらは大きな作品への出演は決まっておらず。現在も、それほど人気はない。彼は「こっちがいいんだけどな〜」と思っていたが、Pが「A子でないと、映画はヒットしない!」と押し切られた。

 が、A子主演の映画は惨敗。

 客が入ったのは初日の舞台挨拶がある日のみ。Pはいう「あいつも意外にダメだなあ」この話は以前にも書いた。俳優人気を頼りにしていては結局、こういうことになる。が、後輩にも問題がある。どこかで「Pのいうことに逆らうと、次仕事がもらえなくなるかも...」という不安があって、A子主演を受け入れたからだ。

 往々にして、そんなことはある。監督が「この子がいい!」と思ってもPが「こっちにしようよ?」というと、「そうですねー」とか迎合してしまう。或いはPが「**役はこれでお願いします」と俳優のプロフィールを渡すと、事実上の命令だと解釈し、監督はそれを受け入れる。(ま、Pは自分が言えば必ず受け入れられると思っているし)

 しかし、その俳優の事務所とPは癒着していて、

 1人キャストに入れるといくらもらうとか、何かのときにお返しをしてもらえるということで俳優を決める。監督は「えー少し違うなあ」と思っても「また仕事まわしてもらわないと、いけないからなあ〜」とおとなしく従う。

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 こうして監督のイメージとは違う俳優が次々に押し込まれ、キャスティングが壊れて行く。たいていの場合。その種の映画はミスキャストとなり、????な展開となる。あとで監督に訊くと「本当は**子で行きたかったんだけど...」と言われる。だが、そんなことでいいのか?

 伊丹万作の言う通りキャスティングは重要

 それを監督が意図しない俳優を入れていいものが出来る訳がない。「現場の演出で俳優をうまく使うのが監督の仕事」という人もいるが、それは大間違い。その監督が「いい!」と思わない俳優は演出してもダメ。別のいい方をするなら、監督がほしい「センス」「素養」「性質」「雰囲気」「演技力」等を持っていない俳優だと、いくら努力しても出ない。

 何よりPの多くは、その手の資質を見抜く力がない。おまけに演出経験もない。そんな人が「この人がいい」と言われてもダメ。単なる癒着であることも多いし。例えばレストランのオーナーがシェフに、料理の材料を指定するのと同じ。料理しない人間があれこれ素材を選んでも、おいしい料理は作れない。

 だから、いい作品を作るには

 監督が100%「これだ!」というキャスティングにすることは大事。でも、多くの監督は常識があり、分別があり、今後のことを客観的に考えて、大人の対応で、Pの意見を尊重。「この役者は違うよなあ〜」と思っても受け入れる。

 ただ、僕は常識がなく、分別もなく、今後のことを考えず、子供なので、Pの意見は聞かない。毎回、遺作と思っているので、「次の仕事がほしい」とは考えない。「これで終わり!」と思っているので、本当に「この人だ!」という俳優を入れる。だから、同じPから再度、仕事依頼が来たことはない。

 だが、キャスティングの評判はとてもいい。

 僕の作品に出たあとブレイクした子が何人もいる。「太田監督の映画に出る俳優は皆、輝いている!」と言われるようになる。その後は確信を持ち、あれこれ無意味な指示をするPがいると良い作品が撮れないので、今では僕がPも担当。

 でも、なぜ、俳優が輝くのか? 理由を考えてみた。たぶん現場で俳優さんたちも気づくだろう。キャスティングを観ると**プロダクションの人が多い。「なるほどー、Pさんはあそこと仲いいからね...」とか「じゃあ、***事務所のオレはあまり重要でない役だな?」とか

 その**プロの俳優さんだって、「あー私の実力で選ばれたんじゃないんだ。事務所の力なのね」とやる気をなくすだろう。でも、僕は無名でも有名でも、本当に出てほしい人に、その役を絶対に演じてほしい俳優にお願いする。誰が何といっても聞かない。わがままと言われる。Pには嫌われる。でも、俳優たちは凄く輝いてくれる。それが素敵な映画を作る上でとても大切なことだと考える。


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