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埼玉・深谷シネマ  「向日葵の丘」公開が終了。ありがとうございました。 [公開終了後]

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 御陰さまで、埼玉・深谷シネマ

 「向日葵の丘」公開が終了しました。

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 あと、公開日未定の広島を残して、全国の上映は終わりです。

 ただ、今後「上映したい!」という映画館が出て来たり

 大ヒットアンコール上映というのもありえるので

 その辺は決まり次第に告知します。

 まずは、ここまで本当にありがとうございました!

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【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】 [My Opinion]

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【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】

以前、こんなコメントが書き込まれた。「目薬を使ってはいけない」ただ、それだけ。その理由は書かれていない。昨年、目の手術をしたあとに、化膿止めとして渡された目薬のことを記事にしたときのことだ。こんなのもある。「そんな食品を食べない方がいい。あなたの健康を損ないますよ」似たようなパターンは多い。

これらをコメントした人たちの気持ちを推察すると、「目薬はいけない」=>危険だ=>医学的にも言われることだ=>そのことを知らない=>教えてあげないと=>「そうだ。それが親切というものだ」そんなふうな思いからコメントしたのだろう。

しかし、この人は大いなる思い込みがあり、手順、そして状況を理解していない。例えば、この人が医薬関係に精通していて、それは友人間ではよく知られている場合は、よく知る友達が目薬を多用しているのを見て「目薬を使ってはいけない」と言えば、その友達も「彼がいうのなら、そうかもしれない....」と思い、止めるかもしれない。

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ところが、Facebookにそんなことをコメントすると、どうなるのか? その人が医薬品に詳しいか?どうか? 僕は知らない。もしかして、その人の「基本データ」を読めば、「薬剤師」「医薬メーカーに勤務」と書かれているかもしれない。だとしても、それをいちいち読まない。そんな人からいきなり「目薬を使ってはいけない」と言われても????と思うだけだ。

Facebook友達ではあるが、コメントをくれたのは初めて。何よりコメント文章が不親切だ。もし、その人が僕の映画のファンで「監督の健康が心配だ」と思っていたとして、さらに医薬メーカーに勤務して、目薬の弊害に詳しくて「監督のためにも進言しよう」と思ったとする。だが、それでは伝わらない。その背景を飛ばして「目薬を使ってはいけない」とだけコメントして来ても、単なるヘンなヤツとしか思えないからだ。

何より「使ってはいけない」という命令形でコメントしてくることに違和感を持つ。さらに言えば、僕の記事を読んでいないことは明白。通常の目薬は確かに問題があり、効果がないことがよく指摘される。僕自身も眼科で医師から「市販の目薬を使うくらいなら水で目を洗う方がいい」と言われたこともある。

だが、記事を読めば手術直後であり、化膿止めの薬であると分かる。季節は夏。もし、傷が可能したら大変ことになる。何より通常の目薬とは違う。化膿止めなのだ。もし、それでも「使ってはいけない」というのなら、それなりの理由を提示すべき。なのに「使ってはいけない」とコメントするのは、記事を読まず「目薬さして寝ます」というタイトルだけを見て「あー目薬ってよくないんだよなー知らないのかなーこの人? 教えてあげなきゃ」というレベルでコメントしたと思える。

けど、もし、この人が知識豊富で何らかの理由で化膿止めでも危険と伝えたのであれば、親切心でコメントしようというのであれば、そこからまず説明するべきなのである。でないと「怪しいヤツ」「偉そうなヤツ」という印象しか持たれない。目薬だけではない。2番目の「そんな食品を食べるべきではない」も同じ。

そんなコメントを現実に親しい訳ではないFacebook友達に書き込まれるのは、例えればレストランでとなり合わせた客から「それ食べない方がいいよ」と注意されるのと大差はない。親切とは思われず、むしろ嫌がらせ。頭のおかしなヤツということになってしまう。


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目薬や食品だけではない。放射能についても、原発についてお、安保法案も、集団的自衛権も、TTPも、教育問題も、全て同じ。もし、相手が無知だったり、間違った知識を持っていたとして、自分が詳しくても、よほど親しい友人でなければ、先の人たちのような説明不足のコメントをしても、嫌がられこそすれ、喜ばれることはない。もし、コメントするなら、自分がいかにその分野に詳しいか?を説明。さらに、その人に対してどんな思いを抱いているか? 「応援している」「心配している」だからこそ、あえてコメントしたことを伝えなければ嫌がられるだけだ。

そんなことは当然なのだが、その種の人が多い。それはなぜか? というと、多くの人が「Facebook友達」になると、それは「現実の友達」とイーコールだと勘違いしてしまうから。友達承認をされれば、もう友達になったと思い込むからだ。考えてほしい。現実だって、誰かと知り合っても、そこからスタートで、様々な会話をし、行動を共にし、いろんなことが分かってきてこそ。アドバイスができたり。また、相手の助言を聞くようになる。

つまりFacebook友達の「承認」は友達関係をスタートという意味であり。「友達」になったということではない。にも関わらず、自分のことを相手が何も知らないのに「目薬を使ってはいけない」などとコメントする。本人は親切のつもり。だから、コメントを削除されたり、返事がないと、ムカつく。「親切で言っているのに、何てヤツだ!」と思う。が、問題はコメントした側なのだ。互いのことを知らないのに、コミニュケーションもほとんどないのに、アドバイスをするからだ。

せめて、自分がなぜ、目薬に対してこだわるのか? なぜ、わざわざコメントしたのか? その辺の理由を詳しく書くべき。同様にこんな問い合わせも良く来る。「友達承認」をしたとたんに「映画はどこで観れますか?」とか「何時から上映ですか?」「俳優の***さんってどんなですか?」尋ねて来る人がいる。


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それらも同じ。「承認」したからと、友達になった訳ではない。それを現実の、それも5年10年の付き合いがある友達関係だと勝手に解釈しているので、そんなことが言える。それは仕事で名刺交換したばかりの人に電話して「あなたが建設したビル。いつオープンするんだっけ?」「君が仕事したA社って、どんな感じの会社?」と訊くようなものだ。

それらを聞くには、仕事で何度も行動し、互いのことが分かって来て、ちょっとしたときに、仕事の合間に世間話と聞くなら許されるだろう。けど、名刺交換の翌日に電話やメールで尋ねて来られても「お前は誰じゃ?」「何でそんなこと教えなきゃならん!」となる。なのに、ネット上ではそれが分からなくなり、勘違いする人が多い。

僕は当初、おかしなコメントがあっても、相手の背景を考え、対応を考えた。が、何の役にも立たない助言や無礼な提言に対して、いちいち説明したり、返事をする時間がもったいなく思えて来た。なので「大きなお世話」「読んでて不快」というとき。第三者が読んで誤解するというときは即、削除することにした。

一部の人かとは思うが、たぶん、彼らは現実の中では良識を持ち、行動しているはず。にも関わらず、なぜ、ネットとなると、暴走してしまうのか? 常識や礼儀を忘れて、勘違いなことをしてしまうのだろう? どこかで、人とコミュニケーションしているのではなく、パソコンと会話している気分になっているのかもしれない。機械と対話している感じ? でも、機械を通して人と会話。人に意思伝達をしている。それをどこかで勘違いしてしまうように思える。


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読みかけ本が、いっぱい!とほほ。 [読書の話]

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読みかけ本が、いっぱい!とほほ。


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「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある [My Opinion]

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【「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある】

「何でそんな古い発想しかできないんだ?」と年下のスタッフを見てイライラすることが時々ある。が、よく考えてみると、そのスタッフは僕よりは若いがもう40代。決して若くはなく、もうオジさんと呼ばれる年代。そういえば昔、ある人から言われて「へーーそうだよなあ」と思った言葉がある。

「10代は新しいことを当然のように吸収する。20代はちょっと努力がいる。30代はかなり苦戦する。40代は拒否して、そんなものは必要ない!といい出す….」

これは当時、僕のまわりにいる人たちを見ても納得したものだ。例えば、ヒット中の歌謡曲があったとして、10代は皆知ってる。20代は「CMでかかってるやつね?」といい、30代は「今度、チェックしておく」40代「そんな歌知らなくても、困らないんだよ!」と怒り出す。要は、歳と共に脳が老化して、新しい情報を受け入れにくくなっているということなのだ。スティーブン・ジョブスが若い頃にいった言葉でも、思い出すものがある。

「体験は人を助ける。いろんな経験をすることが人生を助ける。でも、経験はレコードに溝を彫って歌を記録するのと同じで、一度記録すると消すことができず、その後もそれの経験に縛られてしまう。それが結構、やっかいなんだ」

僕が20歳ころのインタビューで読んだので、もう30年以上前。当時、僕は深く意味を理解していなかったが、次第にその意味が体験を通じて理解して行く。そう、一度、経験したこと。教えられたことを人は繰り返し。新しい方法論が出て来ても、それが受け入れられないのだ。映画の撮影現場ではそれが顕著に分かる。古い監督はフィルムにこだわり、ビデオとかハイビジョンを毛嫌いした。

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しかし、ビデオの方が遥かに安上がり、現像代もプリント代もいらない。撮ってすぐに再生できる。編集も楽。なのに、古い監督たちはフィルムがいい!と譲らない。もちろん、クオリティはまだまだフィルムの方が上で、最近の4Kカメラになって、ようやく追いついて来た程度。

だが、いろんな面を考えると、ハイビジョンはとても便利。そう説明しても、古い映画人は「やっぱ映画はフィルムなんだよ!」と言い張っていた。フィルムだけではない。演出、撮影、編集等の方法論も伝統的なやり方を重んじて、新しい方法論を持ち出すと、「どちらがいいか?」ではなく、「それは邪道だ」「映画はそんなやり方はしない」という、もう絶対的な思い込みがあり、新しい方法論を否定していた。そして誰一人として、新しい方法論に「時間の短縮」「製作費の有効活用」等の利点に対して、論理的に答えるものはなく、「映画はそれじゃ駄目なんだよ!」と意味の分からぬ反論。それも感情的になることが多かった。

要はそういうことではなく、昔から使っている慣れ親しんだフィルムで仕事をしたい。新しい技術を学ぶのは嫌….ということ。先の友人の言葉でいうと「40代は拒否する」というやつなのだ。今ではフィルムで撮影する日本映画は1年に1−2本。フィルムで撮りたいなんていったら、会社に「何考えてんだ!」と怒られてしまう。そんなふうに近年の映画界は新しいもの、新しい方法論を受け入れないと仕事もできない。生き残ることもできない状態になってきた。にも関わらず、僕より若いスタッフ。

といっても40代が撮影でも、演出でも、編集でも古い価値観を振り回すヤツがいる。そして、歳取った先輩たちと同じようなことをいい、頑になる。何で? 若いのに? と思っていたら、実は彼らを育てた先輩たち、或いは彼らが長年仕事をした先輩というのが、結構、高齢の人で、もちろん、僕よりずっと上であることが分かる。つまり、僕が「この人頭古いなあ」と思っていた先輩たちから直に、映画技術を教わった世代なのだ。その先輩たちから伝授される技術、方法論こそが「映画作り」と若い頃から思い仕事をしてきた。ジョブスのいう「一度、刻まれた記憶は消せない」ということなのである。

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そのため、若いのに古い価値観をふりまわし、現場の進行を阻害するのだ。僕より上の世代。古い価値観を振り回す先輩たちが近年、どんどん引退して、ようやく自由にやれるようになって来たなあーと感じていたのに、次世代に同じ古い価値観を振り回すタイプがいようとは、思いもせず困惑することがある。基本、映画というのは各パートで、上の人に師事して勉強しながら仕事をする。だから、先のようなタイプも出て来るのだ。監督業も昔は、助監督システムで、ベテラン監督に師事。10年ほど助監督をしてから、監督になったのだが、今は助監督経験なしに、自主映画等を経験して、いきなり監督ということがほとんどだ。

僕もそんなコースで監督になったので、古いベテラン監督を見て、演出を学んだ訳ではなく、8ミリ映画で実践。自分なりにあれこれ考えて、或いは聞いた話や読んだ巨匠のエピソードから学んだ方法論で演出する。そのために、ベテランの方々観ると「何だあれは? 映画の作り方じゃねえなあ。駄目だ。ありゃ。うるさくいってやんないと、ろくなものが作れねえよ」と思い、あれこれうるさく言われたのである。だが、彼らの主張する王道、伝統的な映画製作では、これまでと同じ、よくあるタイプの映画しか作れない。

おまけに、製作費、撮影期間はどんどん削減されて、旧き良き時代の映画作りとは同じ条件で製作はできないのだ。にも関わらず、お金も時間もないのに、古い価値観で映画を作るので、過去の作品以上のものができない。それに気づかず、古いやり方を繰り返していた。そこで、僕は自主映画時代に試行錯誤して体得した時間も製作費も節約しながら、クオリティを上げる方法論を実践したのだが、多くのベテランスタッフらの逆鱗に触れ、よく説教されたものである。


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でも、それがいよいよフィルムが使われなくなり、編集もノンリニアしかなくなり、あらゆる意味でデジタル化が進んで今日では、過去のやり方が実践できなくなってきた。むしろ、僕がやってきた新しいスタイルを使う若手監督も増え(別に僕が開発した訳ではない、ハリウッドスタイルと自主映画のいいとこ取りの方法論だ)そちらが、マジョリティになって来た訳である。また、「邪道」といわれ「これじゃロクな映画にならない」といわれた僕の映画が彼らの不安に反して観客から高く評価され、彼ら自身も認めざるを得ない完成度になったことから、次第にうるさくいう先輩たちもいなくなった。

それでも次世代にその先輩たちの価値観を引き継いだ人たちもいるのだが、こうして新しい時代がやって来ることを感じる。次は僕のやり方が古くなり、さらに下の世代から「太田監督は古いんだよな〜」と言われるようになり、疎まれる時代が来るのだろう。いずれにしても、伝統も大事だが、時代の移り変わる中で大切なのは、その時代に相応しい方法論を使うことだ。映画だけではない。ビジネスでも、音楽でも、演劇でも、公共事業でも、コンピューター産業でも同じはずだ。

それを妨げるものこそ、実は人の老化。脳の老化なのだ。新しいものが受け入れられないということは、時代から振り落とされることでもある。昔はそのスピードがゆるやかだったが、今はもの凄い早さで時代が進む。昔は歳を取れば威張ってられたが、これからは若い人の方が時代を生抜ける力があるということ。その中間の世代はこれから大変な思いをするだろう。もちろん、僕を含めて。

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シーズン5の後半が出てる! [映画の話]

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あーーー、

シーズン5の後半が出てる!

なのに、全部貸し出し中〜〜〜

悔しイーーー


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久々に朝ご飯を外で! [私の日常]

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久々に朝ご飯を外で!

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そしてランチ。


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