「才能」という言葉を僕は使わない。だって才能なんて存在しないから [再・opinion]
よく人はこういう。「俺、シンガーソングライターになるんだ」「お前、才能あるのか?」「私、女優になりたい」「才能ないとなれないぞ」そんな会話を嫌というほど聞いて来た。人はこう思う。「歌を歌うにも、絵を描くにも、小説を書くにも才能がいる、才能がなければできない」
では、こう訊こう。「才能があれば小説が書けるのか? 才能があれば芝居ができるのか?」もっと言えば、才能があれば何もしなくてもギターが弾けるのか? シナリオが書けるのか?答えはーNO。楽器を弾くには長期に渡った練習が必要。最初から弾ける人はいない。シナリオだって何本も書いて練習しなければ書けない。では、人はなぜ、「才能がないと」なんていうのか?
天才ギターリストがいる。
その人は若い頃からもの凄い時間練習をして、何よりギターに人生を費やして来た。だからこそ、天才ギターリストと言われるようになった。演技派と呼ばれる俳優がいる。が、彼も若い頃から名演技をしていた訳ではない。時間さえあれば演技について考え、役についてあれこれ想像し。人生のほとんどを芝居のために費やして来た。だから今、演技派俳優と呼ばれ尊敬される。
そういうことなのだ。「才能」ではなく「素質」を持った人が年月をかけてそれを磨き、鍛錬して、「演技とは何か?」「音楽とは何か?」を自問自答して、どんな芝居をすれば人は感動するか? どんな歌を作れば人をハッピーにできるか? 自分にはどんな芝居が、自分にはどんな歌が合っているのか? それを考え続け、試行錯誤した人が、人に感銘を与える仕事をすることができる。その努力を知らずに見ている人が「凄い! 感動した。何であんな芝居ができるのか? 何であんな歌が歌えるのか? きっと才能があるからに違いない」と思うのである。
その努力や覚悟。情熱を想像できない人が、
理解するために「才能」という言葉を使い理解しようというのだ。そう考えると分かりやすい。結局、「才能」なんてないんだ。が、僕も若い頃によく「俺には才能があるのか?」「才能がなければ映画監督にはなれない」そんなことを悩んだことがある。でも、「才能」なんてなかった。成功している人たちは、どの業界でも命がけで血の出る努力をしている。そうして作品を生み出す。その背景を知らない人が「自分になぜできない?」と思ったときに「努力したのに駄目だった」と悔しいときに、「才能」という便利な言葉を使うことで、納得するのだと感じる。
素質、資質はある。どんなに努力しても役者になれない人。小説を書けない人はいる。残念だがそれは無理。その素質、資質を持つ人が、どれだけの時間をかけて、それを伸ばすことに全てかかっている。数字で言えるものではないが、5%の資質しかない人が100の努力をすれば、10%の資質がある努力しない人を追い越すことはできる。
思い出すのはチャップリンの言葉。
「才能とは99%の努力と1%の閃きである」(実はジョンレノンも同じことを言っている!)本当にその通りだ。ただ、自分が賭ける以外の多くのものは犠牲にせねばならない。安定した生活とか、恋愛とか、平凡な家庭生活とか、一般の人が手に入れられる小さな幸せを犠牲にせなばならない。そこまで出来る人だけが認められる。過酷な報われない戦いでもある。その戦いを知らない人が「才能あるからいいよな〜」というのである。
「俺は才能がないから駄目だ」と言う前に、99%の努力をしてみるべき。「お前は才能ないからな」と決めつけるなかれ。人生賭けて挑めば、輝く作品は生まれてくるのだ。「才能」ではない。「努力」なのだ。
【僕が言ってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】 [再・opinion]
【僕がいってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】
映画の世界の価値観というのは、一般の人になかなか理解されない。
その映画界でも太田組の価値観というのは特別。以前はベテランの人からよく批判されたが、今では多くのスタッフが理解してくれていて、毎回、クオリティの高い作品を作れる背景となっている。が、やはり一般の人には分かりづらいようで、誤解発言をときどき聞く。
先日も「太田監督は******と発言しているが、そこが素晴らしい」とか書かれた。が、それも僕が一度も言っていないこと。興味深いので詳しく説明しよう。「太田監督は常々、俳優は皆平等だと言っている。そこが素晴らしい」とある映画ファンが書いていた。褒めてくれてるようだが、僕はそんな発言をしたことも、その種の文章を書いたこともない。というのも、そんなことは思っていないからだ。ただ、こういったことはある。
「通常の映画では、この人は主人公。この人は脇役。
この人はエキストラと分ける。でも、人は誰もが自分の人生では主人公なのだから、人生にエキストラなんていない。だから、僕の撮影現場ー太田組では誰もが主人公と考える。エキストラと呼ばず、市民俳優と呼ぶ」
これはあちこちで言ってるし、ブログ等にも何度も書いている。が、読んでくれれば分かるように「役には上下はない」という意味。「俳優に上下はない」ではない。その映画ファンが指摘した「俳優は皆平等」でもない。明らかに、その指摘は間違いだが、その違いが分かるだろうか?
通常の撮影現場では役に上下がある。
「この人は主人公だから重要。この人は脇役だからどっちでもいい」ということ。でも、僕の考えは脇役だって重要だし、通行人だって重要。それぞれにドラマがあるという意味。だから、誰も主人公なのだ。3人の女子高生が登場する物語だとして、通常は主人公は1人、相手役が2人。でも、太田組では全員が主人公だと考える。ただ、その物語を3人同時に描くと観客が混乱するので、1人を選び、その視点から物語を描く。それが一般に言われる主人公。
でも、別の2人の視点から物語を見ればその2人も主人公なのだ。つまり、誰もが重要なキャラクターであり、不必要な登場人物などいない。その意味でどの役も主人公であり。どの役も平等なのだ。なのに、その映画ファンは「どの役も平等」というのを「俳優は皆、平等」と勘違いして解釈したのだ。「役」=「平等」であり、「俳優」=「平等ではない」。
平等な訳がないし、平等ではいけないのだ。
例えば、何十年も役者生活をしているベテラン俳優と、駆け出しの新人は平等ではない。ベテランは実績と実力を持っている訳で、それを尊敬すべきだし、それなりのギャラが払われる。待遇もいい。出てもらうことで映画の格も上がる。
が、新人はギャラが安い。それは演技力に定評もなく、経験も少ない。その俳優が出たからと、ファンが押し掛ける訳ではない。むしろ、現場は若手にとって勉強の場。ベテランと同じギャラ、同じ待遇がある訳がない。なのに、その映画ファンは「俳優は平等だ」というので、話がおかしくなる。
人間は皆、平等だ。「あいつは死んでもいいけど、あの人は重要だから駄目」という考えは間違っている。が、人のために役立つ存在は評価され、優遇される。その人の価値であり、評価なのだ。それを混同してはいけない。俳優で説明しよう。メインキャラを演じる俳優はもの凄い集中力が必要。長台詞があったり、過激な立ち回りがあったり、自分のミスが多くの人に迷惑をかける。作品のクオリティも下げる。替えは効かない。
それに対して小さな役なら、多少の失敗も監督に怒鳴られるだけで済む。最悪は別の役者と交代することで済む。こういうと勘違いして「差別だ。小さな役だって大変だし、集中力が必要!」というかもしれない。が、違う。メインの役に比べれば、その差は歴然であり、大物俳優、ベテラン俳優と呼ばれる人たちは、そんな経験を何度もして、現在まで来ている。新人とベテランを同じように扱う方が不平等なのである。
実績や実力。人気に合わせてギャラの額も決まる。
これは「不平等」とではない。小さな努力で済む新人と、長年の経験を駆使して素晴らしい演技を見せるベテランの報酬が同じでは、理不尽。経験だけではない。若くても人気があれば高額のギャラがもらえる。演技力があれば評価される。そこに「平等」という物差しを持ち込むこと自体がおかしいのだ。
その意味では会社も同じ。
社長から新入社員まで平等。給料や待遇も皆、同じだろうか? 会社でそれぞれに待遇は違う。それぞれの実績への評価。では、社長が偉いのか?というと、これは違う。営業の達人がいて、技術の鉄人がいて、しっかり者の専務がいて、会社が成り立つ。社長だけでは成り立たない。同じようにドラマの世界も、メインキャラだけでなく、小さな役の存在も大事。暴れん坊将軍だって、斬られる侍がいるから成立する。誰が偉いではない。が、それぞれの待遇は違う。平等ではない。
の辺を取り違えて「太田監督は俳優に上下がないと常々言っている」なんてブログに書く人がいる。***監督はと伏せ字で書くのならとにかく、僕の名前を上げるのであれば、正確に書いてもらいたい。以上の説明を読めば、そんな世界ではないし、そんな発言をする訳がないこと。分かるはずだ。
人はすぐ「平等だ」「差別だ」といいがち。それはとても大事なことだが、使い方を間違えている人も多い。人は実力や努力。経験が評価される。それは差別ではない。何もできない。経験もない新人俳優はまず勉強であり、実力派と同じ評価や扱いを受けないのは当然。それを差別というのは大間違い。ときどき、新人俳優で「何日も撮影に出たのにギャラが安い!」と不満をいう者がいるが、バイトではない。ギャラは時給と違う。
新人はノーギャラであっても、現場に出れば勉強になる。
授業料を払ってもできない経験ができるのに、さらに時給をくれというようなもの。別の新人は「今回はノーギャラで出たので、次回はギャラ下さいね! 他の役者はギャラもらってるんですから不公平ですよ〜」と笑いながら言った。冗談でもこれはアウト。彼の勉強になるので呼んだだけであり、ギャラを払って呼ぶほどの実力はない。それ以降、声はかけていない。
会社員やバイトの世界ではない。いや、会社だって実力や経験が認められ、給与に反映される。その意味でその新人はバイト感覚でしかない。誰もができる仕事しかしないので、何をやっても時給換算してしまう。その価値観を映画界に当てはめるのは間違い。努力し、いろんな経験をし、多くの人の支持を得る。他の人にはできない実力や素養がある。それが評価されるのが映画の世界。そして実力がある者が集まるからこそ、いい作品ができるのである。
「夢見る力」シリーズ 「実力があれば認められる....というのは間違い。決め手は趣味?」 [再・opinion]
シナリオライターを目指す若い人から
よくアドバイスを求められる。「脚本家になりたい!」といいながら、シナリオを書いたこともない人が多いのが現実だが、努力している人もそこそはいる。助監督を続けながら、シナリオを書く努力家もいる。これまでも、それらの人たちに向けた応援文を書いたが、今回は少し違う方向で書いてみる。
ある助監督君。撮影撮影の毎日で体力的にも大変なのに、オリジナル・シナリオを書き続けている。完成したらプロデュサーに見せて「映画化したいんです」とアプローチする。が、ほとんどが却下。「そうか....まだまだ、オレに実力がないんだ。次は、誰もが映画化したくなる面白いシナリオを書こう!」と前向きにがんばっている。
が、プロデュサーのほとんどはシナリオを読めない。映画化するのはベストセラー漫画か小説。で、ないと企画会議を通せない。オリジナルを映画にしようなんてまず考えない。そんな人たちにシナリオを見せても乗ってくる訳がない。なのに彼は「オレの実力がまだまだ」と考えてしまうのが痛々しい。
同じく小説家を目指す若い人がいる。
原稿が書き上がると出版社を訪ね、編集者に読んでもらう。が、こちらも何だかんだで採用されない。「実力がないから認めてもらえないんだ....」と毎回、落ち込んでいる。が、それも少し違う。編集者は映画のプロデュサーよりずっと読む力がある。「表現力が貧しい」と言われれば、それは正解。けど、出版されなくても落ち込むことはない。
これは漫画でも同じなのだが、編集者という人たちは頭のいい人たちが多く、小説や漫画をよく読んでおり勉強家。だが、こんな問題点がある。
あの大ヒット作「リング」も当初は
どこの出版社でも「???」という反応。出版されることはなかった。が、角川の名物編集者といわれる個性的な人が気に入り、出版。大ベストセラーとなった。京極夏彦さんの小説も、ある編集者が気に入って出版したが、「あの人じゃなきゃ、絶対に出さないよ」とあちこちで言われた。でも、これも大ベストセラーとなる。
つまり、編集者Aさんが「ダメ。これは出版できない」といっても、Bさんが「これは面白い。出版したい!」ということがあるのだ。もし、持ち込み原稿をAさんが読んだら、そこで終わり。たまたま、Bさんが読んだら出版!ということになる。要は編集者というのは実力ある人を選ぶのではなく、ある程度は実力がある作品で、大事なのは趣味。
だから、趣味が合う編集者と出会えるかどうか? が大きい。あの宮部みゆきさんの「魔術はささやく」だって、原稿を何ヶ月も読んでもらえず、保留のままだった。その後、別の出版社に持ち込み世に出たと聞く。「ドラゴンボール」の鳥山明さんだって、何度も原稿持ち込みしたけどダメで、その編集者の隣席の編集者が読んで気に入り掲載、大人気になったと聞く。
シナリオライターも同じだ。
オリジナルは映画化されることはまずないが、その物語テイストがプロデュサーの趣味に近ければ別の形でも、仕事が舞い込むことがある。結局は趣味! そんなことで作家はデビューしたり、消えて行ったりする。なので「オレの実力がないから....」と悩んだりするのは本質を突いていない。ダメでも「趣味が違うだけ」と自信を持とう。
そして「誰でも映画化したくなる力あるシナリオを書こう」なんて、考え方は間違い。基本は趣味なのだ。誰もが賛同する作品なんて本来ありえない。だから、「ウケる作品を書こう」とか「この路線が今は売れるから」なんて姑息なことを考えて書くのもダメということ。
自分が書きたい作品を書き、
そこに趣味&志向がにじみ出したとき、同じ志向性を持つ人が、その作品を認めてくれるのだ。もちろん、表現力があった上でのことであり、実力もないのに「そうか、趣味で書けばいいんだ」というのは間違い。実力は大切だ。
これらのことは新人作家だけの問題ではない。製品でも、食事でも、玩具でも、サービスでも、同じ。お客さんの志向と合うときに売れる。でも、「誰もがおいしいと思う料理を作ろう」とか「今、***が流行だから」という思いでは成功しない。
シナリオや小説と同じで、自分はこれが好きだ!という自分の趣味や思いがそこに反映されてなければ受け入れられないのだと思える。もっと言えば、自分は何が好きなのか? どんな思いを持っているのか? それをしっかりと把握せねばならないということ。「好き」ということ「趣味」ということ、とても大切だということ。改めて感じる。
人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?! [再・opinion]
【人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞くとよく分かる?!】
映画製作でスタッフを集めるとき、注意していることがある。問題ある人をチームにいれないこと。だが、簡単な面接で相手を知るのはむずかしい。初対面では「オレは結構やり手ですよ! ははは」というようなアピールをする業界人がいるが、仕事をするとまるで駄目ということがある。が、その人の本質が分かるのには月日がかかる。分かる頃にはトラブルを起こしている。
なので初対面で相手を知るときは、よく「どんな映画が好きですか?」と訊く。タイトルを上げてくれれば、そのジャンルで趣味が分かる。アクション映画か? ラブストーリーか? SF映画か? コメディか? そこから趣味思考が分かる。それは当たり前だが、映画の感想を聞くとその人の思考レベル、洞察力、潜在意識も分かる!?
先に書いた記事でも、シナリオを読んでくれた映画プロデュサーが「どんな感想をいうか?」で、その人の読解力や想像力が分かる話をしたが、同じ方法論だ。「作品にリアリティがないんだよな」という批評をする人がいる。それを専門的に説明できる人はOK。「警察組織は捜査するときに基本的に2人1人組で行動し、所轄署は....」とかマニアな知識を披露してくれるのなら分かる。が、そうでなければ問題がある。「リアリティがない」という言葉をそのまま解釈すれば「嘘っぽくて現実味がない。取材をせずに、いい加減に描いている」という意味。厳しい目で見ているように思える。
が、多くは「そんな奴いる訳ないだろう?」とか「そんなことありえないよ!」と安易にいうことが多い。なぜか? その言葉を使う人の多くは、自分が知らない事実や経験したことがない現実が出てくると実感できず「そんな訳ないだろう?」と感じる。外の世界に興味はない。だから、想像もしない。
自分の経験値にないこと、つまり自分の知らない事実と出会うと「リアリティがない」というのだ。だから、脚本を映画関係者に読んでもらっていたデビュー前。その言葉が出て来たら「この人の感想は参考にならない。物語を十分に想像できていないのだから」と判断した。
そして、その種の人は「自分は映画関係者だ。素人じゃないぜ! という自負があるのだが、あまり努力をせず、勉強していない人が多い。意地悪な分析だが、言葉にはその人の背景や考え方まで出てしまう。そんなタイプ。映画ファンにも結構いる。「リアリティがない」と同じようによく使う言葉に「突っ込みどころが満載」というのがある。
さすがに業界人でこれをいう人はほとんどいないが、その言葉を使う人は洞察力がないことが多い。「突っ込みどころ」というのは、矛盾点のことを指す。「何でそうなるの?」「論理の飛躍ではないか?」「整合性がない」という意味だ。確かに安易に作られたドラマにはその種の展開が多く、シナリオ段階でしっかりと考えていないことがある。
ただ、その場合は「心理展開に無理がある」とか「ストーリー展開の飛躍が多い」等の言い方がある。それを「突っ込みどころ満載」という。だが、その人が指摘した映画を見ると「突っ込みどころ」ではなく、その人が展開を理解できていないだけのことが多い。背景を把握していないとか、伏線を見落としているとか。そのためにストーリー展開が分からなくなっているだけ。
もちろん、テンポの早い映画や複雑な設定の物語だと付いて行けないことや「え? 何でこうなるの」と思うことがある。だが、そこで「僕は大事な伏線を見落としたのかな?」とか「背景をよく理解できていないかったのか?」と自分の問題点を顧みるものだが、「私が理解できないのは、ストーリーに問題があるからだ」と安易に解釈していること。それが問題なのだ。
さらに「突っ込みどころかが満載」=>「満載」という言葉から、そのような矛盾点がたくさんあるという指摘。学生映画ならいざ知らず、プロの映画でそんなミスがたくさんある映画はやたらとない。「プロの作品なのだから、もしかしたら素人の僕が理解できていないだけか?」と思わずに「満載」といってのけるのは「俺はプロの問題点を指摘できるほど鋭い」という意識を持っているからだ。
だが、この種の人はたいていの場合は「見る力」が低い。映画作りの経験がある訳でもないのに、素人の自分が「優れている」と思い込んでいる。自分の能力や言動を顧みようという意識がない。そして事実ではないことを思い込みやすい性格でもある。オタクな映画ファンに多いタイプ。
映画を上から見下ろしていて、勘違いしている人が多い。映画レビューを見れば、これらの言葉をよく見かける。が、彼らは映画の本質や肝心な部分を見落としていることが多い。映画ファンというより、作品を否定することで自分の優秀さをアピールするためにレビューを書いている感がある。
あと、こんな人もいる。「この映画の結末は途中で分かった。あの程度じゃ駄目だよ」的な人。しかし、これも先の2つと同じ落とし穴がある。「自分だけ、オチが分かった」と思っているのだが、ほとんどの人が分かっていることがある。「他の奴は馬鹿だから気づかないが、オレは優秀だから分かった」的なニアンスがある。
このタイプは人に認められることが少なく、それでいて自分の能力は高い。なのに....と不満を抱えているタイプが多い。しかし、どんな分野でも何かを作ったことがある人は、人の作品を安易に批判しない。また、仕事への愛があれば、上から目線で批判はしない。
そして洞察力のない人、想像力のない人を映画製作に参加させると、いろんな意味で足をひっぱることになる。他のスタッフが理解できているのに分からない。意味のない努力をし、回りに迷惑をかける。自分の問題点に気付かず「シナリオが悪い、演出が悪い!」と言い張る。結果、トラブルとなる。だからチームに入れてはいけないのだ。ちょっと意地悪な分析だが、分かりやすいので紹介させてもらった。
だから、最初に会ったときに映画の話をする。「どんな映画が好きか?」聞き、特定の作品の感想を訊く。そこで先の言葉が出て来たら要注意。これは映画スタッフの話だけではない。映画を「見る力」も、世間を見る力も同じ。洞察力のない人は空回りしてトラブルを起こす。自分の非に気づかず、上から目線でまわりを批判して、誰かの責任を追求し始める。
学歴や出身地で人の力は分からない。だから、僕はそんな方法でまず、人の力や思考の仕方を知ることにしている。
30年前の映画は覚えているのに、1年前のドラマが思い出せない理由 [再・opinion]
映画とテレビドラマの違いって何だろう?
映画はお金払うけど、テレビはタダ?だし自宅で見れる。だから、テレビ見る? んー最近の映画はテレビドラマと大差ないものが多いので、それはそれで正解かもしれない。では、こんな質問。1年前の月9のタイトルは? 誰が出演していた? 思い出せるかな? こう訊いてすぐにタイトルを上げた人はまずいないだろう。
では、この質問。
青春時代に見た映画で最も思い出に残る映画のタイトルを上げて下さい。これは言えるだろう。僕らの世代なら「転校生」「時をかける少女」「アメリカングラフィティ」「ビッグウエンズデー」といろいろ出て来る。あらすじだって言える。キャストの名前もすぐ上がる。僕の世代にとって、それら作品は30年前のもの。なぜ、1年前の作品は思い出せないのに、30年前は思い出せるのか?
これは全ての世代に共通するのだが、
過去に観た映画は詳しく覚えているのに、テレビドラマはあまり覚えていないのだ。同じことはレンタルビデオ(DVD)店にも言える。30年前どころか50年前の映画でもDVDがあるのに、10年前の連ドラマが置かれている店はほとんどない。「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」が今も店頭にならぶところはまずない。
なぜか? 借りる人がいないからだ。
30年前の映画のDVDを借りる人はいても、1年前のテレビドラマを借りる人がいない。だから、店側は撤去してしまうのだ。こう考えて行くと見えて来る。テレビドラマは当たれば、もの凄い数の人が見る。でも、それは放送中と、その少しあとまでで、1年も経つと見向きされなくなり、すぐに忘れてしまう。
それに対して映画は
高視聴率のドラマほど多くの人は見ないが、何年経っても観た人は映画のことを忘れず。30年以上経ってもレンタル店にDVDが並び。歳月を超えて見られるのだ。何が違うのか? テレビドラマだって感動的な作品はあるのに、なぜ、1年経つと忘れてしまい。タイトルさえ思い出せなくなるのか?
思うのだが、テレビドラマはドラマとは言え、
ニュースと同じように「情報」だからではないか? それに対して映画は「体験」? ニュースで悲しい事件が報道されれば、胸が詰まることがある。でも、それもすぐに忘れる。情報だからだ。受験勉強で覚えた「知識」と同じようにそのときだけで、すぐに忘れる。
対して映画は「体験」。
映画館の暗闇で物語を観るというのは、情報ではなく、観客が主人公と共に恋や冒険を体験するのだ。悲しみや喜びを共有する。だから、感動を忘れない。情報や知識ではなく、体験。そう考えると、情報は1年もすれば忘れるが、体験は一生忘れない。映画とテレビドラマも同じものではないか?
それとテレビドラマは時間に追われて
作らねばならない。1週間に1話放送する。そのためには早く撮影する必要がある。台詞さえ間違わなければOKという現場が多い。もちろん、映画並みに粘って、時間もお金もかけて作るドラマもある。例えば「北の国から」そんなドラマは忘れないが、ほとんどのドラマを忘れるのは、お手軽に作っているからという事情もありそうだ。
それに対して映画。
近年はテレビドラマの方が予算がかかっていたりするのだが、それでもこだわりを続ける現場が多い。女優が泣くシーンで泣けないと、テレビではすぐ「目薬!」となるが、映画では泣けるまで待つというチームも多い。予算がなくても、時間がなくても、ギリギリまでがんばる。
もちろん、テレビの深夜ドラマ以下の
お手軽映画というのもあるが、それはすぐに忘れられる。つまり、映画を覚えているのは、映画人たちがブラック企業も顔負けの安い賃金で長時間働き、少しでもいいものを作ろうとするからではないか?
つまり「思い」なのだ。
テレビドラマは「視聴率」と「クレーム」をもの凄く気にする。テーマやメッセージにこだわってられないことも多い。いかにしてスポンサーを集めるか? 視聴者から苦情が来ないか?が重要となる。それに対して映画はメッセージやテーマを伝えるために製作される(テレビ局が作る映画は別。あれはドラマの延長戦)お金がなくても、伝えたいものがある!という監督らの思いが籠る。そこが大きな違いではないだろうか?
実は80年代には素晴らしいテレビドラマ
がたくさんあった。一生忘れない物語をいくつも見た。山田太一、倉本聰らが脚本を書いたドラマだ。なぜ、忘れないか?それは作家たちの強烈な「思い」があったからだろう。こう考えて行くと、大切なのは「思い」ということ。それを実践するには今のテレビ界では作り辛い。映画の世界は貧しくても、それが可能。「思い」を込めて作られた映画は胸を打ち、30年経っても感動を忘れない。そこがドラマと映画の大きな違いだと思える。