【映画は時代の反映。作家が自分の心に問うとき名作が生まれる?】 [再・映画界]
2015年7月の記事より
311後に友人のテレビ局ディレクターがこんなことをいっていた。
「これからの映画は311前と後で分かれる」
僕も同じことを感じていた。311以前に作られ、それ以降に公開された映画を見ると、「何これ?」という時代錯誤を感じ、見ていられないものがあった。震災や原発事故を描かなくても、それを体験した人が作ったものと、それをまだ経験していない時期に作ったものは雲泥の差があった。
僕の映画もそれまではさわやかな青春ものだったのが、一気に「朝日のあたる家」に進んだのも時代の反映だったと思える。あの時期にどんな美しい青春を描いても観客には伝わらない。東北の人たちだけでなく、日本人。いや、世界にも通用しないと感じた。同じ時期。宮崎駿はこう言っている。
「もはや、ファンタジーは通用しない」
あれだけファンタジーの傑作を撮って来た人がだ。やはり311以降には無意味と巨匠は悟ったのだろう。そもそも、ファンタジーというのは平和な時代にスリルやサスペンスを求める世界。2時間の間、映画館でハラハラドキドキして現実に帰って来るためものもの。
それが今の日本はまさに「ナウシカ」の腐海そのもの。そんな時代に現実逃避してどうする?ということなのだろう。その宮崎駿が監督したのは「風立ちぬ」ファンタジーの巨匠が現実を描いた。彼のナンバー1作品だと思うし、そのメッセージに心打たれた。時代を反映していない作品は観客に届かないことを思い知った。
これは僕の意見だが、ファンタジーと共に現代通用しないジャンルがもうひとつある。「ラブストーリー」だ。それをうまく説明することはできないのだけど、この混濁の時代。「恋愛」まで行き着かないのではないか? と感じる。今の時代に求められているのは「絆」それは親子の絆であり、家族の絆。そこをまず、もう一度見つめることが大事な時代になったように思える。
親子のつながり。家族のつながり。
友達とのつながり。それらが希薄になり、長い年月が過ぎた。けど、それをもう1度見つめ直す時期が来たのだと思える。当たり前だと思えた家族が崩壊する。その家族こそが災害のときには一番の味方だった。空気のようだった家族の大切さを日本人は再確認したのだと思う。
だから「朝日」はそれがテーマになった。家族。古里。親子。友達。それがどれほど尊くて、貴重なものなのか? それを描いた。そして現在、日本は不況が続き、未来が見えず。希望が感じられない。さらに悪い時代を迎えるような気さえする。そんな時代に一番考えなければならないこと。見つめなければならないこととは何か? そこにドラマの意味があるように思える。
物語を作る上で大切なのは、その時代を生きる作者自身がその時代をどう感じるか。そして自分の心に問いかけること。本当に願っていることはなにか?を描くことだと思う。***が流行っているから、***が人気だから、ではなく。自分の心に問うことこそ、時代を反映した他素晴らしい物語が生まれてくるのだと思える。
映画作りは「圧力」や「横やり」との戦いの連続? [再・映画界]
いろんなところから横やりや圧力がかかる。
どんな小さな映画でも映画というのは、様々な利権が生まれるからだ。もちろん、映画出演したからと何億というギャラがもらえる訳ではないが、俳優にとって、事務所にとって、ロケ地にとって大きなメリットがあるからだ。
俳優といっても名前が売れている人は極々一部。無名の俳優が圧倒的多数。ギャラはなくても映画に出たいという人が多い。それをチャンスとして羽ばたきたいと考える。長年がんばっている所属俳優に仕事を取らねばと事務所も願う。だから、少しイ強引な手を使うことがある。
ロケ地の話は前に書いたが、
多くの地方は今、財政難を抱えている。一番早いのは観光。でも、伝統的なお寺も歴史的な場所もない町では観光客は来てくれない。といってCMを打つと巨額の宣伝費が必要。それが映画がロケされればタダで宣伝できる。だから、ロケ誘致が盛ん。強引な手を使う地区もある。
それぞれの理由は分かる。が、それを製作サイドがひとつひとつ受け止めていたら、素晴らしい作品はできない。それこそ観光PR映画となり、役に合わない俳優が出演しているダメ映画となる。結果は客が来ずに惨敗。ロケ地のPRにも、俳優の栄誉にもならずに終わる。
素晴らしい作品を作ってこそ、ロケ地は輝き、
観客が「この町に行きたい!」と思い、役に合った俳優を起用するからこそ、物語が盛り上がる。なのに本末転倒ともいうべきことに、必死で努力する人たちがいるのも現実だ。
そこにプロデュサーという存在が関わり、その人が裏で接待されたり、今後のメリットになる提案をされると、こう言い出す。「このロケ地の***公園でロケする」「***事務所の俳優をメインに入れてほしい」そう監督に指示。或いは頼み込む。監督もまたプロデュサーから仕事をもらいたいので、受け入れてしまう。こうして映画は傾いて行くのである。
しかし、僕は今回の「向日葵の丘」まで4作。
その種の指示や頼み事は全て断って来た。監督の仕事は関係者のご機嫌を取ることではない。素晴らしい作品を作ることなのだ。役に合わない俳優を無理やり入れても、物語にふさわしくないロケ地で撮影しても絶対にいい映画にはならない。
だから、プロデュサーには嫌われた。「融通の利かない奴」といわれ、いろいろとバッシングを受けた。悪口をあちこちで言われ、逆にまわりから同情されたほど。
Pからばかりではない、応援してくれている力のある方。ロケ地の名士。スポンサー等からもお願いや提案が必ずある。お願いを超えて「命令」や「圧力」が来ることもある。「これはマストなんだよ!」と命じる人もいた。けど、そんなことを全て受け入れていたら、素晴らしい作品は出来ない。制作委員会形式で素敵な映画ができないのと同じ。いろんな人がいろんなことをいう。皆の顔を立てて受け入れると、最大公約数の作品しかできない。
だから、監督は嫌われても拒否しなければならない。
が、彼らは強行なだけでなく、甘い手や断りにくい手を使い目的を遂げようとする。それを跳ね返すのは大変。そんなことに多くのエネルギーを使う。ここ数作はもうそんな戦いはなくなり、自由にやれるようになった。とてもありがたい。けど、後輩たちは今もその戦いを続ける。そしてこれは映画製作だけのことではないだろう。
他の業界でも似たようなことは多いはずだ。市民のために行われるべきことが、いつの間にか特定の会社の利益のために進んでいることがよくある。そんなことも考えてしまう。
もう一度見たい名作映画「ゾディアック」ー実際の劇場型犯罪を克明に映像化! [映画の話]
もう一度見たい名作映画「ゾディアック」ー実際の劇場型犯罪を克明に映像化!
アクション映画はあまり好きとは言えないが、犯罪ドラマは結構好きだ。今回、紹介する「ゾディアック」もそのひとつ。
ゾディアックは実在する犯罪者。1960年代に起きた事件の犯人。謎の手紙を新聞社に送りつけ、自分の犯罪を予告。次々に罪なき市民を殺害していく連続殺人犯である。日本でいうと「酒鬼薔薇聖斗事件」のような犯罪。あの「ダーティハリー」の1作目の犯人。スコルピオはこの犯人がモデルである。
以前から僕はその手の犯罪に関心があり、その事件のことも本で読み知っていた。そんなことがあるので脚本家時代は「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のシナリオを書いたこともある。だから、「ゾディアック」の映画化を聞いたとき、やられた!と思ったりした。
「セブン」のデビッド・フィンチャー監督が克明に映像化。やはり、本で読むより、当時のアメリカの風俗もリアルに再現されておりおもしろい。ただ、フィンチャー監督は犯人の残虐性より、彼に振り回される人々の姿を克明に描く。そう、犯罪事件の興味深いのは犯人そのものより、その背景や時代の反映である。犯罪ものではあるが社会派ドラマになっている点が興味深い。
DVDは持っているが時間がなく、なかなか観れない。映画館で見て以来だが、今観ると、またいろいろ発見がありそうだ。
現代の映画の役割。娯楽だけではなく、大切なことを伝えること。 [【再掲載】]
1980年代。映画は現実逃避の手段だった。
辛い世の中。2時間の間、現実を離れ宇宙を旅し、悪い奴らをやっつけて、イケメン男性や美女と恋をする。ハラハラ、どきどき、笑って、泣いて、感動する。そして映画館を出れば、現実に戻り、また「明日もがんばろう」と思うための応援メディアとしての役割が大きかった。
その後、90年代に入り、バブル崩壊。不況が10年以上も続く。2010年代に入ると、311。原発問題、景気問題、法改正、集団的自衛権等、テレビや新聞は本当ことを伝えず、戦争の足音さえ聞こえてくる。時代は悪い方向に進んでいるように思えてる。未来が見えない。希望が感じられない。そんな時代の中で映画の役割も変わってきた。
80年代は「辛い!」と思っても、
どうにか生活はできた。まじめに勉強して、会社に入り、しっかり仕事をすれば家族は守れた。だから、仕事が辛い、生活が苦しいといっても2時間映画で現実逃避すれば、また、がんばろうと思えたのだ。が、今は違う。2時間の現実逃避では何も解決しない。
豊かだったはずの日本で餓死する人がいる。信じていた会社が倒産。仕事をなくしてしまう。それ以前に就職できない。正社員になれない。ブラックな会社では過労死するまで働かされる。そんな時代に2時間の現実逃避をさせるだけの映画に意味を見いだしてはもらえない。
今の時代。映画は何を描くべきなのか?
僕がデビュー作「ストロベリーフィールズ」から描いて来たのは「親子に伝える大切なこと」。忘れがちな大切なことを物語を通してもう1度見つめることがテーマだった。そして、ここ最近はさらに、一歩進めて「幸せとは何か?」を考える。
日本人にとって、親にとって、子供にとって、家族にとって、
一番大切なことは何か? 何が人を幸せだと感じさせるのか? 幸せって何だっけ? そんなことをテーマに、ハラハラ、どきどき、感動して泣ける映画を作っている。
今回の映画「向日葵の丘」の舞台は1983年。
あの時代を振り返ることで、見つめることで、思い出すことで、忘れていた大切なことに気づくはずだ。パソコンもない、DVDもない、CDも、携帯さえもない時代。そんな時代にあって、今は失われたもの。それこそが「幸せ」なのだと思える。では、それは何か?
でも、説教臭い物語ではない。今回もめっちゃ泣ける作品になっている。ラスト1時間は、今回も涙の連続だ。その涙の中で、その感動の中で、あなたもきっと忘れていた大切なことを見つけるはずだ。