「才能」という言葉を僕は使わない。だって才能なんて存在しないから [再・opinion]
よく人はこういう。「俺、シンガーソングライターになるんだ」「お前、才能あるのか?」「私、女優になりたい」「才能ないとなれないぞ」そんな会話を嫌というほど聞いて来た。人はこう思う。「歌を歌うにも、絵を描くにも、小説を書くにも才能がいる、才能がなければできない」
では、こう訊こう。「才能があれば小説が書けるのか? 才能があれば芝居ができるのか?」もっと言えば、才能があれば何もしなくてもギターが弾けるのか? シナリオが書けるのか?答えはーNO。楽器を弾くには長期に渡った練習が必要。最初から弾ける人はいない。シナリオだって何本も書いて練習しなければ書けない。では、人はなぜ、「才能がないと」なんていうのか?
天才ギターリストがいる。
その人は若い頃からもの凄い時間練習をして、何よりギターに人生を費やして来た。だからこそ、天才ギターリストと言われるようになった。演技派と呼ばれる俳優がいる。が、彼も若い頃から名演技をしていた訳ではない。時間さえあれば演技について考え、役についてあれこれ想像し。人生のほとんどを芝居のために費やして来た。だから今、演技派俳優と呼ばれ尊敬される。
そういうことなのだ。「才能」ではなく「素質」を持った人が年月をかけてそれを磨き、鍛錬して、「演技とは何か?」「音楽とは何か?」を自問自答して、どんな芝居をすれば人は感動するか? どんな歌を作れば人をハッピーにできるか? 自分にはどんな芝居が、自分にはどんな歌が合っているのか? それを考え続け、試行錯誤した人が、人に感銘を与える仕事をすることができる。その努力を知らずに見ている人が「凄い! 感動した。何であんな芝居ができるのか? 何であんな歌が歌えるのか? きっと才能があるからに違いない」と思うのである。
その努力や覚悟。情熱を想像できない人が、
理解するために「才能」という言葉を使い理解しようというのだ。そう考えると分かりやすい。結局、「才能」なんてないんだ。が、僕も若い頃によく「俺には才能があるのか?」「才能がなければ映画監督にはなれない」そんなことを悩んだことがある。でも、「才能」なんてなかった。成功している人たちは、どの業界でも命がけで血の出る努力をしている。そうして作品を生み出す。その背景を知らない人が「自分になぜできない?」と思ったときに「努力したのに駄目だった」と悔しいときに、「才能」という便利な言葉を使うことで、納得するのだと感じる。
素質、資質はある。どんなに努力しても役者になれない人。小説を書けない人はいる。残念だがそれは無理。その素質、資質を持つ人が、どれだけの時間をかけて、それを伸ばすことに全てかかっている。数字で言えるものではないが、5%の資質しかない人が100の努力をすれば、10%の資質がある努力しない人を追い越すことはできる。
思い出すのはチャップリンの言葉。
「才能とは99%の努力と1%の閃きである」(実はジョンレノンも同じことを言っている!)本当にその通りだ。ただ、自分が賭ける以外の多くのものは犠牲にせねばならない。安定した生活とか、恋愛とか、平凡な家庭生活とか、一般の人が手に入れられる小さな幸せを犠牲にせなばならない。そこまで出来る人だけが認められる。過酷な報われない戦いでもある。その戦いを知らない人が「才能あるからいいよな〜」というのである。
「俺は才能がないから駄目だ」と言う前に、99%の努力をしてみるべき。「お前は才能ないからな」と決めつけるなかれ。人生賭けて挑めば、輝く作品は生まれてくるのだ。「才能」ではない。「努力」なのだ。
2016-06-16 08:45
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