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この街で打ち合わせ! [私の日常]

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 2日続けて、この街へ

 

「ファンです!」という人たち。でも、その俳優の映画は見ない? [映画業界物語]

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もう何年も前になるが、ある町で映画のロケをした。出演している人気俳優のNさんがオフの日に町のカフェを訪れた。そこの店長は彼の大ファン。大喜びでサインをもらい、店に飾ったという。その話を聞いて「それなら!」と、僕はポスターと大量のチラシを持って、その店を訪れた。

「今月の*日から公開。頼むぜ!」というと、店長は「うちの店員は全員Nさんのファンですから!」と笑顔で答えてくれた。店から映画館までは1分足らず。チラシも置くだけでなく、客に配ってくれそうだし、店員さんは毎日でも映画を観に行ってくれそうな勢いだった。

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映画が公開され、あの店のチラシもなくなっただろうと思い、再度訪ねてみた。ら、チラシは結構、残っていた。そして「店長さん。映画観てくれた?」と訊くと「忙しいんで、まだ行ってないんですよ」との答え。チラシも店頭に置いているだけで、積極的に配ってくれてはいないようだった。

本当にNさんのファン? そんな気がした。が、レジの横に彼のサインは飾られている。それはウソではないようだった。映画は大ヒットして、3ヶ月のロングランになった。で、三たび店を訪れてみた。チラシは相変わらず残っている。そして店長はいう。

「忙しくて観てないんですよ〜」

店は夜の7時まで、定休日もある。映画は夜の部もあり。毎日上映している。3ヶ月もやっていて行けない訳がない。チラシはすでに他のチラシの下に埋もれている。Nさんのファンといいながら、応援している訳ではないことを感じた。その後、ある人気俳優がその件を解説してくれた。

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「ファンです!という人は多いのよ。ま、ウソじゃなくて、サインすれば喜んでくれる。でも、多くの人は私たちの映画や芝居を観に来てくれるほどのファンでなく、たまたまテレビで観ていて、あーこの人いいなーというレベル。私たちの出た映画のチラシを配ってくれたり、宣伝してくれたりというファンは本当に一部。ほとんどはファンだといいながら、ドラマや映画も観てくれない。そのくせ会うとサインしてほしい。写真を撮ってほしいと言われるの...」

なるほど、そういうことか。その店の店長は確かにNさんが好きで憧れを持っていた。といって、わざわざ彼の映画を観に行かない。チラシを配り、彼の映画をより多くの人に観てもらいたいとも思わない。個人的に思うのだが、ファンを名乗り、サインをもらったのなら、それも地元で撮影された映画に彼が出ているのなら、映画を観に行くのが筋ではないか? それも3ヶ月も上映していたのだ。

だが、有名俳優さんはこういう。「ファンってほとんどが、そんな感じよ。ファンはありがたいけど、同時に信頼すると大変な目に遭う。忙しくてサインを断ると、私のブログに悪口を書き込んだり。結構大変」そんな話を聞くと悲しくなるが、近い話は僕のまわりでもよくある。それを思い出すと分かる部分が多い。その後、その店を訪れると、閉店していた。客が来ないので潰れたようだ。

結局、店長や店員たちは映画を観たのだろうか? 経営危機で借金に奔走。時間がなかったのか? でも、店員たちは時間があったはず。それもまた「ファンです!」という人たちなのだと感じる。


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新作ロビーカード紹介 ゆまグループ! [LC]

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新作ロビーカード紹介 ゆまグループ!


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ランチ [私の日常]

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 野菜がたっぷり。

 というか、野菜のみ!?



「向日葵の丘 1983年夏」太田隆文監督ー舞台挨拶 in 横浜 [舞台挨拶]



「向日葵の丘 1983年夏」太田隆文監督ー舞台挨拶 。

横浜黄金町・ジャック&ベティ。

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2015年10月24日(土)。

監督単独では最後と­なる舞台挨拶。

俳優たちの現場での活躍。

知られざる行動を紹介する。

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向日葵の丘ー監督日記  ラストシーンが駄目なら全てが終わる? [インサイド・ストーリー]

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そんな訳で映画の音楽にはこだわる。先にも書いたように先輩監督たちの多くは映画に音楽をつけるとき、音楽家さんにこう注文する。「ここはちょっと間延びしているシーンだから、音楽を入れてほしい」「ここは何か悲しい曲を入れて、主人公の悲しみを伝えたい」「ここは何となく後ろで音楽が流れていればいいから」中には、音楽家に全てお任せという監督もいる。

で、僕の場合を紹介する。どちらが正しいということではない。監督にもいろんなタイプがあり、いろんな方法論がある。ただ、僕の場合。よく知る先輩監督たちとは少し違う。

まず、編集中から映像に既成の曲を当ててみる。映画やクラシックでイメージする曲を探し、それを貼付ける。そして編集が終わったら、物語の盛り上がるところは音楽も盛り上がるように曲も編集。出来る限り、シーン終わりに音楽も終わるように着ける。

通常は編集が全て完成してから、音楽をどうするか?考えるのだが、僕の場合は編集時からどこに音楽を流すを考えて、音楽が生きるような編集にする。というのも、編集時に音楽を考えないと、ぎちぎちに編集してしまい、音楽が入る余地がないほど詰めて編集してしまう。映像だけで見ていると間が持たないからといって詰めて行くのではなく、音楽を入れることでそのシーンが完結するところもあるのだ。

台詞のないシーンでも、俳優の出てこない風景カットでも、そこに音楽という第二の主役が登場することで、意味ある場面になることもある。映画の主人公は俳優だけではなく、音楽も、風景も、音も、ときとして主人公になるからだ。それを俳優の演技だけで、編集してしまうと、何だか、テレビのホームドラマのように、会話だけで成立している物語になってしまう。


そうやって編集を終え、仮の音楽を着けたら、音楽家さんと打ち合わせ。個々の音楽について説明する。仮に着けた音楽はあくまでも仮であり、それに似た曲を書いてほしいという意味ではない。方向性、テイスト、匂い、そんなものを伝えるためのものだ。で、音楽家さんはこう訊く「この金管楽器はなくてもいいですよね?」うん。仮の曲にはトランペットが入っていても、その楽器を使うことがリクエストではない。また、逆に「ここはピアノで」とお願いすることもある。

そして、音楽が始まる位置。終わる位置を説明。絶対にフェードアウトで終わらないようにお願い。それから大事なのは音(SE)との兼ね合いである。映像に映っていないが、犬の声「わおーーーーーーん」というのを入れて、一拍置いて、♫ダダーーーンと入るとかいうことも伝える。

「ゴッドファーザーPARTⅡ」のラストも、落ち葉がパラパラパラパラ.....と風に飛ばされて行く音があって、あのテーマソングが入るのがいい感じだったし、「PARTⅢ」では最後、マイケルの叫び声はオフになって、インターメッツォが流れるのが鳥肌ものだった。音との兼ね合いも大事。

ただ、本来、音楽家さんはそこまで指定されるとやりにくい。位置は指定するにしても、だいたいのイメージだけ伝えて、自由にやる方がやりがいがあると聞く。とはいえ、全然、イメージの違う曲を書いて来られても適わない。それだけで、全てが崩壊するということがある。

あるヤクザ映画。1曲だけクラシックを使っていて、とても重厚でいい感じなのに、他の場面はギター1本。映画のクオリティを数段下げていた。全編をクラシックにすればもっとよかったのに....と思ったことがあるが、どんなにがんばって撮影しても、音楽がマッチしないと、そこまでの苦労は全て水の泡となる。

もうひとつ大事なのは、音楽が始まるタイミング。これが決まると、見ていてもの凄く感動する。特にラストは大切。主人公、振り返る=>音楽が始まる=>見上げる空=>白くフェードアウト=>クレジット=>同時に、音楽盛り上がりメーンテーマ!これはひとつタイミングがズレてもアウト。センスの戦い。


海外では、コッポラが凄い。さすがイタリア系で父親が作曲家で指揮者だけのことはある。イーストウッドもうまい。が、どちらかというと、アメリカよりヨーロッパの方がセンスがいい。「太陽がいっぱい」のラストなんて本当に凄い。「セニョール、リプレー」と呼ばれて、アランドロンが立ち上がり、微笑む。そしてフレームアウト。ニーノロータの曲が盛り上がり、「FIN」の文字。もの凄いセンス。

日本では北野武監督。「HANA-BI」の終わり方は本当に鳥肌もの。逃亡犯のたけしさんと、岸本加世子。波打ち際のベンチに座る。音楽が流れ始める。カメラは引きになり、パーンして海を映す。音楽が終わり波の音だけが聞こえる。「これで終わるんだなー」と思っていると、ピストルの乾いた音が二発「パーンパーン!」驚いている少女の顔(北野さんの本当の娘)フェードアウトではなく、いきなり暗転。悲壮な音楽がゆっくりと始まり、クレジット。「参りましターーー!」という見事なエンディング。これは音楽と音の見事なコラボで初めてできる芸当なのだ。

そんなふうに、音楽もただ着ければいいという訳ではない。付け方で大感動したり、「だから何?」と不満しか残らない終わりになることもあり。大きな差が出るのだ。エンディングも、1度音楽が終わり、クレジットが始まり、エンディングテーマという形もあれば、その曲が続いたまま、クレジットに入ることもある。

「ストロベリーフィールズ」は映画の最後のシーンの途中で主題歌が流れ出し、そのままクレジットに入る。「青い青い空」では物語最後に流れる曲のまま、クレジットが始まる。「朝日のあたる家」も同じだ。

本当にラストシーンというのは大事で、それで外すと、そこまでどんなによくても、全てが駄目になり、印象が悪くなる。「新幹線大爆破」という映画。めちゃめちゃ面白いのに、ラストシーンの音楽の入り方が全てをぶちこわすセンスのなさ。それに対して「太陽を盗んだ男」は見事な幕切れ。音楽の入り方だけで、名作となるとさえ思える。

そんな感じで「向日葵の丘」も音楽を依頼。MA時にスタジオで映像と合わせる。音楽が素晴らしければ、映像×音楽=3倍にも4倍にもクオリティが上がる。その意味でも、MA作業は楽しみだ。。


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京都の方の感想『向日葵の丘 1983年・夏』に2回叩かれ1回押される [観客の感想]

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京都でご覧になった方の感想。紹介させてもらいます。

『向日葵の丘 1983年・夏』に2回叩かれ1回押される

本日京都みなみ会館で向日葵の丘 1983年・夏を夫婦揃って拝見しました。見終わってしばらくの間、私は身動き出来ませんでした。映画を見ると言うより学生時代にお世話になった今は亡き料理屋の大将とじっくり話をさせて頂いたようなそんな感覚です。叱られて、励まされて、背中を押される。いや、頭を叩かれ、肩を叩かれ、そっと背中を押される。そんな感じです。

多香子の父を見ていて、私は自分の父親に感謝しなければならない事を思い知らされました。封建的で、子どもが言うことを聞かなければ平気で殴るような父でしたが、不思議と何かに熱中し出すとそれを応援してくれたものです。それが当たり前だと私は思っていました。

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私が父親になって、多香子の父の様な失敗を犯さずに済んだのは、そんな父の影響が大きかったように思うのです。でも私はそんな父に感謝の言葉すら言っていません。今言いたくても、もう父はこの世にいないのです。私はこの映画に思いっきり頭を叩かれたような気がしました。

私は子供たちが中学高校生になったころから結構やりたいことを好き勝手に選ばせていました。そのことで、いろいろわがままを言われ正直後悔したことも1度2度ではありませんでした。でも親の思い通りに子どもを歩まそうとする愚にはまらず、子供たちの夢の邪魔をしなかったそのことについてのみ、この映画に肩を叩いてもらった様な気がしています。

最後に映画について。私の場合は映画ではなく記録映像です。私は子供たちが卒業してから綴るの出身校のクラブ活動の撮影のボランティアをずっと続けています。しかしながら歳月が過ぎ、もう子供たちのことを知る後輩はいません。そんな中でボランティアを続けていくことに正直疑問も感じていました。

しかし、高校時代に撮影した映画を涙しながら見る多香子・みどり・エリカの3人の姿を見て、すぐには撮影している意味など見えないけれど、やがて必ずその記録映像が人を勇気づける、それが映像の魅力なのだと教えてもらったように思いました。もう映像記録を撮り続けることなど止めてしまおうと考えていた私の背中をこの映画は「撮り続けなさい」と、そっと押してくれたのです。

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映画についての細かい解説や評価は、私よりももっとこの映画について詳しい方がたくさん書き込まれる事でしょう。私が駄文を連ねて申し上げたい事は1つ「この映画を作った全ての方々に感謝申し上げたい」と言うことです。

人生に迷い、親として迷い、結局迷走したまま親としての役割を終わろうとしている今、この映画は『映画』と言う名の触媒を使ってすべての人に送られる応援歌ではないかと思えてならないのです。


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次のステップに進む時期か? 向日葵の宣伝活動を振り返る [私の日常]

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【次のステップに進む時期か? 向日葵の宣伝活動を振り返る】

この半年以上。毎日、Facebookとブログ。そしてTwitterの更新を行ってきた。全て「向日葵の丘」の告知、情報発信。本来は配給会社が行うものだが、スタッフも予算も限られている。彼らは本当にがんばってくれているが、そこに僕が加わり宣伝すれば、より多くの人に映画を観てもらえるのではないか?と考えたからだ。

その上、ネットを活用した宣伝は費用がかからない。自宅でできる。渋谷の駅前の交差点でチラシを巻けば、多くの人に情報が届くが、映画に興味のない人に配っても無意味。その意味でFacebookは僕や映画に関心を持ってくれている人が読んでくれているし。その種の情報を求めている人がブログやTwitterを見るので効果がある。

しかし、1日4時間。ほぼ毎日情報を発信するのは本当に大変。同時進行でパンフレットやポスターの制作。応援団の皆さんとのやりとり。配給会社との打ち合わせ。舞台挨拶の準備。当日の司会進行。予告編と特報の編集。ポスター用の情報ビラ制作。お世話になっている方々への連絡。お知らせ。お礼状等もあり。生活のための仕事は全くできないまま本日まで来ている。

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監督や俳優が宣伝をするのは「サービス」、ギャラが出るものではないのが映画界の慣習だ。だから、ほとんどの監督はマスコミのインタビューや舞台挨拶に参加するだけで、あとは次の仕事にかかるのが通常。しかし、僕はじっとしていられないので一緒になって、毎回宣伝してしまう。前作「朝日のあたる家」では配給会社社員1人と僕と2人で、ほとんどの宣伝を担当した。

それで全国の映画館で上映。各地でヒット。今も海外では上映会が行われている。下手な宣伝マンより、僕が行動する方が映画を伝えることができるかも? また、宣伝部がブログを書いても「宣伝」と思われて、なかなか読んでもらえない。が、監督なら「撮影現場はどうだったの?」とか映画ファンが興味を持ってくれるのがメリット。

だが、さすがに疲労困憊。こうして毎回、過労で倒れて数ヶ月寝込む。撮影準備。撮影。編集。宣伝と数年間休みなしに続くので、どこかでダウンする。医者には毎回「過労をなめたらダメだよ。休まないと本当に死ぬよ」と宣告されるが、なかなか休めない。

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そんなこんなで今回もようやく終わりが見えてきた。昨日の横浜再公開で監督単独の舞台挨拶は終了。残るは11月、大阪十三で仲代奈緒さんと舞台挨拶をするのみ。それで舞台挨拶は全て終了となる予定。宣伝活動もそろそろ終焉の時期だ。

振り返り、いろいろと反省しているのだが、ネットを使った宣伝でどれだけの効果があったのだろうか? 毎日4時間。他の仕事もせずに宣伝活動。それで多くの人に「向日葵」の存在が伝わり、映画館に行ってくれれば文句はないが、それで何人が映画を観てくれたのか?

ゼロではないと思うが、数千人ではないだろう。数百人? 数十人かもしれない。そう考えるとむなしくなる。ただ、映画館には行かないまでも、応援してくれている人たちへの活動報告にはなっている。「監督は今、金沢かあ!」「え、もう名古屋。藤田朋子さんと舞台挨拶。すごいなー」と報告を喜んでくれる。

意味はあると思いたい。が、同時に思うのは、僕は宣伝マンではなく、監督業であるということ。毎回、こんなふうに1年近くも宣伝活動に専念していていいのか?という不安もある。本来やるべきは、よりよい映画を作ることだ。そのためには、取材も必要、本を読み、映画を観て、いろんな経験をしなければならない。が、その時間が全く取れない。

新聞を読む時間も、テレビニュースを見る暇もない。どんどん世間が分からなくなってくる。安保法制反対デモも一度取材しただけだ。いろんな人から連絡があっても、返事をする余裕さない。外の世界の人たちと出会うことができない。そんなで新しいシナリオが書けるのか?と思えてくる。

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しかし、宣伝活動は間もなく終わる。いくつかの地区での上映は続くが、配給会社は最後までがんばってくれる。そろそろ僕は次のステップに進まなければならないのではないか? 毎日3つも4つも記事を書いてFacebookやブログに上げる。単に**市で「向日葵」公開と情報を発信するだけでなく、「向日葵」の裏話等も紹介することで興味を持ってもらうためだ。

ただ、そのために膨大な時間を割かねばならない。いくら記事を書いても原稿料は出ない。それがネット。そのために4時間以上。まず、その時間を別のことに使うべきではないか?と考えている。読みたい本が部屋に積み上げられている。観なきゃいけないドラマや番組がビデオデッキにいっぱい。部屋も片付けないと間もなくゴミ屋敷だ。

それではいけない。できれば半年くらいFacebookをお休みにした方がいいのかもしれない。ま、半年とは言わず1ヶ月とか。すでに「向日葵の丘」は多くの人が観てくれた。もちろん、これから「観る」という方もいるが、年内には上映は終わる。来年に向けた何かをスタートせねばならないと感じている。


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