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俳優残酷物語①ー素晴らしい演技をしても撮影後にカットされることがある? [映画業界物語]

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一般の人は「撮影された場面は全て使われる!」と無意識に思っていることが多い。だが、実際は苦労して、時間をかけて撮影した場面でも、映画館で上映されるときはカットされることがある。

「それは演技が酷かったからでしょう?」と思うかもしれないが、そればかりではない。素晴らしい演技をしても映画本編に使われない幻のシーンとなることもあるのだ。映画はリズムは大切。トントントン。トトトトン!というように、理屈ではなく、リズムで見せて行く事も大事。だから、シナリオ上では重要なシーンでも、撮影をして繋いでみると、そこだけテンポが悪いと、その場面ごとカットすることもある。

他のシーンにも出ている俳優はいいが、その場面しか出ていない俳優もいる。その場合。撮影に参加したにも関わらず、映画には登場しない。という残酷な結果となる。その俳優の演技が下手でカットされたのなら、本人の責任でもあるが、何も罪はないのに出番が完全カット。映画には出ていないことになる。

リズムやテンポだけではない。映画の上映時間も関係する。2時間を超える映画は映画館が嫌がる。1日4回上映ができなくなるからだ。2時間を超えると1日3回上映となり、儲けが減る。当然、映画会社も儲けが減る。だから、編集時に2時間以内にするように会社は指示することがある。

2時間10分の映画なら「10分切れ!」と言われたりする。完成版が2時間10分だとすると、すでに無駄なシーンやテンポの悪いシーンはなかったりする。演技の酷い役者のシーンも、すでにカットしている。そこから10分を切るのは本当に厳しいのだが、そんな理由でバッサリといくつかの場面がカットされることこともある。

となると、それらシーンに出ている俳優も映画に出ていない事になる。真夏に暑い日に撮影したシーンでも、体調が悪い日に無理して参加していても、一世一代の素晴らしい芝居が出来た場面でも無惨にカットされる。

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そして、それら場面に参加しているエキストラ。太田組なら市民俳優の方々も一緒にカットされることになる。そのときは本当に辛い。「あーー、この場面で後ろにいる***さん。何度も差し入れくれたなあ〜。県外から参加してくれたのにカットしなきゃいけない....」ということがある。

もし、それが映画館の都合で、上映時間を短くしろというのなら戦うが、映画のテンポを失わず、完成度を高めるためのカットなら、涙を飲んで切らねばならない。その場面を残せば、映画のリズムが失われ、或はダラダラとして観客を退屈させることになるからだ。クオリティも落ちる。そんなときは涙を飲んでカットする。

俳優さんはカットされることがあることを承知している。かなりショックを受けるが、理解してくれる。が、一般の方は撮影に参加すれば自分は絶対に映っていると思い映画館へ行く。でも、映っていない。それを考えると、本当に辛いが、それもまた映画作り。

主役だろうが、大物俳優だろうが、それは同じ。バッサリとカットされることがあるのも映画。でも、それはより良き作品を作るために大事。分かっていても毎回、胸を痛める。

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永田よしのりの映画講座⑤(終)~自分の好きな映画を応援するためには~ [映画業界物語]

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 by 永田よしのり(映画文筆家)

 映画宣伝にお金がかかるのことは前回に書いた。

 ただ、最もその映画を劇場で観る一般の人たちによってでしか出来ない宣伝方法というものがある。
 その映画があまり一般的に知られていなくても、自分たちが劇場窓口でチケットを買い、そこから劇場でかけられる日数が増えていけば、より一般の人たちの目にその映画は触れる機会が多くなる。そこで自分たちが気に入っていたその映画を、最初は知らなかった他の観客たちが気に入ってくれたとしたらどうだろう?

 もしかしたらその映画は口コミの話題が拡散して、劇場に人が来るようになり、とんでもない興行成績を稼ぎだすことだって有り得るのだ。

 ちょっと違う比喩だが、日本人は世界的に行列に並ぶのが苦にならない人種なのだそうだ。しかも行列に並ぶことによってステータス感を感じる民族なのだって。変な民族だ。でも、並ぶことで時間を浪費しているとは思わないのだから、そこで並んで何かを得ることの方に価値を見いだすのだろう。

 まあ、僕は行列に並ぶのは大っ嫌いなので、劇場試写などでも1人で行っている時は絶対に列に並ばない(何人か、もしくは担当編集者と連れ立って行く時には一緒に並ぶ。そこまで僕は意固地ではない)。
 例えば1時間も並ぶなら他の場所で他のことが出来るからだ。人の行列が動き始めてその終わりが見えてから、列につく。それで画面が多少見づらい場所でも構わない。

 まあ、話は違う方向に行ってしまったので、閑話休題。

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 さてさて。映画上映の話だった。

 つまり前売り券がたくさん売れている事実があれば、映画館で1日数回の上映が決まっていくし、公開日数も増えていく、という実に単純明快な話は理解していただけただろうか。

 自分の気に入っている、これから公開される映画があるならば、まずは劇場窓口で前売り券を購入すること。

 それがその映画の寿命を延ばしたり、映画自体にステイタスをつけていくことになるのである。
 興行というものにあまりロマンはないが、そこから先、映画が公開されてからは、その映画の持つ力でロマンが生まれていく可能性は充分にある。

 その手助けをするには、まずその映画の興行を上げていかなくてはならない。その先鞭が実は劇場窓口での前売り券購入だということは理解していただけたと思う。

 そして、その先、その映画に付加価値を付けていくのも、やはり映画を観た人でしか出来ないことなのだ。

 映画を成長させていくのは、結局その映画を観た人でしか出来ないことであり、その力とは劇場で映画を観て、その感動や面白さをその人たちが自分たち以外の外側に伝えていくことなのだ。 

 それが出来るのは、映画を観るためにお金を払って、その映画を観るために時間を作っている人でなければいけない。

 本当は僕らのように映画を試写で観て、なんだかんだ言っている者は、ただの映画たかりのようなもの。映画がなければ何の存在価値もない。

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 現に2011年の春からしばらくは映画のお仕事は数カ月なかった。人々は余暇に当てている時間なんてなかったし、映画のことを気にして過ごす必要性がなかったからだ。

 日々を生きる中で最低限必要なことを選んで取捨選択していけば、趣味の世界からまず削減されていくのは自明の理。
 
 そんな世界で生きているのには、多分他のことで生きる選択肢が思い当たらないから。
 でも、僕は自分を映画評論家などとは思わない。

 ただ、多分、一般の人たちよりは何十倍も映画を観てきただろうから、その中で発見した映画論を示しているだけのこと。

 そして、その映画について語ることで、映画がより広がっていけばいいなあ、と思っているだけなのだ。

 今回のように、映画が映画館で上映される仕組みも、一般の人たちには知らないことだろうと思う。
 そうしたことは、多分あまりメディアには書かれないことだろうし、気軽に興味のある映画を映画館に休日などに観に行く人には、考えもしないことかもしれない。

 ただ、知らないよりは知っていた方がいいはず。

 そして、自分の好きな映画が、より長く映画館で上映されるために出来ることが自分たちにもあるのだと知って欲しかったのだ。

 映画は、劇場でお金を払って観ている人が育てていける(それがその人にとって生涯愛する作品になったりもする)ものなのだと、僕は思っているのだ。 


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永田よしのりの映画講座④~変革してきている宣伝方法~ [映画業界物語]

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by 永田よしのり(映画文筆家)


 インディペンデント系列作品では、無料で使えるネットやツイッター、フェイスブックなどのSNSを最近は利用して作品情報を拡散することが多くなってきている。

 これは今風の口コミというやつだ。

 そこで情報を得るといっても、さらにその作品に興味を持っていない限り、その作品の情報を入手することはまた困難。いわゆる方法はあっても、とっかかりがないと、そこにたどりつけないのが、ネットの最大の弱点であり難点なのだ。

 もちろん、それ以外でも新聞広告や雑誌、地上派などへの露出は宣伝になる。

 ただ雑誌の場合は今でも出演俳優のグラビア的人気や普段の各メディアへの露出で、掲載の基準というのは制限されるし、新聞広告などは全国紙の1面で100万円単位で広告費がかかる。

 映画雑誌などの専門紙でも、よほどの引っ掛かりがないと表紙になったり特集記事を組まれることは難しい。

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 そして、今でも宣伝の最大のツールは地上派テレビ番組のスポット。出演俳優や監督が地上派テレビ番組に顔を出して作品の宣伝をするだけで、不特定多数の何百万人の人がその情報を得ることが出来るわけで、それは草の根的に一生懸命宣伝している者からしたら、垂涎の方法だ。

 しかしながら、そこにはお金がかかる。もしくはテレビ局とのパイプが必要になるので(テレビ局製作の劇場作品の場合、公開時期が近づくと1日に何回もその局の情報番組やバラエティ番組に、その映画関係者たちが出演してくるのを見るでしょう。あれは自社作品の宣伝なのだ)、なかなかに難しいのだ。

 さて、ということは、我々が観たい映画を見つけて、それが独立系インディペンデント映画だった場合どうすればいいのか?
 
 実は一番の方法は劇場窓口で前売り券を購入することなのだ。
 
 例えば前売り券が500枚ほど売れた映画と、3000枚売れている映画ならば、映画館はどちらの映画を優先するだろうか? という実に単純なパワーバランス。

 そこでしか〃いい映画〃の基準を映画館は見つけられない。
 儲かる映画が映画館にとってはいい映画なのだから。

 そして、前売り券が多く売れているということは、例え映画館側が「この映画知らないなあ」と思っていても、劇場で上映せざるをえないことにも変化していくわけだ。

 もう、映画の善し悪しなどは関係ない、全く情けなくも悲しい話だが、それが興行というものの実情であり現実。

 しかしながら、映画に対する付加価値というものは、その映画を観た観客の思いで変わっていくことは間違いなくあるのだ。


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永田よしのりの映画講座③~テレビ局主導の劇場版映画製作~ [映画業界物語]

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by 永田よしのり(映画文筆家)


 スケジュールとチケットについて、前回までは書いた。今回は映画の宣伝について書いていこう。
 大手映画会社の場合は、その作品を宣伝するための宣伝費も確保でき、その宣伝スポットによって一般大衆の興味をひき、劇場に観客が訪れる、ということになるのだが、独立系インディペンデント映画ではその宣伝費をなかなか捻出することが出来ない、という絶対的な事実がある。

 ここ10年ほどは、純粋に映画会社が製作する映画というものは減ってきていて、地上派のテレビ局が出資して、映画製作するという方向にシフトされている。

 これは地上派でのテレビ放送ありき、の映画製作であり、それなくしてはテレビ局の映画製作出資はありえない。

 だから、ついこの間劇場でかかってたよなあ、と思うものでもすぐに地上派で放送できてしまうのだ。そこで、放送枠からスポンサーをつけてスポンサー料を稼ぐわけだ。

 ひと昔前は、映画が劇場で公開されたら、少なくとも上映期間が終わってから半年経たなければ、映像ソフト化しない、というルールがあった。

 テレビ放送も同じで、新作映画を地上派で放送するのには、どんなに早くても1年後、というお約束があったのだが、今ではそんなものは存在しない。

 なぜなら、テレビ局が、出資して製作、劇場でかけているからで、そこにはテレビで放送してスポンサー料金を稼ぐという目的があるからだ。つまり、人々の記憶が新しいうちに、劇場に上乗せして稼ごうという意志があるため。

 もう、二重取りに近い。

 映画館でお金を払って映画を見たら、その数カ月後にその映画がテレビで放送されるのが分かっているならば、普通は映画館には行かないだろう。

 だから、テレビ局製作主導のものは、テレビドラマの続編やスピンオフものが多く、最近では最終回を劇場版で、などという手法もまかり通っている。

 つまり、映画を映画として大事に扱おうという考えは全くないのだ。あくまでお金を稼ぐ手段のひとつとして、テレビドラマを劇場でかけているだけのこと。そこでそこそこの集客が認められたならば、テレビ放送する時にスポンサー収入を取りやすくなる。

 そんなものに〃映画愛〃がないのは、当たり前だろう。

 そして、そうした製作費を出してくれる所がなければ映画を製作することが出来ない、というのも事実。

 だから、映画はどんどんテレビドラマ化してきてしまっているのだ。このテレビドラマ化というのは、自宅で見ている画面サイズと同じものを劇場で見せられてる、という意味と、テレビドラマの製作スケジュール順守の傾向が、劇場作品にも現れ始めている、という点についてのこと(もちろん全てがそうだとは言わないし、テレビドラマだとしてもクオリティの高いものは必ず存在しているのも事実。だが、めったにはないと思う)。

 スケジュールが絶対の現場では、役者は最初に決められたこと以外はまず出来ない。
 そこには役者自身が演技にそれを発露させる面白みはまず生まれないのではないだろうか。

(つづく)


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永田よしのりの映画講座②~映画入場券を買うことにより売上は決まる~ [映画業界物語]

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~映画入場券を買うことにより売上は決まる~

 by 永田よしのり(映画文筆家)

 前回は簡単に、映画館で映画が上映されるためには、まずスケジュールありきの場合が多い、ということを書いた。

 さて、ここでちょっと考えておきたいのが、年度ベスト・テン作品を選出する時に基準がある、ということ。

 これがよく分からないのだが、日本アカデミーではまず東京地区において、有料で初公開された40分以上の作品、という定義がある。つまり短編映画はその選考基準にはならない。
 そして通常の宣伝のもとに1日3回以上、かつ2週間以上継続して上映された作品、というものがある。

 つまり、モーニング・ショウやレイトショウ作品はその選考基準にならないよ、と言っているのだ。
 ということは、必然的に大手プログラム・ピクチャーが対象ですよ、ということなのだ。
 おかしいでしょ?

 大手映画会社が製作・公開したものだとしても、明瞭に言ってしまうが、ゴミのような映画もけっこうあるわけで、それとは逆に独立系インディペンデント系列の映画でも素晴らしい映画はあるのだし。
 まあ、簡単に言うと、興行で儲からない映画は劇場ではかかりません、かけませんよ、と暗に言っているわけだ。

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~映画入場券を買うことにより売上は決まる~が年間ベスト・テンの候補として挙げられることになる。
 もちろん、独立系インディペンデントの映画でも、観るに値しないようなマスターベション的映画はごろごろしているし、全く理解できないような実験的映画もたくさんあることは事実。それらはまず客が入らないし、映画館は儲からない。

 そこに価値がないとでも言っているかのように。
 実は映画館が儲からないという点では、1本の上映時間がやたらと長いものも実は敬遠されがちなのだ。

 それは1日にかける回数が減ってしまうから。
 2時間弱の映画なら1日4回かけられるが、3時間ある映画は1日3回しかかけられない。
 必然的に劇場で売るチケットも減るからだ。

 さて、次に劇場チケットについて説明していこう。

 ひと昔前は劇場で売るチケットが映画館に入場するための手段の全てだった。
 だが、今はインターネット、プレイスポット、チケットガイド、映画館窓口、とその入手手段の幅は広がっている。

 劇場窓口でチケットを買うとおまけがもらえるので、わざわざ劇場窓口で買うということにこだわる人もいるだろう。

 実はこの劇場窓口で映画チケットを買う、という手段が、映画館にとっては一番ありがたい。
 なぜならば、他の販売方式の手数料がかからないし、ダイレクトにチケットの枚数売上を管理しやすいからだ。

 ということは「この映画の前売り券が何枚売れているから、何日上映しても大丈夫」というような劇場側の目算もたてやすくなるのだ。

 まあ、チケットを劇場で売るためには、その映画がいつから公開されるかのスケジュールを映画館側と交渉するという映画製作・宣伝側とのやりとりもあるのだが(これが一番面倒で大変で理不尽なことが多いようなのだが)、それはまた別の機会に紹介するとしよう。

(つづく)


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永田よしのりの映画講座①〜上映スケジュールありきの映画館?〜 [映画業界物語]

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 「向日葵の丘」撮影ルポでお馴染み、映画文筆家の永田よしのりさんの記事。

 映画がいかにして映画館で上映されるか? 当たり前だと思っている裏にこんなことが!

 という記事。映画業界のシステム。かなり理不尽なものがあるが、それを記事にして

 紹介してくれる関係者はなかなかいない。しかし、作品への愛があれば、その辺の問題点を

 明らかにして、変えて行く必要がある。そんな思いある記事。許可を得て転載させてもらう。

 ぜひ、読んでほしい。


~上映スケジュールありきの映画館~

by 永田よしのり(映画文筆家)

 読者の方々はこんな疑問をお持ちではないだろうか?
「なんで、この映画は1日4回かかっているのに、この映画は朝だけとか、夜だけ1回なんだろう?」とか、「同じ頃に始まったはずなのに、この映画はずっと上映してても、あの映画はもうやってないんだろう?」

 なんて思うこと、たまにあるはず。
 映画というのは、個人個人に好き好きがあるし、どんなジャンルの映画が好きであっても、また好きじゃなくても当たり前。

 むしろ、百人が百人に面白い! と思われる映画を見つける方が難しいもの。
 だから、自分の好きそうな映画が長く上映されているとちょっと嬉しい気分になるが、逆にすぐに打ち切られていたりすると悲しい気分になったりもする(自分には直接的に関係なくてもね)。

 さて、ではここで映画館で映画が上映される仕組みを簡単に解説していこう。
 映画は製作されてから映画館で上映されるまでにけっこうな時間がかかる。

 例えば、2014年の春に撮影されたものでも、その後に編集や音響、細かい直しなどを経て、劇場で上映出来るカタチになるまでに半年くらいはすぐに過ぎてしまう(経たをしたら数年先なんてことも。それでも上映されればいいが、タイミングを逃してしまい上映されずに終わるなんてことも)。

 そこからすぐに劇場で上映なんてことはまずない。

 僕らマスコミにいる者は、そうして映画が出来上がってから宣伝の一環のために試写というものがあるわけで、まず観ないことには何も言えないから、なるべく試写には行くわけだ。

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 それでも、例えば人気のあるアニメーション映画(ジブリ作品とか細田作品や、「エヴァ」などの認知度があるものを例にしたとして)などは、なかなか作品が仕上がらずに、劇場公開ぎりぎりまで作業しているために、試写を観ることが出来ない、ということもままある。

 ということは作品が出来上がると、僕らが試写を観る時間もないまますぐに劇場で映画は上映されるわけで、それはすなわち、作品にはまず、絶対に動かせないスケジュールありきだということが分かろう。
 前述したように作品が出来上がってから数カ月、1年先に上映というものとは最初から上映のための仕組みが違うわけだ。

 こうした例はけして珍しいものではない。

 つまり、映画館で上映される作品には全てスケジュールというものがあるわけだ。
 そしてスケジュールこそが、映画が上映されるうえで、映画館が最も最優先することでもある。
 例えば、来年の8月に公開するために、製作を間に合わせなければならない、という縛りがまず作品にはあるわけで。

 つまり、映画館のスケジュール次第で映画は製作されているわけだ。だが、それは大手プログラム・ピクチャーだけのこと。

 東宝、東映、松竹、といった邦画3社、ワーナー、フォックス、パラマウント、ソニー、ディズニー、ギャガ、東宝東和といったあたりが、まずそうだろう。

 ということは必然的にそういった大手の映画会社が配給・宣伝する映画は1日何回も劇場でかかることになる。これらを普通の観客は映画の普通興行の形だとまず思うわけだ。

 しかしながら、映画は現在年間で800本以上が製作・公開されている現状がここ数年ある。
 800本もの映画を1年365日で劇場で順番にかけるなんてことは普通ありえないし、なかなかに大変。

 そこで、映画を劇場で公開するために様々な苦労や、やりとり、かけひきが製作・宣伝サイドと映画館との間で行われることになるのだ。

 (つづく)

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編集はセンス。それが一番欠けるのが年配の男性? [映画業界物語]

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撮影した映像を編集することで、演技の間を延ばしたり、縮めたりすることで、その演技をより良いものにする。或いは、不自然な演技を自然な演技にすることができる。「愛してる」と男がいったあとに、「私も」と女が答える台詞があったとして、すぐに「私も」というのと、少し間があった場合。その意味さえ違って来るからだ。

だが、「間」何秒あれば感じが出るか? そこに決められた答えは無い。編集するものの「感性」や「センス」で決めるしかないのだ。以前、ある映画で粗編したものをプロデュサーに見せたら。「この間は長過ぎる! さっさと、台詞を言わせた方がいい!」と指摘された。が、その場面は間を十分に空けないと感じが出ないのだが、その理由を言葉で説明するのはむずかしい。というより無理。センスの問題なのだ。

そのPがセンスがある人の場合なら「もう2秒。間が短い方がいい」「いや、1秒でいい」という具体的な議論ができるが、センスのない人であれば、どう説明しても理解してもらうことはできない。ただ、多くのPはセンスがない。さらに致命的なのはセンスのない奴に限って「俺はセンスがある!」と思っている。(もちろん、いいセンスのPもいるにはいるが、やはり少ない)

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センスがないことを指摘するのも難しい。指摘しても、そんなPに限って「センスがないのは、お前の方だ!」てなことを言い出す。まさか10人に見せて、間があった方がいいか? ない方がいいか? アンケートを取ることもできない。そんなセンスの問題が何十カ所も出て来て、昔はよく揉めたものだ。

総じて、センスの良さは若い人。そして女性に多い。もちろん、センスのない若者や趣味を疑う女性もいるが、明確に言えるのは一番駄目なのは年配の男性ということ。そしてPというと、見るからにセンスのないオジさんということが多い。80年代に日本映画を駄目にしたのは、その種の人たち。僕が監督業をスタートした頃はまだまだ、そんなタイプがいて悩まされた。(今も生存しているが)

しかし、そんな間の取り方で泣けたり、感動したりする。そこにセンスがないと、泣ける場面で泣けない。感動する場面で感動できないといことになる。僕は言い出したら聞かず、その映画のときも自分の編集で押し通した。Pからは「誰もが席を立って出て行く、最低の映画だ」と面と向かって言われた。勝負は一般試写。コメディなら笑いが起こればOK。感動ドラマなら泣けば合格だ。

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試写会では皆、号泣。拍手まで起こった。映画館公開されてからも場内は涙の連続だった。が、そのPは初号試写しか見ようとせず、(初号はスタッフと関係者が見るので、自分のパートの出来、不出来が気になり物語で泣く人はまずいない)その後も「これは失敗作だ」と言い続けた。

でも、その作品を見て「感動した!ぜひ、一緒に映画を作ろう!」というPと出会い仕事をした。なのに彼も編集になると「ここは違うんじゃないか?と言い出した。結局、Pという人種にセンスを理解させるのは不可能だと思えた。その後、プロデュサーは雇わず、僕自身がPをすることにした。

そもそも、編集に関してPがあれこれ指摘するべきではない。監督がこうだ!といえば、それを信じて応援する以外にない。もし、監督にセンスがなければ、1、2カ所くらい意見して直しても全体として失敗作になってしまう。それが分からず、今もセンスのない人があれこれ口出す話はよく聞く。でも、いつしか僕自身が最もセンスのないオジさんの年になっている。

「俺は違う」と思いながら、間違ったセンスで編集していないか? といつも考えてしまう。あのとき、僕の編集を無神経に批判したオジさんたちと同じで「俺は正しい」と思っているのではないか?そんな不安も常に付きまとう。編集はセンス。それを失ったらおしまいなんだ。


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シナリオに書かれた感動シーンをそのまま撮影しても、感動はできない? [映画業界物語]

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映画のむずかしいところは、シナリオで読むと感動的なシーンでも、それを完成した映像でも見ると大したことがない場面になっていることがある。

というのも、シナリオは文章、映画は映像、もともと表現方法が違うので、同じことを文章と映像で表現するのは違ってくるのだ。もちろん、シナリオを書くときは、映像になった形を想像して書くのだが、やはり机の上で考えるのと、実際に俳優が演じているものを撮影するのとでは違ってくる。

いくら知恵を絞って考えても、現場で撮影してみると全然感動できないシーンになることもある。編集しながら、その理由を考える。先に上げた文章で読むといいけど、映像にすると駄目な場合。

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分かりやすい例を上げると宮部みゆきさんの「火車」とても素敵なミステリー小説だが、映像化すると最悪だった。2時間ドラマのスペシャルで見たが似て非なるもの。これは典型的な例だが、小説は想像させるのが醍醐味であり、映画は見せるのが勝負。そこで全てが崩れていた。

別の理由も考えられる。大したことない台詞でも、名優が言うと心に残るものになることがあるし。素敵な台詞でも、表現力が乏しい新人俳優が言うと何も感じない。駄目な俳優が演じると全てを壊してしまう。或いは作品の内容やテーマを理解しない役者が演じてもだめ。いくら素晴らしい言葉を発しても、理解していない人の言葉は観客には届かない。

或いは撮影方法に問題があることもある。クローズアップで俳優を撮れば感動に繋がるのに、引き絵で撮ってしまったことで感動できないということもある。その逆もしかり。「ロッキー」でコーチのミッキーと和解する場面は寄り絵で撮っていたら、白々しいものになり感動できなかった。引き絵でさりげなく見せるところが上手いのだ。

そんなふうに分析と反省をしても、撮影したもの以外の素材はない。その中で最高の作品になる編集をせねばならないのだが、毎回反省の連続。「もう少し長めに撮っておけばなあ」「このタイミング少しずらせばよかった〜」その繰り返し。

現在、編集中のシーン。撮影の日は雨で、寒い中、俳優部は夏服で撮影。1日がかりなのに、時間がどんどん経って行き。陽がほとんど暮れた頃にようやく撮影終了。最後の方は明らかに映像が暗い。なのに、この場面は映画内でもベスト5に入るはずの感動シーン。果たして盛り上がり、感動できる場面になるのか? 胃がキリキリ。。。

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【映画界で働く人たちから友達申請が急増の訳?】 [映画業界物語]

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この数週間。Facebookでまた、毎日のように「友達申請」がある。それらを見ていると多くが映画関係者。スタッフ、キャストの人たちが多い。意外だ。これまでは映画界の人より、一般の方。映画ファン。社会問題に関心のある方からの「申請」がほとんどだったからだ。

映画関係者の場合は、ほとんどが本物の友人か、以前仕事をした方。それがなぜ、多くの映画関係者が最近になって「申請」をくれるのだろう? と調べてみると最近、僕が書いた記事の影響だと思えた。

少し前に掲載した「俳優の卵たち」の話や「製作会社の悪業」のようなタイトルで、がんばる業界人の話を紹介した記事。それらを載せたブログを確認すると、数千件のアクセス。多いものだと8万件アクセスというものがあった。

それらを読んだ業界の方々が共感したり、賛同したりして「申請」をくれたのだ。メッセージにもその種のことが書かれてある。「同じような経験をしました。本当に許せない。監督の意見に賛同します」とか「勉強になりました。僕もがんばります」というのもあった。

しかし、その種の賛同や共感が多くあるときは、必ず逆の反応も数少ないが来る。悪徳製作会社の話を書くと「そんなところばかりではない! 貧しい経験で余計なことを書くな!」とかコメントが来る。

が、僕は19歳のときから映画界で仕事をし、その後の海外留学を挟んで、帰国、脚本家デビューしてから、すでに20年。「貧しい経験」ではない。さらに全てが悪徳とは書いておらず、少ないとは言わないが、その種の問題ある会社は実在する。批判は当て外れ。

でも、多くは「本当にその通りだ」「負けないでがんばろう」「賛同します」というメッセージなので嬉しい。映画業界は本当に厳しく、多くが安いギャラなのに、愛情込めて作品を作るスタッフが多い。問題なのは彼らから搾取する製作会社とプロデュサーが多いこと。もちろん、心ある人もいるが、多くに問題がある。

同じことを考えている業界人が多いことが分かり「申請」は嬉しかった。これからも、厳しい業界でがんばる人たちの話を記事にしていきたい。

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映画監督の1日。こんな毎日を繰り返す? [映画業界物語]

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ここしばらくも、午前中に起きて通勤客がスマホを見ている午前8時から10時頃まで「向日葵」情報tweetをする。土日は会社がお休みなので、午後からFacebookとブログで「読み物」的な記事をアップする。本日も3つ上げた。が、晴れていると、皆、外出してしまいネットを見ないのでアクセス数は低い。本日は雨なので、多くの人が読んでくれただろう。

連日、そんな感じで、朝から5−6時間。ネットで「向日葵」宣伝をする。その辺でランチ。午後の部は「向日葵」の作業。先日まで公式HPにかかっていた。デザイナーさんと何度もネットでやりとりをして、写真や文章。レイアウトを決めて行く。1ヶ月ほどかけて先日完成。現在はオープンしている。こちら=>http://himawarinooka.net

その前はプレスシート、チラシ、ポスターと今年に入ってからずっとその作業が続いている。本来は宣伝会社が全てをやり、完成1歩手前な段階で監督に見せ、許諾をもらうのが通常。だが、今回の宣伝会社は大きなところではなく、人でも足りない。なので、その辺は僕が担当した。あと、映画に関して一番、把握しているのは監督なので、本人が中心に進めるのが一番、確実で早いというのもある。

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以前、配給会社に任せたらパンフレットでロケ地の名称を間違えたり、最後のシーンではないのに「ラストシーン」と記述したり。担当者が作品に愛情がなく、お仕事だと思っているので、そんなことが起こる。パンフレットはお客様だけでなく、スタッフ&キャストにとっても思い出のアルバム。一生残るもの。いい加減な気持ちで作ってはならない。

そのパンフレットの製作も間もなく終了する。カラーで30Pほどの豪華なものになる。デザイナーさんのセンスが抜群で、女性ファッション誌のようなおしゃれなものができそうだ。自慢ではないが(と自慢すると)僕の映画のパンフはいつも良く売れる。何千部か刷るのだが、毎回完売。前作「朝日のあたる家」も2000部刷って完売し、さらに1000部刷り、それも完売した。

映画館で聞くと、映画を観たお客は平均的に10人に3人くらいがパンフを買うそうだ。が、僕の映画は2人に1人が買う時期もある。ま、パンフを買うというのは、その映画についてもっと知りたいというときなので、うれしいことだ。そのパンフも何度も写真や文章をやりとりしながら、進める。

その他、「向日葵」関係の作業をしていると、だいたい午後10時を過ぎる。そこから酒を飲みながら、夕飯を食べ、もう一度、パソコン前に戻って、宣伝tweetをしたり、Facebookをチェックして、夜中過ぎに寝るというのがパターン。たぶん、これが映画公開まで続く。何か生活費に繋がる仕事もしたいのに....。

でも、映画宣伝が何よりも大切だし。映画ヒットしても歩合もないのに、こうして監督業は続いて行く。



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