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映画監督は冷静ではいけない? 感情的でないと駄目? [映画業界物語]

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「監督〜ちゃんと冷静に仕事してくださいよ〜」とメールをくれたスタッフがいる。このFBで「毎日、泣きながら編集している」と書いたのを読んだようだ。彼が思うのは「監督たるもの感情に流されず、冷静に客観的に編集をするべきだ!」という意見なのだろう。

基本的には合っている。「この女優さん。好きだから長めにカット使っちゃおう〜」と、不必要に個人的な趣味で編集するのは駄目。このカット撮るのに撮影部さん苦労したのに、全く使わないと申し訳ないから残そう」とかいうのも駄目。だが、映画というのは、そもそも感情に訴えかけるもの。それを客観的に冷静になって作業しているだけではいけない。

そもそも、監督というのは観客の代表であり、一番最初に俳優の演技を見て、映像になったものも見る。そこでどう感じるか? 感動するのか? 笑うのか? 泣くのか? それが重要なのだ。どう感じたか?で演出や撮影方法が決まる。

逆に言えば、感動的な演技を見て、冷静に客観的に捉えるというのは、その芝居に感動できないということ。それは冷静なのではなく、感動できる感性がないのではないのだろう。だから、観客の代表であり、最初の観客である監督はある意味で冷静で客観的ではいけない。観客と同じ感性の目を持ってなければならない。

黒澤明監督の「静かなる決闘」の撮影中。主演の三船敏郎の演技にカメラマンは感動したという。あまりの感動に手が震えるので、カメラが揺れてはいけないと、手を離して撮影を続けた。そのとき「黒澤監督はどんな表情で見ているのか?」と思い、振り向くと、ボロボロと涙を流しながら三船の芝居を見ていたという。

また、「男はつらいよ」シリーズの撮影。本番中に渥美清さんのアドリブでスタッフまで笑ってしまい、NGが出ることがよくある。俳優でない人の笑い声が録音されるのはまずい。で、そんなとき大笑いして一番NGを出すのが山田洋次監督。それらのエピソードを聞くと、冷静で客観的というより、監督業は一番、感受性が強く、一番笑って、一番泣くタイプの人ではないか?と思える。

なのに、昔から映画界では「監督は冷静沈着。客観的に芝居を見なければ駄目だ」という人が多い。確かに、現場で取り乱したり、泣き崩れたりするのはマズい。でも、やはり、巨匠たちのエピソードを聞いていると「冷静」「客観的」より「感情的」な人が多い、少なくても編集作業ではその資質が必要だと思える。

自分で監督した作品は何度も映画館へ行き、どこで客が笑い、どこで泣くか? どこでどんなリアクションをするか必ず確認する。東京だけではなく、行ける限り全国の映画館へ行く。そこで客席には座らず、壁ぎわに立ち。スクリーンと客席を交互に見ながら、客の反応を確かめる。

客層も、若い人、学生、子供、男性、女性、お年寄りといろんな人を見る。面白いことに、どの県でも、どこ劇場でも、皆、同じシーンで笑い、同じシーンで泣く。これは国内だけでなく海外で上映しても同じ。そして、それら泣けるシーンと笑えるシーンは、皆、編集時に僕自身が泣き、笑った場面である。

つまり、自分が泣けないものは観客も泣けない。自分が笑える芝居はお客さんも笑うということ。自分は泣けないのに、或いは笑えないのに「観客を泣かそう」「笑わそう」と考えて、編集すると駄目。それが分かってから、編集しているときに、泣けるか?どうか? がかなり大事なポイントだと考える。で、今回、何シーンで泣けたかな? 果たして劇場ではどうか? 楽しみである。

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「ファンです!」という人たち。でも、その俳優の映画は見ない? [映画業界物語]

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もう何年も前になるが、ある町で映画のロケをした。出演している人気俳優のNさんがオフの日に町のカフェを訪れた。そこの店長は彼の大ファン。大喜びでサインをもらい、店に飾ったという。その話を聞いて「それなら!」と、僕はポスターと大量のチラシを持って、その店を訪れた。

「今月の*日から公開。頼むぜ!」というと、店長は「うちの店員は全員Nさんのファンですから!」と笑顔で答えてくれた。店から映画館までは1分足らず。チラシも置くだけでなく、客に配ってくれそうだし、店員さんは毎日でも映画を観に行ってくれそうな勢いだった。

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映画が公開され、あの店のチラシもなくなっただろうと思い、再度訪ねてみた。ら、チラシは結構、残っていた。そして「店長さん。映画観てくれた?」と訊くと「忙しいんで、まだ行ってないんですよ」との答え。チラシも店頭に置いているだけで、積極的に配ってくれてはいないようだった。

本当にNさんのファン? そんな気がした。が、レジの横に彼のサインは飾られている。それはウソではないようだった。映画は大ヒットして、3ヶ月のロングランになった。で、三たび店を訪れてみた。チラシは相変わらず残っている。そして店長はいう。

「忙しくて観てないんですよ〜」

店は夜の7時まで、定休日もある。映画は夜の部もあり。毎日上映している。3ヶ月もやっていて行けない訳がない。チラシはすでに他のチラシの下に埋もれている。Nさんのファンといいながら、応援している訳ではないことを感じた。その後、ある人気俳優がその件を解説してくれた。

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「ファンです!という人は多いのよ。ま、ウソじゃなくて、サインすれば喜んでくれる。でも、多くの人は私たちの映画や芝居を観に来てくれるほどのファンでなく、たまたまテレビで観ていて、あーこの人いいなーというレベル。私たちの出た映画のチラシを配ってくれたり、宣伝してくれたりというファンは本当に一部。ほとんどはファンだといいながら、ドラマや映画も観てくれない。そのくせ会うとサインしてほしい。写真を撮ってほしいと言われるの...」

なるほど、そういうことか。その店の店長は確かにNさんが好きで憧れを持っていた。といって、わざわざ彼の映画を観に行かない。チラシを配り、彼の映画をより多くの人に観てもらいたいとも思わない。個人的に思うのだが、ファンを名乗り、サインをもらったのなら、それも地元で撮影された映画に彼が出ているのなら、映画を観に行くのが筋ではないか? それも3ヶ月も上映していたのだ。

だが、有名俳優さんはこういう。「ファンってほとんどが、そんな感じよ。ファンはありがたいけど、同時に信頼すると大変な目に遭う。忙しくてサインを断ると、私のブログに悪口を書き込んだり。結構大変」そんな話を聞くと悲しくなるが、近い話は僕のまわりでもよくある。それを思い出すと分かる部分が多い。その後、その店を訪れると、閉店していた。客が来ないので潰れたようだ。

結局、店長や店員たちは映画を観たのだろうか? 経営危機で借金に奔走。時間がなかったのか? でも、店員たちは時間があったはず。それもまた「ファンです!」という人たちなのだと感じる。


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ブランドや肩書きに左右される人たち。尊敬と嫉妬の間... [映画業界物語]

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【ブランドや肩書きに左右される人たち。尊敬と嫉妬の間...】

これまでの僕の映画は新人がメインでベテラン俳優が脇を固めるというスタイルだったが、今回の「向日葵の丘」はトップランナーであり、国民的俳優である人たちがメインで活躍する初めての作品である。

その意味でこれまでとは違う反響があり、国民的な俳優の力の凄さを今も痛感している。「監督。今回は凄いですねー」「よく出演してくれましたね!」「監督の力が認められて来た証ですねー」とか、いろんな人にいろんなことを言われる。でも、やはり、トップランナーの実力は凄いものがあり。作品クオリティも高いものが出来た。その辺は本当に感謝だ。

しかし、同時にこんなことを言う業界人も出て来た。「有名俳優に出てもらって調子に乗ってないか?」「何か最近、お前、変わったなあ〜態度がでかいぞ?」とかいう業界の人もいる。僕は何も変わらない。そもそも、有名俳優に出てほしくてキャスティングしたのではなく、役にふさわしい俳優さんたちを選んだだけであり。有名かどうか?は本来関係ない。

何でそれを分かってもらえないのだろう?と、批判する人たちのことを考えると、彼らの関わる作品に有名俳優が出ていない人が多い。超低予算の作品が多い。だから「悔しい」「何であいつなんかの映画に! あんなスゴイ俳優が....」と思われ、批判の対象となってはいないか?

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僕自身は今までと同じ態度でいても「態度がデカい!」「傲慢だ!」と言われる(ま、傲慢なのには昔から。映画監督をやるような奴は皆、傲慢なのだ!)。業界だけではない。先日も、お世話になった方になかなかお礼状を書く時間がなかったのを、ようやく出すことができた。ら、「偉くなったので、私なんかに返事はくれないと思ってましたよ」と言われた。偉くなんかなっていないし、時間がないので連絡できなかっただけだ。でも、そんなふうに解釈される。

僕自身が大監督として認められ、評価されたのなら分かるが、有名俳優と仕事しただけ。なのに、こんなふうに妬まれたり、皮肉られたりするとは驚き。だが、先にも書いたが、多くの方が喜んでくれたり、映画が話題になったりとメリットも大きい。

それにしても人というのは、ブランドや肩書きに左右されること痛感する。東大を出ているから「偉い」。一流企業で働いているから「凄い」。そんなふうに、その人の中味を知らないのに、尊敬したり、妬んだり。今回は有名俳優がたくさん出ているというブランドとして、捉えた人が多いということ。でも、本当は肩書きやブランドではなく、その人がどう考えているか? どんな夢を持っているか? どう、がんばっているか? そんなことで評価すべきなのだと思う。

ただ、ものごとをしっかりと見ない人は、肩書きやブランドでものごとを判断する。それではいけない。それに振り回されても無意味。昔からそう考えているのだが......。

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【初日舞台挨拶に席を取れ!という友人。勘違いする困った人たち】 [映画業界物語]

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映画が公開初日になると、思い出す話がある。僕の作品が公開初日を迎える前、友人からこんな連絡が来た。

「初日の舞台挨拶。友人と観に行くので5席押させてほしい」

はあ? 何それ? 何でそんなことしなきゃいけないのか? もちろん、映画を観てくれるのは嬉しい。だが、初日舞台挨拶はたいていの場合は争奪戦になる。出演者のファンが前日から並んだりする。その頃はまだネット予約もなく、早く行って並ぶ!ことで席をゲットできたのだ。

それを並ばずに事前に手をまわして席を、それも5席も押さえろとはどういうことか? もし、友人が連れて来る人たちがマスコミ関係者で、映画の記事を新聞に書いてくれる。或はテレビで紹介してくれるというのなら宣伝になるので考えるが、単なる友人なら席を押さえることはできない。

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初日というのは映画公開にとってとても大事な日であり、ヒットするか? しないか?を決める。その日は関係者ではなく、一般の人に観てもらい、口コミを広げてもらうことが大事。そんな日に友人を呼んでも、映画の口コミは広がらない。友人はすでに映画の存在を知り、いずれかの機会に観てくれるだろう存在。初日である必要はない。

出演者のファンが初日に観てくれてこそ、その感動や喜びをあちこちで話してくれてこそ意味がある。その旨、友人に話すと、連れてくるのはマスコミ関係者ではなかった。「でも、彼らは友達が多いので、あちこちで宣伝してくれるよ〜」というが、どーだかなぁー。詳しく聞くと単に人気上昇中の出演者たちの舞台挨拶を観たいというだけのようだ。

彼らは友人が僕と親しいので、頼めば裏から手をまわしてもらえると思ったようだ。そして「友達が多いから宣伝する」とメリットがあるかのようにアプローチした。だったら、宣伝しなくていい。本当に観たければ他の人と同じように前日から並べ! 

何より、僕と親しいから、宣伝するから。という理由で「初日に席を取れ」というのはダメ。初日は関係者ではなく、一般のお客様のもの。その一般のお客様に来てもらうために、出演者が勢揃いするのだ。それを友人だから、関係者だからと裏から頼んでくるのは絶対に許さない。そう告げると友人はこういう。

「だったら、2日目にもう一度、舞台挨拶をしてよ。でないと、僕の顔が立たない!」

やはり、「監督とは親しいから、席を取らせるよ」とかいっていい顔をしたのだろう。だが、そもそも、監督の一存で舞台挨拶はできない。出演者のスケジュール。映画館側の都合。それらを何ヶ月前から配給会社が調整して行うのだ。数日前に言われてできるものではない。それ以前に単に若手女優を生で観たいだけの連中のために、2度も舞台挨拶をする必要はない。

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映画に貢献した訳でなない。会ったこともない。いや、映画に貢献していたとしても、初日に席を取るというのは筋違い。初日は一般のお客様のものだ。観たければ朝から列に並ぶのが筋。それでダメなら仕方のないこと。もう、その友人との縁が切れてもいいと思い断った。僕はその辺、真面目で、友人でも、プロデュサーでも、スポンサーでも、筋の通らぬことはできない。だから損をすることが多い。

でも、友人のせいで5人の一般のお客が映画を観られなくなるのは、あまりにも理不尽。前日から並べばいい。運がよければ当日でも入場できるはずだ。万が一、満員御礼で当日、入れないと嫌なので、裏から手をまわして来ただけなのだ。もちろん、初日に特別招待をする方々もいる。が、皆、それなりの意味がある。単に若手女優を生で観たいというのとは違う。

友人は「だったらいい!」と怒っていた。が、そんな理不尽を通そうとする奴と友達関係を続ける必要はない。結局、彼は上映終了間近に映画館で観てくれたらしい。連れてくるはずだった友人は誰も映画を観ないで終わった。友人は「詰まらない映画だった!」と酷評。そもそも、彼の趣味でないことは分かっていた。が、今も交流は続いている。

ただ、僕が融通の効かない奴だと分かってくれたようだ。映画は身内に便宜を計るより、一般のお客様に観てもらうことが何よりも大事なのだ。

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映画、ドラマ、CMのスタッフは一緒に仕事できない? 似ているようで皆、価値観が全く違う! [映画業界物語]

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(タイトルを変えて再掲載)

後輩の映画監督から相談を受けた。撮影現場が非常に混乱してうまく行かなかったのだが、理由が分からないという。スタッフ同士が議論になったり、喧嘩したり、ギクシャク。まとまらずに、それぞれが勝手なことを始めたというのだ。そう聞くと普通ならこういうだろう。

「相性が悪いスタッフが多かったんだね?」

或は「ギャラが安いのでイライラしてたんじゃないの?」とか言われそうだが、後輩はそういうことではないというのだ。で、いろいろと訊いてみた。

まず、後輩が監督したのは低予算映画。それをドキュメンタリータッチで撮影しようとしたという。手持ちカメラを多様。多少のブレがあっても、台詞が聞き取れなくてもOK。それよりリアリティを重視。あえていえば、アメリカのテレビドラマ「24」をさらにエスカレートさせ、「これはドキュメンタリーじゃないの?!」と思えるほどのリアリティある映画をめざした。次にスタッフを訊くと

「カメラは***さん。照明は***さん、助監督は***君.....」

と名前を上げてくれた。その段階で「ワトスン君。答えは簡単さ!」といいたかった。もちろん「AさんとBさんは犬猿の仲なんだよ。うまく行くはずがないさ」なんて真相ではない。映画作りの難しさがそこに現れていた。

まず、カメラのAさん。この人はドラマでもドキュメンタリーでも出来る人。だが、照明のBさんはバリバリの映画人。そして助監督のCさん。この人はテレビドラマを専門。もう、これだけで答えは出た。

作品の方向性はドラマだがドキュメンタリータッチ。だが、照明のBさんはバリバリの映画人。こだわった映像で重厚な物語を作って来た人。それに対して助監督のCさん。テレビの仕事が多いので、とにかく早く撮影する。クオリティは低くて、予定通りにクランクアップすることを重用視。

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そして技術的にも問題が出る。例えば手持ちカメラがグラグラ揺れとする。通常の映画ではNGだが、ドキュメンタリーならOK。それをあえてドラマでやろうというのが意図なのに、映画の照明部も、テレビ専門の助監督も「それはおかしい!」と受け入れなかったのだ。

照明部はドキュメンタリーではありえない、おしゃれなライティングをするし、演出部は「役者の顔にしっかり光を当てないと!」とテレビドラマの定義を持ち出す。どちらもドキュメンタリーでやったらおかしなことになる。つまり、監督の意図をスタッフのほとんどが理解せず。また、テレビ系、映画系のスタッフもそれぞれに価値観が違い、ぶつかったのだ。後輩が意図するドキュメンタリータッチのドラマを理解しているはカメラマンだけ。後輩、曰く....。

「作品意図の説明を聞き、皆、分かった!といってたんですよ」

そして一般の人から見ても映画も、テレビも同じ。ドキュメンタリーもほぼ同じ。という認識だろう。が、これらは全く違う。似て非なる物。あえていうと宗教と同じ。知らない人が見れば宗教なんて皆、神がいて、その教えを信じるものだと思いがちだが、そのささやかな違いで海外では戦争まで起きている。映画やテレビもまた同じ。

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例えば映画では「監督」が絶対的存在だが、テレビは「プロデュサー」、CMでは「スポンサー」ドキュメンタリーもまた「監督」だろう。つまり、映画のスタッフは「監督」のイメージを大切にしようと、がんばるが、テレビは「プロデュサー」だ。CMは「スポンサー」が第一。も以前、CMのスタッフとドキュメンタリー作品を作ったが、何かあると、こういう。

「だったら、まずスポンサーに報告して承認を得ないと!」

いい加減うんざりした。スポンサーのために作っている訳ではないのだ。同じく後輩の映画でも、テレビ系スタッフは監督よりもプロデュサーにへつらい。監督をないがしろにしていたらしい。さらに、それぞれの方法論が違い、議論になり、言い争いになったそうだ。

でも、それは最初から見えていること。後輩は事前に説明したというが、何十年も実践してきた方法論を、人は簡単に変えることはできない。もし、ドキュメンタリータッチを実践するなら、テレビや映画スタッフではなく、ドキュメンタリーのスタッフでドラマを作るべき。或は、その種の発想を理解するスタッフを選ぶべき。名前を聞くだけで、

「その人にドキュメンタリーは無理!」

というスタッフにした段階で失敗は見えている。もちろん、別のメディアでも仲良く仕事をする人たちもいる。が、後輩が経験したような話はよく聞く。

よくキャスティングが成功すれば、映画の70%は成功だと言われるが、スタッフも同じ。そこで間違った人を呼ぶと、テロリストを乗せて船出するのと同じになってしまう。価値観が違うというのは、本当に面倒なもので、宗教と同じ。どれが正しく、どれが間違ってないとはいえないが争いの種となる。

あえて言えば映画の現場で「ドラマ」や「CM」の価値観を振り回すのはやめてほしい。それが分からない輩がいるから、現場で揉めるのだ...。ただ、一度染み付いた価値観から離れること。なかなか難しいのも現実。大人たちが古い価値観を振り回して、子供たちの未来を潰すのも同じ構図である。


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永田よしのりの映画講座~自分の好きな映画を応援するためには~ [映画業界物語]

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 by 永田よしのり(映画文筆家)

 映画宣伝にお金がかかるのことは前回に書いた。

 ただ、最もその映画を劇場で観る一般の人たちによってでしか出来ない宣伝方法というものがある。
 その映画があまり一般的に知られていなくても、自分たちが劇場窓口でチケットを買い、そこから劇場でかけられる日数が増えていけば、より一般の人たちの目にその映画は触れる機会が多くなる。そこで自分たちが気に入っていたその映画を、最初は知らなかった他の観客たちが気に入ってくれたとしたらどうだろう?

 もしかしたらその映画は口コミの話題が拡散して、劇場に人が来るようになり、とんでもない興行成績を稼ぎだすことだって有り得るのだ。

 ちょっと違う比喩だが、日本人は世界的に行列に並ぶのが苦にならない人種なのだそうだ。しかも行列に並ぶことによってステータス感を感じる民族なのだって。変な民族だ。でも、並ぶことで時間を浪費しているとは思わないのだから、そこで並んで何かを得ることの方に価値を見いだすのだろう。

 まあ、僕は行列に並ぶのは大っ嫌いなので、劇場試写などでも1人で行っている時は絶対に列に並ばない(何人か、もしくは担当編集者と連れ立って行く時には一緒に並ぶ。そこまで僕は意固地ではない)。
 例えば1時間も並ぶなら他の場所で他のことが出来るからだ。人の行列が動き始めてその終わりが見えてから、列につく。それで画面が多少見づらい場所でも構わない。

 まあ、話は違う方向に行ってしまったので、閑話休題。

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 さてさて。映画上映の話だった。

 つまり前売り券がたくさん売れている事実があれば、映画館で1日数回の上映が決まっていくし、公開日数も増えていく、という実に単純明快な話は理解していただけただろうか。

 自分の気に入っている、これから公開される映画があるならば、まずは劇場窓口で前売り券を購入すること。

 それがその映画の寿命を延ばしたり、映画自体にステイタスをつけていくことになるのである。
 興行というものにあまりロマンはないが、そこから先、映画が公開されてからは、その映画の持つ力でロマンが生まれていく可能性は充分にある。

 その手助けをするには、まずその映画の興行を上げていかなくてはならない。その先鞭が実は劇場窓口での前売り券購入だということは理解していただけたと思う。

 そして、その先、その映画に付加価値を付けていくのも、やはり映画を観た人でしか出来ないことなのだ。

 映画を成長させていくのは、結局その映画を観た人でしか出来ないことであり、その力とは劇場で映画を観て、その感動や面白さをその人たちが自分たち以外の外側に伝えていくことなのだ。 

 それが出来るのは、映画を観るためにお金を払って、その映画を観るために時間を作っている人でなければいけない。

 本当は僕らのように映画を試写で観て、なんだかんだ言っている者は、ただの映画たかりのようなもの。映画がなければ何の存在価値もない。

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 現に2011年の春からしばらくは映画のお仕事は数カ月なかった。人々は余暇に当てている時間なんてなかったし、映画のことを気にして過ごす必要性がなかったからだ。

 日々を生きる中で最低限必要なことを選んで取捨選択していけば、趣味の世界からまず削減されていくのは自明の理。
 
 そんな世界で生きているのには、多分他のことで生きる選択肢が思い当たらないから。
 でも、僕は自分を映画評論家などとは思わない。

 ただ、多分、一般の人たちよりは何十倍も映画を観てきただろうから、その中で発見した映画論を示しているだけのこと。

 そして、その映画について語ることで、映画がより広がっていけばいいなあ、と思っているだけなのだ。

 今回のように、映画が映画館で上映される仕組みも、一般の人たちには知らないことだろうと思う。
 そうしたことは、多分あまりメディアには書かれないことだろうし、気軽に興味のある映画を映画館に休日などに観に行く人には、考えもしないことかもしれない。

 ただ、知らないよりは知っていた方がいいはず。

 そして、自分の好きな映画が、より長く映画館で上映されるために出来ることが自分たちにもあるのだと知って欲しかったのだ。

 映画は、劇場でお金を払って観ている人が育てていける(それがその人にとって生涯愛する作品になったりもする)ものなのだと、僕は思っているのだ。 


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「向日葵の丘」が公開されたら、観に行こう!と思っている方へのお願い。 [映画業界物語]

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「わーい! 私の街でも『向日葵の丘』の上映が決まったぞー。公開されたら観に行こう〜」そう思っている、あなた。何か忘れていませんか? 

そう。映画はどのくらいの期間上映していると考えていますか? 「え、普通、映画は2−3ヶ月はやってんじゃないの? 時間があるときに観るつもりだけど」と思ったら大間違い。

2−3ヶ月も上映するのは大手映画会社が関与した作品のみ。通常の映画は客が来ないとすぐに打ち切り。それが映画館のシステム。それどころか、公開前に売り出される前売り券。これが売れないと上映がスタートする前に「1週間で終了!」と決められてしまう。

つまり「前売り券が***枚売れた。これだけ売れればその*倍は客が来るから2週間は上映しよう」とかいうふうに映画館は上映期間を決める。もし、枚数が出ないと、「これは客は来ないなあ」と考えて1週間ということがあり得る。

客が来そうにない映画は早めに対応。儲かる映画を優先。それが映画館の経営なのだ。が、その辺を知らない人が多い。どんな映画でも2−3ヶ月上映されると思い込んでいる。だから、映画が公開されたら、その内に観に行こうと考える。

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そうやって日曜日に映画館に行ったら、上映は先週で終わっている。「えーーー楽しみにしていたのに何?」となり、「もっと長く、上映してほしかった!」とネットでコメントしても、もやは遅し!それが映画興行なのだ。

では、どうすればいいのか? 多くの人が前売り券を買うこと。そうすれば映画館は「おー、これは客が来るな。***枚売れたということは、その2、3倍の客が来るはず。それなら4週間は上映しないと!」と考える。

今回の「向日葵の丘」もの凄く多くの人が応援してくれている。「必ず観ます!!」といってくれる人もとっても多い。でも、その多くが、先に説明した映画館事情を知らない。前売り券を買わず、当日券で行けばいいと思っている人も多いはず。そうなると、映画館行ったけど、もう上映は終わっていた....ということもあるかもしれない。

だから、前売り券を買ってほしい。そうすれば映画館は長期間上映してくれる。多くがチケット買ってくれれば、上映期間が伸びるだけでなく、日本各地で上映する映画館の数も増える。東京や大阪に観に行かなくても、横浜や奈良でも観ることができるだろう。

前売り券を買えば当日券より500円も安いし、三大都市の映画館で買えばポスターももらえる。そして、映画上映期間が延びる。ぜひ、協力してほしい。


(前売り券ー発売している映画館)

品川プリンスシネマ
東京都港区高輪4ー10ー30
TEL 03ー5421ー1113
渋谷シネパレス
東京都渋谷区宇田川町20ー11
TEL 03ー3461ー3534

梅田シネリーブル
大阪市北区大淀中1ー1ー88
TEL 06ー6440ー5930
布施ラインシネマ
東大阪市足代新町7ー4
TEL 06ー6782ー2628
伏見ミリオン座
名古屋市中区栄1ー4ー16
TEL 052ー212ー2437

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映画を応援する人たちがネガティブキャンペーン?どういうこと? [映画業界物語]

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いよいよ映画の公開が迫り、評判も盛り上りつつあるときに。映画を応援してくれる人たちがある種の情報を流すと、応援ではなくネガティブキャンペーンになってしまうことがある。例えばこうツイートする。

「***市の映画ー向日葵の丘ーぜひ、観てください!」

これを映画ファンが見たらどう思うか?

「あー、これは今流行りのリージョナルムービーだな? ***市が金を出して、町のPRに作った町おこし映画だ。そんなものを金出して、わざわざ見に行く必要はないよ」

実際、その手の映画は多く、ストーリーは平凡。それより観光地や地元産業の紹介に力が入り「わが町の魅力を伝えよう!」というのが主旨。でも「向日葵」はその手の映画ではない。一般の商業映画であり、涙と感動の青春メモワール作品。

でも、***市の映画、***県の映画というと、そういう誤解が生れる。それに京都、奈良、横浜という人気の町が舞台なら「だったら、観てみたい!」と思う人が多いのだが、僕がロケするのは有名な観光地ではないが、知られざる魅力がある町。映画を観れば、必ず、その町の魅力が分かる。

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が、先に「***市の映画!」と言われると、一般の人は「知らねえなあ。そんな町!」と興味をなくしてしまう。つまり、地元の方が応援のために「わが**市でオールロケされた映画!」とtweetしたことが逆効果になってしまうのだ。

同じ意味で「****社の映画ー向日葵の丘」「***グループが応援する映画」という記事をFacebookに書いたりtweetする方もいる。今回もいくつかの会社やグループ。団体から支援、応援を頂いている。が、これも先と同じ。

その会社が飲料会社だとする。Aジュースなら、ライバルのBジュース社があるろう。B社社員やその製品の愛好者は「あれはAジュース社の映画。私たちには関係ない!」と思ってしまう。「どーせダメな映画だ」と敵対視されてもおかしくない。また、映画ファンからしても、先と同じで「Aジュース社の宣伝映画だな? 自社の製品を出してイメージアップしたんだろう」と考えてしまう。

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地元の方や支援する会社、団体の関係者は熱い思いがあるので、どーしても「わが町の映画!」「我が社の映画」といいたくなる。それによって身内では盛り上がるが、熱く応援するほどに、その町以外の市民、その会社以外の人から見ると「私たちに関係ない映画ね?」というふうに冷めて解釈される。

友人がある地方を舞台にした映画も同じ悲劇に見舞われた。地元は盛り上がり、「我が***市の映画!」と東京公開でも宣伝した。が、惨敗。地元のPR映画と思われたのだ。宣伝や応援はガティブキャンペーンにしかならず、一般の人が関心を失い、映画を避け、悲しい結果となった....。

「映画宣伝」で重要なのは「市」や「県」「会社」「団体」をアピールすることではない。映画自体の、物語の魅力を伝えることだ。観客は「物語」を観に映画館に来る。PRを観るために入場料は払わない。物語を観て感動すれれば、その町が好きになり。その映画を支援した会社のイメージはよくなる。

なので、応援するときは、いろいろ肩書きを付けないで、発信して頂けると、ありがたい。それが協力してくれた町や会社や多くの人たちへの感謝にも繋がるのだ。よろしくお願いします。

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俳優残酷物語③ 俳優は人の人生をも左右する責任が重い仕事? [映画業界物語]

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俳優は出演依頼があればまず、シナリオを読み、自分の役を把握する。どんなキャラで演じようか? どんなふうに台詞を言おうか? あれこれ考える。そして台詞を覚える。どんなに長い台詞でも、覚えなければならない。ベテラン俳優になると、撮影現場にはシナリオを持って来ない人がいる。それでは現場で「あそこ何だっけ?」とシナリオ台詞を確認できない。

だが、それは「完全に覚えている!」という自負であり。自分を追い込んでいる人たちなのだ。黒澤組の俳優は皆そうだったと聞く。驚いたのは僕のデビュー作「ストロベリーフィールズ」の主人公4人も現場にシナリオを持って来ていなかった。恐るべし天才4人少女!と思ったものだ。

事実、彼女らは10年経った今も第1線で活躍している。本物は若い頃から違うことを痛感する。台詞を覚え、演技プランを考えるだけではなく、体調管理も大事。撮影の日に「風邪を引きました」なんて言えない。そのために多くの人に迷惑をかけるし、撮影できないと、何百万という製作費が無駄になる。

メンタルコントロールも大事。撮影直前に恋人と別れて、塞ぎ込んでいても撮影では全力を出さなければならない。会社員なら上司に「落ち込んでないで仕事しろ!」と叱られただけで済むかもしれないが、撮影ではそうはいかない。

親が危篤でも撮影があれば会いに行けないのが俳優。「その日は欠席させてください」なんて絶対に言えない。そのためにどれだけの人が迷惑するか? 大変なことになってしまうからだ。これが舞台なら、その日の何百人という観客はどうすればいいのか? 個人の事情で休んだり、落ち込んだりできないが俳優業である。

俳優というと奇麗で可愛い存在と思いがちだが、実は人生を賭け、魂を削り芝居をする仕事なのだ。いや、自分の人生だけでなく、人の人生も左右する仕事だ。例えば、親が病気で心配しながら地方ロケに参加した。だから、集中できない。いい芝居ができない。結果、耐えられない芝居と判断されカットとなる。

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本人は自業自得である。が、その場面で共演した他の俳優のシーンもカットされる。俳優ならまだいい。その種のことは覚悟している。が、エキストラの人はどうか? 僕の映画なら市民俳優の人たちも、その俳優のせいで一緒にカットされてしまう。もしかしたら、人生で一度限りの映画出演かもしれず。たぶん、そうであることが多い。よほどでないと映画に二度三度出演する一般の方は少ない。

なのに、その俳優のために、人生で1回きりの映画出演を奪うことになる。友達や家族に「俺、映画に出たんだよ。俳優の**さんのそばにいたから絶対に映っている!」楽しみに映画館に家族と行くと、その場面がカットなっていた。ということもある。

その俳優が親が病気で心配と、力を出せなかったせいで、その人が人生で一度きりの映画出演を台無しにしてしまったのだ。自分の人生だけではない、人の人生まで壊してしまう。おまけに、その人は「自分が素人で下手だからカットされたのかも?」と悩むかもしれない。でも、原因はプロの俳優であることは分からない。

そんなふうに俳優の責任というのは、もの凄く重い。恋人に振られた、親が病気だというのは個人にとっては大きなことだが、それで芝居ができなくなるのなら、役者を辞めるべきなのだ。その苦しみと痛みに耐えて芝居をするのがプロの俳優の仕事なのだから。自分が潰れるのは自由だが、一般の人の人生まで巻き添えにしてはいけない。

その意味で僕は俳優には厳しい。でも、それは同時に監督である僕にも言えることだ。親が危篤でも、恋人と別れようが、いや、自身の体がボロボロで過労死寸前でも、詰まらない映画を撮ったときの理由にはならない。何があろうが、最高の作品を作り上げるのが監督の仕事なのだ。


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俳優残酷物語②ー何時間もかけて撮影したのに使われるのは5秒?! [映画業界物語]

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映画の撮影は時間がかかる。夜明けと共にスタートして、深夜まで撮影は続く。1つの場面を1日かけて撮影することもある。だが、それだけかけて撮影しても、その日の撮影で使われるのは2−3分なのだ。
カメラ位置を決めて、照明を決めて、光の具合や風の方向。太陽の位置。様々なことを考慮して、演技を固め、リハーサルを何度もして、本番! だから時間がかかるのも当然だが、撮影された芝居はさらに編集でカットされる。

例えば俳優が長い台詞をいう場面でも、「ん〜ちょっともたないなあ」となれば、短くカットする。或は、上映時間の制約。さらには台詞は素晴らしくても、全体のリズムの問題で、カットすることもある。
なので、長い長い台詞のシーンでも、完成したものを見るとたった一言になっている場合もある。俳優は

「あーー俺の芝居が下手なのでカットされたんだ〜」

 ショックを受けるが、そうでない理由でカットすることが多い。或は台詞がある役なのに、映画館で見ると全くしゃべってないこともある。或は台詞が極端に少なくなっていることもある。これも「下手だから?」と思われがちだが、逆の場合もある。

その俳優の存在感がもの凄くあり、台詞で説明しなくても、そこにいるだけで、全てが伝わる。だから、台詞が必要なくなるということもある。俳優は台詞を大事にするので、ショックを受けるが、カットしたからと芝居がダメとは限らないのだ。

ただ、やはり、がんばってくれた俳優のシーンを切るのは辛い。どんな理由でも俳優はショックを受ける。が、そこでカットしないと映画自体のクオリティが下がり、観客がうんざりしてしまう。感動してくれなくなる。この場合。やはり観客を優先しなければ、誰のための映画だ?ということになる。

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同じ意味で市民俳優の方の台詞も、バッサリ切らねばならないことがある。オーディションのときは、プロ顔負けの芝居を見せてくれたが、撮影となると緊張して、力を発揮できない方もときどきいる。その場合。申し訳ないが、全面カット。或は台詞を減らすこともある。

だが、芝居がまずいのではなく、時間の関係。テンポの関係でカットすることもある。カットされたり、短くされれば皆「芝居がまずかったんだ〜」とショックを受けるが、そればかりではない。でも、お一人お一人に説明もできず。心苦しい。時にはクレームの手紙も来る。

「カットするくらいなら、最初から使うところだけ撮影しろよ!」

でも、映画はいかに無駄となる部分にも力を入れて撮るか?が大事。実はそれは無駄ではなく、最終的に使われた映像を支える大切なことなのだ。

「カットされたから撮影に行ったのは無駄だった」

と思う方もいるが、そうではない。参加した全ての人の思いが映像を支えている。映る映らないに関わらず、多くの人の「思い」が集まらなければ素晴らしい作品はできない。

その意味で無駄ということはない。参加者の「思い」が映画のクオリティを決める。その映画が素晴らしければ、参加者の思いが素晴らしかったということなのだ。

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