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子供たちに伝えたいこと。「考える力」を育てないと生き残れない? [【再掲載】]

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僕の映画。テーマが「親子の伝えたる大切なこと」

なので、よくお母さん方から質問を受ける。「子供のために何をすればいいんですか?」その答えはとても難しい。昔なら「しっかり勉強して、いい大学に行き、一流企業に就職すること」と誰しも思っていた。

が、今や一流企業でも倒産したり、大量のリストラをする時代。エリートコースを歩んでも、絶望が待っているかもしれない。そして一生懸命勉強することは実は子供たちにとって大きなマイナス面がある。何度も書いたが、日本の教育は優秀なサラリーマンになるための訓練。与えられたことを確実にこなし、上には逆らわず、疑問を持たず、指示されたことを正確に、早くこなす能力を育てるためのものだ。

つまり、想像力。洞察力。共感力。

状況把握能力といった、社会に出てとても大切な力を育むものではない。分かりやすくいうとサラリーマン・ロボットになるための教育。バブル時代まではそれでよかった。が、言われることしかできない社員ばかりなので、上が時代錯誤になると、企業全体が駄目になり、電気製品も韓国に抜かれ、不況からも脱出できないのだと感じる。


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では、何が必要なのか? 

その前に聞いてほしい話がある。テレビで「****が人気!」といえば、それを鵜呑みにする人が多い。自分では確かめていないのに「テレビが言ってるから!」と信じてしまう。ニュースキャスターが「*****」といえば、それを自分の意見のように人にしゃべってしまう。「東京の偉い先生が***と言っているんだから、間違いない!」という人も多いだろう。これらこそが日本の教育の成果(?)なのだ。

上から与えられたことは素直に受け入れ、疑わない。つまり、テレビや権威のある大学の先生が言うことを絶対的に信じる。「考える」という教育を受けて来なかったことでの弊害だと考える。日本の教育は与えられたことさえすればOK、言われないことまですると注意される。なので、上からの指示、情報は疑わずに受け入れる。頭を使うのはそれこから。

でも、これからの時代で大事なのは、

情報を得たとき、そのまま受け入れるのではなく、その裏や意味を想像する力。風を読み、時代の流れを感じて、「今は何が必要か?」を自分で考える人だ。そんな力を持つことで、混沌とした時代を生抜いて行けるはず。でも、すでに社会人の大人はもう遅いかもしれない。せめて子供たちの「考える力」を育てたい。

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どうすれば「考える力」は育つのか? 

考えろ!といって考えられるものではない。そもそも考えるとはどういうことなのか? 例えば、目の前に白い色があっても、白と認識するのは実はむずかしい。そこに黒があることで、違いが分かる。あきらかに白とは違う色ということで認識。つまり、比較することで、物事を認識できる。

具体的にいうと僕が子供の頃、銀行は3時で閉まるのは当たり前だった。不便だし、働いていると預金を降ろしに行くこともできない。その後、自動支払機が出来てからも、しばらくは午後6時で終わり。その後も、100円の手数料が取られた。何で自分の金引き出すのに手数料が? と苛ついたが、それが当たり前だと思っていた。

ところがアメリカに留学すると、

銀行はどこでも午後5時までやっているし、自動支払機は365日、24時間。手数料なしで引き出せる。そうだよな! それが顧客サービスだし、何で自分の金出すのに手数料取るの?と思えた日本の銀行がいかに努力をしていないか?が分かる。その後、日本も改善され、3時以降も営業するところ、手数料なしで引き出せる機械もできたが、日本人は不便を不便と思わず、それが当たり前と思っていたのだ。

同じように日本では当たり前ということが、実は世界の非常識だったりする。そんな経験をすると、物事は一面だけではないこと。当たり前だと思っていたことが実は違うこと。別の側面があり、違った論理があると分かってくる。いろんなことを疑い、本質を見つめようとする。問題が見えてくれば、どうすれば解決できるか?試行錯誤する。それが「考える」ということ。その力が今の日本人は決定的に欠けている。

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サラリーマン育生教育を受けて来た僕の世代。

50歳を超えた友人たち(関西人だけど)に日本社会の問題点をどう思うか訊く。「そんなん、しゃあないやん。オレらにどうにかできる問題とちゃうし。考えてもしゃーない!」とよく言われる。そう「考えてもしゃーない!」考えることを放棄している。同時に考える力もないのだ。

決して友人は馬鹿ではない。それなりの有名大学を出て、それなりの企業で今も働いている。が、「考える」ということを放棄している。あれこれ、社会問題について質問を続けると、怒り出す。日頃から「考える」ということをしていないので、答えられなくなり取り乱してしまうのだ。10代から「与えられたこと」を教えられた通りにこなすことしかしていないので、状況を見て自分で判断。意見を持つことができない。

彼が悪い訳ではない。

そんな教育を受けて育ったのだ。教えられてないことを要求してもできない。多くの日本人が自分の意見を持たず、ニューキャスターの発言を鵜呑みにして、それが自分の意見になる背景もここにある。では、どうすれば子供たちは自分で考えるという習慣がつくのか? いろいろあると思うが、そんな質問を受けたとき、僕は留学を進める。

情報化社会といいながら、

まだまだ日本人が知らないことは山ほどある。情報番組やネットで情報を得て、海外のことが分かったつもりになっているが、実際に行くと大きな違いを痛感する。海外旅行では駄目。やはり、その国に住み、暮し、地元の人と接してみないと分からない。そこで初めて日本との違いを実感する。そこから「考える」という行為をするようなるのだ。

僕自身。アメリカ映画とアメリカの音楽で育ち。ドラマもアメリカ。アメリカ人よりアメリカ文化には詳しいくらいだが、やはり住んでみると、数々の驚きがあった。その意味で、若い人には留学を勧める。アメリカでなくてもいい、ヨーロッパでも、アジアでも。日本以外の国に行けばいろんなことが見えてくる。日本の駄目な点だけでなく、日本の素晴らしさも分かる。海外で生活したことがないのに「日本はいい国だ!」という人がいるが、本当の良さは分かっていないだろう。

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少し前まだは円高で、

東京の大学に進学するより海外の方が安くついたのだが、現在は円安。子供を留学させることは難しい家庭も多いだろう。ただ、留学のみが「考える力」を育てる方法ではない。いろんな方法がある。それはまたの機会に紹介する。いずれにしても大事なことは、子供たちを昔通りに日本の教育を受けさせて、一流大学、一流企業を目指すだけでは、考える力は育たず、いずれ、大人になってから大変な思いをするのは間違いない。

だから、子供たちと、その親たちに、今、何をするべきか? あれこれ考えて、映画を作る。そうやって、幸せになるヒントを届けられれば嬉しい。


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朝食はホットドッグ! [2016年]

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 朝ご飯はいつも

 ホットドッグ

 昨年1年、ほぼ毎日!

 自宅にいるときはこれ

 作るの早くて、パソコンしながら食べられる。


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俳優残酷物語ー何時間もかけて撮影したのに使われるのは5秒?! [【再掲載】]

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映画の撮影は時間がかかる。

夜明けと共にスタートして、深夜まで撮影は続く。1つの場面を1日かけて撮影することもある。だが、それだけかけて撮影しても、その日の撮影で使われるのは2−3分なのだ。
カメラ位置を決めて、照明を決めて、光の具合や風の方向。太陽の位置。様々なことを考慮して、演技を固め、リハーサルを何度もして、本番! だから時間がかかるのも当然だが、撮影された芝居はさらに編集でカットされる。

例えば俳優が長い台詞をいう場面でも、

「ん〜ちょっともたないなあ」となれば、短くカットする。或は、上映時間の制約。さらには台詞は素晴らしくても、全体のリズムの問題で、カットすることもある。なので、長い長い台詞のシーンでも、完成したものを見るとたった一言になっている場合もある。俳優は

「あーー俺の芝居が下手なのでカットされたんだ〜」

 ショックを受けるが、そうでない理由でカットすることが多い。或は台詞がある役なのに、映画館で見ると全くしゃべってないこともある。或は台詞が極端に少なくなっていることもある。これも「下手だから?」と思われがちだが、逆の場合もある。

その俳優の存在感がもの凄くあり、台詞で説明しなくても、そこにいるだけで、全てが伝わる。だから、台詞が必要なくなるということもある。俳優は台詞を大事にするので、ショックを受けるが、カットしたからと芝居がダメとは限らないのだ。

ただ、やはり、がんばってくれた俳優のシーンを切るのは辛い。

どんな理由でも俳優はショックを受ける。が、そこでカットしないと映画自体のクオリティが下がり、観客がうんざりしてしまう。感動してくれなくなる。この場合。やはり観客を優先しなければ、誰のための映画だ?ということになる。

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同じ意味で市民俳優の方の台詞も、

バッサリ切らねばならないことがある。オーディションのときは、プロ顔負けの芝居を見せてくれたが、撮影となると緊張して、力を発揮できない方もときどきいる。その場合。申し訳ないが、全面カット。或は台詞を減らすこともある。

だが、芝居がまずいのではなく、時間の関係。テンポの関係でカットすることもある。カットされたり、短くされれば皆「芝居がまずかったんだ〜」とショックを受けるが、そればかりではない。でも、お一人お一人に説明もできず。心苦しい。時にはクレームの手紙も来る。

「カットするくらいなら、最初から使うところだけ撮影しろよ!」

でも、映画はいかに無駄となる部分にも力を入れて撮るか?が大事。実はそれは無駄ではなく、最終的に使われた映像を支える大切なことなのだ。

「カットされたから撮影に行ったのは無駄だった」

と思う方もいるが、そうではない。参加した全ての人の思いが映像を支えている。映る映らないに関わらず、多くの人の「思い」が集まらなければ素晴らしい作品はできない。

その意味で無駄ということはない。参加者の「思い」が映画のクオリティを決める。その映画が素晴らしければ、参加者の思いが素晴らしかったということなのだ。


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