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【映画の宣伝ってどーやるの? *億円かけて告知するって本当?】① [映画業界物語]

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【映画の宣伝ってどーやるの? *億円かけて告知するって本当?】①

今回も宣伝で全国を飛び回ったが、行く先々でお話させてもらった方々からいつもながら驚く話を聞いた。これだけ映画やテレビ業界用語や裏話等が一般でも知られているのに「宣伝」というものが未だに理解されていない。多くの方がこういう。

「宣伝って映画館がやるんでしょう?」「テレビ局がCM流してくれるんだよね」「誰かがやってくれるんじゃない?」「映画館で上映すれば、マスコミが宣伝してくれるんだよ」

ぜーーーーーんぶ、ハズレ! 皆、知らないというより、「宣伝」について考えたことがないようだ。テレビを付ければ24時間CMが流れる。雑誌を開けば広告だらけ。だから、一般の方はそれが当たり前になっていて、宣伝というのは誰かがやってくれるもの.....で完結して、「では、誰が? どうやって?」とは考えないことが多い。

ある人に「じゃあ、誰が宣伝するの?」と聞いたが「「電通がやってくれるんじゃない?」といわれた。「じゃあ、電通って何をしてくれるの?」とさらに聞くと「さーよく知らないけど、宣伝してくれる会社だから、宣伝するんじゃないの?」と答えた。んーーーーーーーー、電通は広告代理店だ。宣伝会社ではない。やはり、宣伝について真剣に考えたことがないようだ。

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毎回、映画が公開されるとき、多くの人は「誰かが宣伝してくれるんじゃないの?」と思い「監督、がんばって下さーーい!」といわれることが多い。あんた関係者なんだから「がんばれ」ではなく、宣伝協力してよ!といいたくなる。が、「誰かが宣伝してくれるよね〜。楽しみー!」で公開を待つだけ。という方が多い。なぜか、そうなってしまう。ま、それだけ一般の方は宣伝というものを把握できていないということ。そこで今回は映画の宣伝について説明する。

例えば「スターウォーズ」だ「ターミネーター」だというようなハリウッド映画の場合は、10億円くらいかけた大宣伝が行われる。テレビでスポットをバンバン流し、大手新聞に一面広告を載せ、雑誌等にもカラーで広告を掲載する。

ハリウッドからキャストを呼び、イベント。それをマスコミに取材させ、さらに個別のインタビュー。それがテレビ番組、新聞、雑誌、ネット等で紹介される。街角には巨大な看板。垂れ幕。ポスター。こうして映画の存在を多くの人に伝える。これには莫大な宣伝費がかかる。億単位の費用が必要だ。が、それくらいにしないと、1本の映画を日本中に知らせるのは難しい。

では、日本の独立系の映画の場合はどうか? まず、テレビスポットは無理。これが一番高い。数千万円から億単位。新聞広告も駄目。数百万から1千万円。雑誌も数百万。この辺は全てアウト。看板も駄目。これも数百万。

結局、できるのは、チラシ、ポスターを作る。それを映画館に置いてもらい、アピール。ポスターを貼り、チラシを配る。でも、それでアピールするのは映画ファンだけ。一般の人に映画の存在を伝えることはほとんどできない。そこでお金がかからずに、宣伝する方法を使う。「パブリシティ」である。例えば、雑誌や新聞。ネットに、主演俳優がインタビューに答えると持ちかけ、記事を掲載してもらう。


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あるいは監督のインタビューをしてもらう。俳優は知名度がないと、取材をしてもらうことはむずかしいが、監督なら無名でも記事になりやすい。この辺も費用が全然かからない訳ではない。女優さんならメイクさんを付けて、取材前にメイクをする。そのメイクさんが1日何万というギャラを取る。ビジュアル誌であれば、写真が重要。写真スタジオをレンタルして撮影する。それにまた数万円!

あとできるのは舞台挨拶。マスコミが来て番組や新聞で報じてくれる。が、なかなか、来てくれず、お客さんだけが舞台挨拶を楽しむだけということも多い。また、その記事が出ても、それを見て「この映画見よう!」という人は少ない。こうして独立系の映画というのは、多くの人に存在を知られることなく、公開され、大した観客動員ができず。2週間で終わることが多い。

それに対して大手映画会社は、特に日本の企業映画はこの数年。さらにスゴイ手法で宣伝している。テレビ局ジャックともいえるもので、朝から深夜まで、その局の番組に出演者が出まくるという戦略。朝のワイドショーから、昼の情報番組。夜のバラエティ。深夜のお笑い番組。嫌が上にも目に留まる。よく「いい映画を作れば客は来る。中身が勝負だ!」という人がいるが、いい映画でも、駄目な映画でもまず、その存在を知られないと映画館に来てもらえない。

映画館に来て見てもらって始めて「いい映画」と「駄目な映画」に分別される。そして、毎回書くが「いい映画」でも、その評判が広がる頃には上映が終わっている。2週間でも口コミを広げるにはあまりにも短過ぎる。こうして、詰まらない映画でも大宣伝すれば、ヒットする。「あれ、テレビで宣伝しているから見たけど、ほんと詰まらなかった〜」と悪い評判が広がるまでに、多くの観客が映画館に行くのである。現在、ヒット中のあの日本映画もそのパターン。

しかし、最近はテレビで宣伝しても大ヒットするとは限らない。観客がダマされなくなって来たのだ。すると、高額の宣伝費をかけても映画がコケることがあり、宣伝費をかけない映画はますますヒットしないという状態になっている。そんな中、僕がいつも行っている地味な宣伝法があるのだけど、何だかここまででかなりな文章量になってしまった。それはまた次の機会に紹介させてもらう。とにかく、宣伝はむずかしい。

まとめると、数億円の宣伝費を使わないと映画の存在を多くの人に知らしめることはできない。といって、数億円使ったからと大ヒットはしない。が、何もしないと、本当に客は来ない。いい作品を作れば口コミでヒットするといわれるが、口コミが広がる前に上映が終わる。それが今の映画界の現状。その中でそうすればいいのか? 考えていきたい。(つづく)


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昔から会ってみたかったある芸能人(下)【才能ではない。考え続ける努力するから、トップランナーになれる】 [映画業界物語]

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【才能ではない。考え続ける努力するから、トップランナーになれる】

長年、お会いしたいと思っていたお笑いタレントのコロッケさん。その彼がパーソナリティを担当するFM番組にゲストで出してもらうこととなった。「向日葵の丘」の宣伝をさせてもらうためだ。スタジオに入ると、ナマ・コロッケさんがお出迎え。果たしてどんな人なんだろう? モノマネ芸人さんの世界ではトップ。帝王的な存在。デビューからほぼ30年。テレビや舞台で活躍している。お茶の間にいると、当たり前の存在に思えるが、それはスゴイことなのだ。

多くのタレントや歌手。そして俳優たちがこの30年に登場しては消えて行った。一世風靡したタレントでも、今はその名前さえ思い出されない人もいる。そんな中で30年間トップを走り続けるというのは、毎年宝くじで1億円当てるようなものなのだ。が、視聴者からすると「おもしろいオジさん」「楽しい芸人さん」という認知のされ方しかしていない。

もちろん「才能あるお笑いタレント」と評価する人も多いが、プライベートでどれだけの努力をしているか? 想像する人は少ないだろう。彼はいつも楽しそうにモノマネをするが、その目は絶対に笑っていない。そして、いつもタレント・コロッケを演じている。僕はそう感じるようになってから、テレビに映らないコロッケさんとはどんな人か?を考えていた。

そして、打ち合わせでディレクターさんが話してくれたが、僕の「向日葵の丘」監督ブログをかなりの量、読んでくれているという。プリントアウトしたコピーを見せてもらったが、スゴイ量だ。1回きりのゲストのために、テレビや舞台で多忙なコロッケさんが、それを全て読んでくれたという。そして、その中のひとつについて番組内で話をしたいという。

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僕の記事を読んでくれている人なら分かるだろう。僕のブログ、Facebookはほぼ毎日更新。1日に数度アップすることもある。毎回、長ーーい記事を書いている。書くよりも読む方が大変!という量。それを事前に読んでくれている。

それだけで、コロッケさんという芸人さんが分かる。ラジオ番組に出る無名監督とトークをするために、相手を知らなければ!と読んでくれたのだ。さあ、そのコロッケさん。ご挨拶をして、テーブルを挟んで向かい合って着席。ヘッドフォンを被り準備。その間も彼は気を使い、いろいろと話をしてくれる。

「『向日葵の丘』は見せてもらいましたよー。ほんといい映画ですねー。僕もどこかのシーンで出たかったなあ。もう、映画館のロビーで上映を待っているだけの客でいい。でたかったなあ。分かるんですよ。あの時代感。僕と監督は同世代ですし、自分が1つ上だけど、映画で描かれた時代はとても懐かしいし......」

と、ゲストを和ませるために、あれこれと話をしてくれるのだ。モノマネ界の帝王とは思えない気遣いと、腰の低さ。僕も仕事がらいろんな人に会うけど、本当に凄い人は決して上から目線で話さない。さて、番組が始まる。オープニングはコロッケさんのモノマネから。18番のトシちゃん。そして、ゲスト紹介があり。トークが始まる。ここから先はラジオで聞いてくれた人もいるだろう。

だが、僕がもっとも関心を持った部分は曲の間に解明する。生放送ではないが、音楽を流す部分は実際に音楽が流れ、その間、スタジオ内ではコロッケさんがいろいろ話をしてくれる。これは録音されない。そのとき、彼はこういった。

「監督のブログ読ませてもらったんですけど、スゴイ量ですよね?で、共感する記事が結構あって、その内のひとつのことをこのあと、お聞きしたいんですけど。一番、共感した、そーだよ、その通りだよな! と思った記事があるんです。僕もずっと考えたことで、若手にもよくいうんですよ」

一体、どの記事か? コロッケさんは言う。

「『才能なんてない』って記事ありますよね。あれ、本当にその通りだと思うんです」

あーーーーーそれかあ。なるほど。そうかーーーーーー。全てに納得がいった。その記事。読者の方も読んでくれた人は多いだろう。あとで、その記事のアドレスを記すが、簡単にいうとこんな話。若い頃、僕や映画監督を目指す友人がよく「俺って才能あるのかな?」と考えた。映画監督だけでない、歌手や俳優や小説家を目指すというと、大人たちはこういう。

「お前才能あるのか? 才能がないとやっていけない世界だぞ」

でも、自分に才能があるかどうか?なんて分からない。果たして自分が映画監督になれるのか? その才能があるのか? その後もプロデュサーや先輩に言われた。「お前は駄目だよ。才能ないよ」それでも考え続けて気づく「才能なんて存在しないんじゃないか?」今、振り返って断言する。「才能なんてない」そんな便利なものはない。夢を掴むのに必要なのは「才能」ではなく「努力」であること。そんなことを書いた記事だ。

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その記事が「一番共感した!」とコロッケさんはいうのだ。そこで全てが結びついた。起きてから寝るまで、食べるときも、テレビ見るときも、常にモノマネのことを考え続けるコロッケさん。その結果、モノマネ界のトップに駆け上がり30年も君臨している。友人はいう「才能ある人だからなあ」でも、ご本人に言わせば違うのだ。「才能ではなく、努力なんだ」コロッケさんは続ける。

「後輩たちにもいうんですよ。才能なんかじゃない。努力なんだ。こうすれば似るかな? こうすれば面白いかな? そんなことを考え続けることなんですよ....」

日本中の人を笑わせる、モノマネ界の帝王の言葉は重い。「才能ではない」「努力なんだ」と、彼はそれを実践し、トップを走り続けている。僕が10代から考え続けた「才能なんてない」論が証明された瞬間でもあった。たぶん、どの世界でもそうなのだ。映画界でも、お笑い界でも、歌の世界でも、いやいや、カタギの世界だって同じだろう。

営業でいい成績を上げる人も「才能」ではなく「努力」だ。まじめに、がんばるというだけではない。コロッケさんのように、朝起きてから寝るまで、考え続ける人だ。悩み続けるのではない。考える。彼が「どーすればあの歌手に似ることができるのか?」と考えるように、「どうすれば製品が売れるのだろう?」「どうすれより良い商品が開発できるのか?」と考え続けること。何事も同じだ。

9時5時で仕事をして「あー終わった。飲みに行きゾー!」というのも人生だ。でも、そこからも考え続ける人もいる。そんな人が成功する。トップに駆け上がる。才能ではない。才能があれば、何でもできると思いがちだが、そうではない。考え続けること。それが成功への道ということ。目の前でマイクに向かい楽しそうに話すコロッケさんを見つめながら、そう感じた。

この1点だけでも、番組に出してもらえてよかった。さて、番組終了後に、もうひとつ面白い話があるのだが、これはまた別の機会に紹介するが、これ以降、テレビでコロッケさんを見かけるたびに、彼の言葉を思い出す。タレントも、歌手も、俳優も、そして映画監督も同じ。いや、他の職業も同様。「才能」ではない。考え続ける努力こそが大事。そう思えている。(了)

コロッケさんが読んでくれた記事=>http://aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp/2014-06-17


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昔から会ってみたかったある芸能人(中) 努力を見せないで観客を楽しませるタレント魂? [映画業界物語]

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【努力を見せない。苦労を感じさせない。観客を楽しませるタレント魂?】

長年お会いしたかったお笑いタレントのコロッケさん。その彼がパーソナリティを担当するFM番組。「向日葵の丘」の宣伝で出してもらえることになった。昨日の続きを書く。

スタジオの待合室で出番を待っていると、開いた扉からその前を通り過ぎる人が見える。コロッケさんだ! こちらに気づき立ち止まり「よろしくお願いします」と笑顔でいい、通り過ぎた。おーーナマ・コロッケさん! テレビ画面以外では始めて。ドキドキ! そこにディレクターさんが登場。打ち合わせが始まる。

コロッケさんは打ち合わに参加しない。直接、スタジオで会って話をしないと、新鮮さがなくなるからではないか? 綿密な打ち合わせをすると、トークが段取り的になってしまい面白さが失われる。芝居はある種、リハーサルが必要だが、トークは予想外が面白い。ディレクターさんとの打ち合わせが始まる。ちょっと話がそれたときに、あの疑問を訊いてみた。

コロッケさんは番組では楽しそうにモノマネをし、マネされるご本人が見たら怒るかもしれない暴走をすることもあり、みんなを笑わせる。それを見ている視聴者は「おもしろい人だ」「楽しいオジさんだ!」と思う。僕の友人なんて「楽しく仕事してて、いいなあ」なんていうが、そうではないと思えていた。

彼の日常は起きてから寝るまで、テレビを見ても、食事をしても、モノマネのことを考えているのではないか? 友人は「才能ある人だし、その道で成功していて羨ましい」というが、実はもの凄い努力をしているのでは?と感じていた。しかし、番組に出ているコロッケさんは努力を微塵も感じさせず。タレントコロッケを演じきり、素や苦労を見せない人だと思えた。そのことをディクレクターさんに訊いてみた。

「そうですよ。有名な話です」ーーーあっさりと、そんな答えが返って来た。関係者の間では有名な話だというのだ。やはり、そうか! 面白い!
この世界でときどき感じることだが、テレビで見ていると、本当に適当に仕事をしているように見えるタレントさん、毎回ワンパターンの芝居しかしない俳優さん。バラエティで好き勝手言っているお笑い芸人さんでも、実はもの凄い努力をして、まわりにももの凄い気遣いをすることがある。

それは番組を見ているだけでは分からない。コロッケさんもそのお一人。テレビで見ていると本当に楽しそうにモノマネをしているが、日常の努力は凄まじいという。なのに、番組ではその苦労を一切見せない。ディレクターさんがそう話してくれた。その話で盛り上がり、結局、打ち合わせをせぬまま、時間が来てしまい、こういわれる。

「コロッケは今日、お話するために監督のブログをかなり読んでいます。その記事の中から、質問して、話を進めます。私も読んでみたんですけど...」

とプリントアウトを見せられる。かなりの数だ。それもかなり読んだ中で印象的なものを印刷したという。しかし、書いた本人がいうのも何だか、「向日葵」の企画スタート時から2年以上、毎日。ときには1日に3つも4つも記事をアップしてきた。読むのも大変だ。それをコロッケさんはかなりな量を読んでくれたらしい。

まずはそこに感動だ。僕のような無名監督相手でも、コロッケさんほどの実力があれば、何の知識もなくても、話を盛り上げることはできるはず。また「向日葵」もすでに見てくれているので、その話だけで番組は展開できる。僕の経歴を調べるだけでも、そこそこ話はできる。それを何百ページもあるブログを読んでくれていた!彼はいくつものテレビ番組に出演。舞台やステージもこなしている。もの凄く忙しい。にも関わらず。膨大な量のブログを、たった1回の出演ゲストのために読んでいた。やはり、努力の人。が、それで終わらないのだが、とりあえず話を戻す。ディレクターさんはいう。

「どの記事の話をするか?は聞いていません。それは番組中でコロッケが話しますので、よろしくお願いします」

えーーーー、そう来たか!!!どの記事だろう? それが分かっていたら、それなりの答えが出来るように考えておくのだけど、膨大な記事数。聞かれてするぐに、答えられるか?でも、それも番組を盛り上げる演出だと思える。事前に分かった方がよどみなく答えられる。ヘタしたら、本番中にしどろもどろになり、トークをもり下げるかもしれない。

だけど、段取り通りのトークより、その方が面白くなる可能性も高い。だから、打ち合わせにも参加しない。なるほど。僕も撮影のとき、俳優さんが時間かけて準備して来たのを知りながら、わざと現場で追加事項をお願いすることがある。俳優さんは「えーー」だが、そこで予定調和ではない演技が発揮されることがあるのだ。

いつも自分がしていることを、自身がせねばならなくなった訳だ。さて、コロッケさんは、僕のブログのどの記事に興味を持ったのか? それを知ったとき、「なるほど!」と思うと同時に、僕の長年の謎も解明されることとなるのだ。そう考えていると、スタッフさんが来た。「そろそろ時間ですので、監督。お願いできますか?」僕は立ち上がり、待合室を出て、スタジオに向かった....。(つづく)


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昔から会ってみたかったある芸能人(上) 俳優でも歌手でない。あの人だ? [映画業界物語]

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【昔から会ってみたかった芸能人。俳優でも歌手でない。あの人だ】

「芸能人に会いたい!」と思ったことは昔からなかった。だから当時から「変わり者」と呼ばれていたのかも? でも、会ってみたい。お話をしたい人が1人いた。俳優でも、ミュージシャンでもなく、お笑い芸人だ。僕の映画は青春感動作が多く、コメディは作ったことがないが、関西育ちのせいか? お笑いは好きでよく見る。といっても、企画もののバラエティは好きではなく、芸を競う番組が好き。昔でいうと「THE MANZAI」とか今も放送している「ものまね歌合戦」とかはよく見ていた。

とにかく漫才でも、ものまねでも「芸」を見せてくれる番組が好き。なので、近年の「金曜エンタ」とかは首を傾げた。おもしろい芸人さんもいるが、多くが一発ギャグやどこが面白いのか分からない妙なパフォーマンス。たぶん、かなり若い層を狙ったためかも?と思うが、不満が残った。

実際、そこで一世風靡した芸人たちはほとんどが一発屋で終わっている。芸人に力がないというより、多分、局側が芸の使い捨てをしたのが原因だろう。お笑い芸人さんの努力というのはヘタな俳優よりずっと凄いものがあること。よく聞く。それを窓口を狭めて放送するのに都合のいい、短時間でのコントやギャグのみを受入たことで、一発芸ばかりになったように思える。

が、テレビはどーしてもタレントの使い捨て、その中で生き残るというのは、もの凄いこと。それを30年。その世界で君臨している人がいる。ものまねタレントのコロッケさん。そう。彼こそ。僕が以前から「会いたい!」と思っていた唯一のタレントさん。80年代のデビューからものまね一筋で、テレビ、舞台で活躍。未だに走り続けている。そして彼がスゴイのは単に「似ている!」ということだけではなく、それを超えた表現

ご本人に似ているというだけなら、他にもいる。が、それをエンタテイメントにしてしまったのはコロッケさんだけだ。「それは本人とは違うだろう!」といいたくなる表現であっても、どこかに本人があり、観客を笑わせる。もう、「似てる〜」ということで喜ぶレベルでなく、ひとつ上のステージでエンタテイメントしているのだ。こんな表現ができるのはコロッケさんだけ。

しかし、そんな彼を見ている多くの視聴者はこう思っているに違いない。「コロッケはいつも面白いなあ」「よく、そこまでやるよな〜本人が見たら起こるぜ。ははは」この辺はいい。サラリーマンの友人にはこんなことをいう奴もいる。「コロッケっていつもテレビで馬鹿やって、楽しそうでいいよな。俺なんか毎日、朝から晩まで仕事仕事で、楽しいことなんてないよ」ーーそうだろうか? コロッケさんは本当に番組で楽しくものまねをやっているのだろうか? 

僕も最初は笑いながら彼の芸を見ていたのだけど、その内笑えなくなった。確かにコロッケさんは番組内で本当に楽しそうにものまねをしている。本人の前で暴走したりする。けど、よく見るとコロッケさんの目は笑っていない。そして、芸が終わっても、司会者が質問するときも、素に戻っていない。他のタレントは芸が終わると、ホッとして素が見えるのに、コロッケさんは違う。何なのだろう?
気になり、毎回、彼の言動や行動を注目した。

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これは僕の推理だが、映画監督業という職業柄もあると思うのだけど、コロッケさんは、ものまねタレントであるコロッケを演じているのではないか? ものまねが楽しいというより、いつも陽気なコロッケという芸人を演じているのではないか? 友人のいうように、楽しく番組でモノマネをしているのではなく、司会者に答える部分まで全て演じているのではないか? つまり、ものまねを含めた彼の存在自体が「芸」であり、エンタテイメントしているのではないか?

では、彼の素というのはどうなのか? 友人たちのいうように「陽気で楽しいおじさん」ではないだろう。想像だが、起きてから寝るまでずっとものまねのことを考えている。「***さんのマネをするとどうなるか?」「そこに***君を混ぜるとどうなるか?」「そのまま、怪獣になるとどうだろう?」とか、食べるときも、テレビ見るときも、仕事の打ち合わせでも。とにかく、ものまねのことを考え続けているのではないか? 

多くのタレントは仕事を終わって飲みに行けば、羽目をはずしたり、若い女の子とはしゃいだり。オフで自宅にいればボーと野球見たりして過ごす。けど、コロッケさんというのは、起きている限り、ものまねを考え続ける。いや、夢の中でも考えているのではないか? ものまねに人生を賭けているな...と思える。友人は反論する。

「そんな訳ないだろう? テレビで馬鹿やってるじゃん!」

だが、「馬鹿だな」と思わせて、笑わせるのがタレントの仕事。本当のバカではない。が一般の人はそこが分からない。そして、彼が「コロッケ」というタレントを演じていることが分からず、自分が見ているその人がコロッケだと思い込んでしまっている。

言い換えれば名優というのは演技を忘れさせる。デニーロの芝居なんてまさにそれ。観客は「この人は俳優のデニーロ」と知っているのに、ボクシングのチャンピオンだったり、マフィアのボスだったりと、そのものだと思ってしまう。まさにそれと同じ。彼はタレント・コロッケを演じており。素顔を決して見せない。その素の部分はひたすらモノマネを考える研究者のような真面目な存在と思える。


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小説家とか、漫画家とか、その世界で成功している人を見ていても同じ。何を見ても「これは小説の題材にできないか?」「これを漫画にすると面白いかも?」とか考えている。つまり、コロッケさんは芸人というだけでなく、クリエーターとか、アーティストというカテゴリーの人かもしれない。けど、友人は納得しなかった。

「まあ、才能はある人だと思うけど、陽気でおもしろいおじさんなんだと思うよ。面白いから人気がある。それだけじゃない?」

んーーー違う。だが、この僕の推理は理屈ではなく、感覚的な部分が多い。刑事コロンボのような論理で犯人を導き出す手法ではない。ただ、僕がキャスティングをするときは、閃きで選ぶ。プロフィールに書かれた経歴も読むが、「この子は****な部分がある!」と感じて選ぶ。結果、あとになって、それは当たっていて、見事な演技をしてくれたり。演技力でなく、その人の背景や考え方を見抜けないと、キャスティングは失敗する。

その経験からコロッケさんの芸の背景を何年も考えていた。そのコロッケさんと、お会いする機会があった。今回の「向日葵の丘」の宣伝で彼のFM番組にゲストで出してもらえることとなった。おっしゃー! ナマ・コロッケさんに会える。果たして僕の思う人なのか? 次回。その辺の話をお届けする。(つづく)


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【僕が言ってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】 [映画業界物語]

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【僕がいってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】

映画の世界の価値観というのは、一般の人になかなか理解されない。その映画界でも太田組の価値観というのは特別。以前はベテランの人からよく批判されたが、今では多くのスタッフが理解してくれていて、毎回、クオリティの高い作品を作れる背景となっている。が、やはり一般の人には分かりづらいようで、誤解発言をときどき聞く。

先日も「太田監督は******と発言しているが、そこが素晴らしい」とか書かれた。が、それも僕が一度も言っていないこと。興味深いので詳しく説明しよう。「太田監督は常々、俳優は皆平等だと言っている。そこが素晴らしい」とある映画ファンが書いていた。褒めてくれてるようだが、僕はそんな発言をしたことも、その種の文章を書いたこともない。というのも、そんなことは思っていないからだ。ただ、こういったことはある。

「通常の映画では、この人は主人公。この人は脇役。この人はエキストラと分ける。でも、人は誰もが自分の人生では主人公なのだから、人生にエキストラなんていない。だから、僕の撮影現場ー太田組では誰もが主人公と考える。エキストラと呼ばず、市民俳優と呼ぶ」

これはあちこちで言ってるし、ブログ等にも何度も書いている。が、読んでくれれば分かるように「役には上下はない」という意味。「俳優に上下はない」ではない。その映画ファンが指摘した「俳優は皆平等」でもない。明らかに、その指摘は間違いだが、その違いが分かるだろうか? 

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通常の撮影現場では役に上下がある。「この人は主人公だから重要。この人は脇役だからどっちでもいい」ということ。でも、僕の考えは脇役だって重要だし、通行人だって重要。それぞれにドラマがあるという意味。だから、誰も主人公なのだ。3人の女子高生が登場する物語だとして、通常は主人公は1人、相手役が2人。でも、太田組では全員が主人公だと考える。ただ、その物語を3人同時に描くと観客が混乱するので、1人を選び、その視点から物語を描く。それが一般に言われる主人公。

でも、別の2人の視点から物語を見ればその2人も主人公なのだ。つまり、誰もが重要なキャラクターであり、不必要な登場人物などいない。その意味でどの役も主人公であり。どの役も平等なのだ。なのに、その映画ファンは「どの役も平等」というのを「俳優は皆、平等」と勘違いして解釈したのだ。「役」=「平等」であり、「俳優」=「平等ではない」。

平等な訳がないし、平等ではいけないのだ。例えば、何十年も役者生活をしているベテラン俳優と、駆け出しの新人は平等ではない。ベテランは実績と実力を持っている訳で、それを尊敬すべきだし、それなりのギャラが払われる。待遇もいい。出てもらうことで映画の格も上がる。

が、新人はギャラが安い。それは演技力に定評もなく、経験も少ない。その俳優が出たからと、ファンが押し掛ける訳ではない。むしろ、現場は若手にとって勉強の場。ベテランと同じギャラ、同じ待遇がある訳がない。なのに、その映画ファンは「俳優は平等だ」というので、話がおかしくなる。

人間は皆、平等だ。「あいつは死んでもいいけど、あの人は重要だから駄目」という考えは間違っている。が、人のために役立つ存在は評価され、優遇される。その人の価値であり、評価なのだ。それを混同してはいけない。俳優で説明しよう。メインキャラを演じる俳優はもの凄い集中力が必要。長台詞があったり、過激な立ち回りがあったり、自分のミスが多くの人に迷惑をかける。作品のクオリティも下げる。替えは効かない。

それに対して小さな役なら、多少の失敗も監督に怒鳴られるだけで済む。最悪は別の役者と交代することで済む。こういうと勘違いして「差別だ。小さな役だって大変だし、集中力が必要!」というかもしれない。が、違う。メインの役に比べれば、その差は歴然であり、大物俳優、ベテラン俳優と呼ばれる人たちは、そんな経験を何度もして、現在まで来ている。新人とベテランを同じように扱う方が不平等なのである。

実績や実力。そして人気に合わせてギャラの額も決まる。これは「不平等」とではない。小さな努力で済む新人と、長年の経験を駆使して素晴らしい演技を見せるベテランの報酬が同じでは、理不尽。経験だけではない。若くても人気があれば高額のギャラがもらえる。演技力があれば評価される。そこに「平等」という物差しを持ち込むこと自体がおかしいのだ。

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その意味では会社も同じ。社長から新入社員まで平等。給料や待遇も皆、同じだろうか? 会社でそれぞれに待遇は違う。それぞれの実績への評価。では、社長が偉いのか?というと、これは違う。営業の達人がいて、技術の鉄人がいて、しっかり者の専務がいて、会社が成り立つ。社長だけでは成り立たない。同じようにドラマの世界も、メインキャラだけでなく、小さな役の存在も大事。暴れん坊将軍だって、斬られる侍がいるから成立する。誰が偉いではない。が、それぞれの待遇は違う。平等ではない。

その辺を取り違えて「太田監督は俳優に上下がないと常々言っている」なんてブログに書く人がいる。***監督はと伏せ字で書くのならとにかく、僕の名前を上げるのであれば、正確に書いてもらいたい。以上の説明を読めば、そんな世界ではないし、そんな発言をする訳がないこと。分かるはずだ。

人はすぐ「平等だ」「差別だ」といいがち。それはとても大事なことだが、使い方を間違えている人も多い。人は実力や努力。経験が評価される。それは差別ではない。何もできない。経験もない新人俳優はまず勉強であり、実力派と同じ評価や扱いを受けないのは当然。それを差別というのは大間違い。ときどき、新人俳優で「何日も撮影に出たのにギャラが安い!」と不満をいう者がいるが、バイトではない。ギャラは時給と違う。

新人はノーギャラであっても、現場に出れば勉強になる。授業料を払ってもできない経験ができるのに、さらに時給をくれというようなもの。別の新人は「今回はノーギャラで出たので、次回はギャラ下さいね! 他の役者はギャラもらってるんですから不公平ですよ〜」と笑いながら言った。冗談でもこれはアウト。彼の勉強になるので呼んだだけであり、ギャラを払って呼ぶほどの実力はない。それ以降、声はかけていない。

会社員やバイトの世界ではない。いや、会社だって実力や経験が認められ、給与に反映される。その意味でその新人はバイト感覚でしかない。誰もができる仕事しかしないので、何をやっても時給換算してしまう。その価値観を映画界に当てはめるのは間違い。努力し、いろんな経験をし、多くの人の支持を得る。他の人にはできない実力や素養がある。それが評価されるのが映画の世界。そして実力がある者が集まるからこそ、いい作品ができるのである。


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【今回は倒れない?! いや、倒れるかも?】 [映画業界物語]

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【今回は倒れない?! いや、倒れるかも?】

ここしらばくのFacebook記事を読み、「大丈夫ですか?」と連絡をくれた友人がいる。鋭い! というか、毎度のことなので、皆、心配してくれているようだ。毎回、映画が完成すると、或いは公開が始まると、倒れて何ヶ月も寝込む。ある作品のあとは半年も自宅入院生活。医者に行くと「重度の過労!」と診断された。そして「過労をなめちゃいけないよ。ある日、バタッと倒れて本当に死ぬんだからね!」といわれた。

実は、倒れる以前にも体調が最悪で医者に行っており、そのときも「過労」と診断された。過労はビタミン剤をもらうとか、点滴を打つということで良くならない。充分な休養を取るしかない症状。医者からは厳しく言われた。

「仕事をしばらく休みなさい。無理を続けると本当に死ぬからね!」

働き過ぎくらいで死ぬかあ? と思う人もいるだろう。僕も最初はそう思っていた。が、たまに新聞記事で見かける「過労死」朝、元気に家を出たサラリーマンが会社で倒れて、そのまま死んでしまうという事件。あれが過労死である。本当に限界まで働いても精神力でもってしまうところがあり、体が限界を超えて、どこかしらが破綻。死に至るのだ。

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だが、映画の仕事というのは、土日、祝日もなし。盆暮れ正月もない。おまけに僕の場合は7人分の仕事をする。いつも、クランクイン前にはすでに、ヘロヘロ。監督業以前の仕事も全て僕自身がやるからだ。倒れそうな状態であることが多い。でも、それをスタッフ&キャストにバレないように元気に振る舞う。撮影が終われば、スタッフ&キャストの仕事は終了。だが、監督である僕は、そこから2−3ヶ月に渡る編集作業が始まる。完成後は宣伝活動。そんなことで1年くらいすぐに過ぎてしまう。

以前、監督したある映画のときは製作費集めから、スタート。完成まで4年かかった。その間、休みなし。ようやく東京公開されて、ほっとしたとたんにバタ!何ヶ月も起きられなかった。医者に怒られた。

「死んでいてもおかしくなかったんだぞ!」

だが、それは承知の上。映画を作るときは毎回、遺作だと思ってやる。だから、無事完成してから過労死するなら本望。でも、半年も寝込んだのは辛かった。50歳を超え、次同じことをしたら、本当に過労死だな?と痛感はした。

そして、50歳を超えてから監督した今回の「向日葵の丘」実は前作「朝日のあたる家」から繋がっている(?)というのも、「朝日」の企画をスタートさせたのが2012年7月。そこから製作費集めを開始。ロケハン、風景撮りもスタート。翌年の2013年3月に撮影。そこから編集。5月に完成。休む間もなくロサンゼルスの映画祭へ。帰国してからは日本公開。

各地の舞台挨拶ツアー。年が明けた2014年もツアーは続く。日本各地で宣伝活動。それと平行して、「向日葵の」のシナリオ書き。「朝日」映画館公開終了が3月。4月下旬から「向日葵」の撮影。5月終了。その直後から編集作業が3ヶ月。

そして12月に完成。今年、8月の東京公開までは宣伝活動。その後は舞台挨拶ツアーとさらなる宣伝。他の仕事はせず、それに専念した。1人でも多くの人に映画の存在を知らせるのは、監督自身がアピールすることが有効だからだ。それがようやく終焉時期になり、宣伝活動も間もなく終わる....。

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で、先日「映画館で映画を観よう!」と出かけようとして、途中でもの凄い疲労感に教われて断念。帰宅。でも、Facebookを更新しないと「あ、ついに監督は死んだな!」と思われるので、生きていることを伝える記事を上げておいたら、裏を察知した友人から連絡があったのだ。

でも、ご安心を。今回は以前ほど酷い状態でなく。テレビを観ることもできる。過労で倒れてみると分かるが、テレビさえ観れなくなる。集中力が減退し、本当に何もできず、1日ベットの上で寝たまま。まさに、自宅入院状態となる。だが、今回は起きてFacebookを書くことができるし、テレビ番組どころかDVDで映画を観ることもできる。これは過労度から行くとかなり回復に向かっている状態。

振り返ってみて「向日葵」の戦いも、かなり大変なものではあった。1人7役、8役をこなした。が、以前のような困った関係者は参加していないことで、ストレスが大きく軽減されたことが大きいかも。現在はPは僕1人。全て僕の責任で映画製作。何があっても全て僕の責任。だから、あれこれ口を出す人。間違った考えを押し付ける人。古い価値観を振り回す人はいない。本当に「いい映画を作ろう」という仲間とだけ、作品作りをしている。スポンサーもとても理解があり、いろんな形でサポートしてくれた。今回、前回ともに、評判がとてもいいのは、そんな素敵なスタッフ&キャストが参加してくれたことが凄く大きい。

映画製作というのは、どんな低予算作品でも、金目当てで、潜り込もうとする輩がいる。「監督の情熱に打たれました!応援したいです」とかいって近づいてくる。が、彼らは決して「素晴らしい作品」を作ろうとは思わず、製作費を抜いたり、ギャラをピンハネ、別の名目で自社に金を入れる。僕を飛び越えて、スポンサーに取り入ろうとする。応援してくれる著名人に顔を売り、こびることに必死。隙あらばプロジェクトを乗っ取り、自分の好きにしようとする連中までいる。

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そんなふうに映画製作を食い物にしている輩は、この世界に多い。一度、仲間に入れると、追放するのはなかなか大変。そいつの正体を見抜けず、庇う奴まで出て来て、更なるトラブルを生む。まるでがん細胞。増殖し、次第に映画製作そのものを蝕むので、素晴らしい作品を作るどころか、撮影を終わらせるだけで精一杯になる。映画作りより、がん細胞との戦いに多大なエネルギーを費やしたものだ。

そんな輩を閉め出したことで、より素晴らしい作品が出来るようになり、ストレスも減った。あと、食生活はかなり気をつけた。インスタント食品、コンビニ弁当、ファーストフードは出来る限り避ける。最近は毎晩、納豆と豆腐。子泣きじじいが3人ほど背中に背負っているような疲労はない。今回は過労死せずに済みそうだ。

とはいえ、まだ完全に「向日葵」プロジェクトが終了した訳ではない。ここでホッとすると、隠れていた疲労困憊が顔を出し、自宅入院生活!ということもありえる。毎回、精神力で体を支えているので、ほっとしたときが一番怖い。でも、ほっとせずにがんばっていると、強制的終了でダウンする。体はよく出来ている。そんなことを気にしつつ、もう少し、がんばる!

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【一般の人には分かり辛い映画界のルール。人生を賭けた戦いということーある若手女優の悲劇を紹介 [映画業界物語]

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【一般の人には分かり辛い映画界のルール。人生を賭けた戦いということ】

友人Aは後輩監督。彼が選んだ若手の女優はときどきブレイクする。僕もよく「実力派の若手女優を見つけるのがうまい」と言われるが、後輩もなかなかだ。そんなA君が期待している若手女優B子がいた。ただ、その魅力は他の監督たちには理解されず、オーディションに落ちてばかり。

で、彼は自作で起用。毎回、違う役に挑戦させた。いろんな役を経験させて、自分以外の作品にも出演できるようになってほしかったからだ。B子は頑張り屋で役作りに、もの凄いエネルギーと時間をかけて、毎回、観客の心を打つ演技を見せた。まさに人生を賭けて芝居をしていた。

しかし、ある映画でB子の芝居、ど素人もビックリの酷いものだった。棒読みもいいところ。中学生の朗読だ。彼女を評価する人たちは「今回の役はむずかしいから仕方ないよ」といったが、そうではない。明らかに役に対するアプローチ不足だ。

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その役はどんな役で。どんな人生を送っている人で、どんな経験をし、どんな家庭で、どんな幼少期を過ごし、今があるのか? どんな性格で、どんな趣味で、どんな心の傷を受けているのか? そんなことを徹底して考えて役作りをする。それにかける時間が少なく、真剣に考えていないための結果であることはすぐに分かる。そのことを後輩監督のA君に訊いた。彼は答えた。


「やっぱ、分かりますか? 映画に使ったのは彼女の芝居の10分の1ほど。あとは酷すぎて使えませんでした。だから、ほとんどカット.....本当に辛かった....でも、カットしないと作品自体がどーしようもないレベルになる.......で、B子ですけど....気づいてはいたんですけど、彼氏ができたんです...」

だろうと思っていた。そのために潰れていった女優の卵を何人も見て来た。役者を続けるのは大変なことで、無名俳優の多くはアルバイトをしながらオーディション等で受かると、休みを取り撮影に参加。終わるとまたバイトという生活。精神的にもかなり大変。そんなときに自分を理解してくれる彼氏が出来る。

一見、精神的にも支えられて、よりがんばれるかと思えるが、実際は逆のことが多い。甘えてしまい、辛い心が癒されてハングリーさを失う。死に物狂いで演技プランを考えるより、彼との幸せな時間を選んでしまう。男でも彼女が出来たことで、不安定な役者を辞めてカタギの仕事に就くことがあるが、僕が見て来た限りでは女性の方が、夢を諦めることが多い。後輩は続ける。

「B子に訊くと、彼氏と揉めてイライラしていて演技プランに集中して考えられずに撮影に挑んだそうです。親が死んでも、カメラの前で笑顔で演じるのが俳優。なのに彼女はそれができなかった。もう俳優失格です....」

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分かる話だ。俳優として一番ダメなパターンとさえ言える。松田優作は手術して車椅子生活すれば助かると医者に言われたのに、手術を拒否「ブラックレイン」に出演して亡くなったのだ。まさに命と引き換えに芝居をした。多くの俳優は人生をかけて芝居をする。だから、感動が伝わる。そんな中で新人のB子が彼氏と揉めて集中できなかったは通らない。後輩は他の友人たちにもそう説明した。が、多くがこういったらしい。

「でも、これを糧に次がんばるということがあるだろう? もう一度チャンスを上げたらどうだ。可哀想じゃないか?」

それは違う。熱がある体調が悪かった。だから芝居がうまく行かなかったなら、まだ、次はこの経験を教訓に体調管理をしっかりしようということはあるだろう。だとして、許されないこと。体調管理できていないところで俳優失格。B子の場合はさらに悪く。体調も良好で、時間もあったのに、役作りをせず、彼氏のことばかり考えて、何もせずに撮影現場に来たのである。

これはもう次がんばるという問題ではなく、二度と俳優業をやってはいけないというレベル。映画作りは趣味や遊びではない。命がけの戦いだ。だが、後輩の友人たち。カタギの人たちには理解できないようでこういうらしい。

「B子が可哀想だよ。俺もエキストラで現場に行ったとき会ったけど、とてもいい子だし。ずっと応援していたんだ。もう一度チャンスをやれよ!」

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その友人は分かっていない。映画作りをサークル活動と同レベルで捉えているのだ。或は会社で恋人のことを考えていて、大失敗した。それを上司に叱られたというレベルで考えているのだ。映画は1人の失敗で、その作品自体が崩壊することがある。誰もが魂を削る戦いをしている中で、彼氏のことを考えて芝居ができないなんてありえない。

特に後輩の現場は皆、真剣。事情を知らなくてもスタッフは「もう、B子はダメ。あの演技ではもう無理」となっている。そこにプロと一般との落差がある。何よりB子自身が「もう、A監督の作品には出られない。あんな芝居をして許されるとは思わない」と言っているらしい。これまでの彼女の演技は本当に素晴らしかった。人生賭けていた。それだけに役者として今回のことは許されないと悟ったのだ。

それでいえば、人生賭けるほどの子なのに、彼氏のことで芝居が出来なかった段階で、もう女優は辞めた方がいい。第1線まで上り詰める多くの女優は、恋より仕事を選ぶ。もの凄い強い思いを持っている。ある意味で平凡な幸せを捨ててかかっている。そこまでしないと生き残れない世界。

でも、A君の友人たちには分からない。「もう1度チャンスをやれよ〜」そんなことをして同じ失態を繰り返したらどうするのか? 今のB子の優先順位は「彼氏」が1番。「演技」は2番。そんな子をキャスティングしてまた作品存亡の危機を招くようでは後輩が監督失格となる。俳優失格というより、B子はすでに俳優ではないのだ。なのに、後輩のまわりのB子ファンたちが、彼女のブログにコメントを書き込んだ。

「がんばってください!」「これからも応援しています!」

これが一般のファンならいい。B子も良く知るA監督の友人たちからの激励。これは応援にはならない。より責任を感じて、心破れるばかり。しかし、友人たちはB子を励まそうと純粋に思っている。極端な見方をすれば嫌がらせとさえ言えるのだが、彼らは気付かない。コメント返しは誰にもなかったという。

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その後、B子は仕事がなく。引退。結婚したと聞く。A監督の作品にしか出れない子が、自分を一番評価し、期待した監督の作品で素人のような芝居をした。自分で可能性を潰したようなものだ。いや、A監督の作品さえ崩壊させたかもしれない。罪は大きい。なのに、後輩の友人たちは未だにこういってる。

「A監督は冷たい。やさしくすれば、B子はまたがんばれたかもしれない。あいつがB子の女優人生を潰したんだ!」

一部始終を見て感じた。僕も似たような経験を何度もしている。結果として言えるのは、短い間だがA監督と出会ったことで俳優になる夢も果たした。そのあと彼女は「芝居」より「恋」を選んだ。「仕事」を失うより「彼」を失いたくなかった。

だから、A監督の期待を裏切ってしまった。「仕事」より「恋」を選んだという意味でもある。両方は選べない。結婚しても女優を続ける人はいるが、その場合は「結婚」の優先順位は2番だったりする。そうでないと生きていけない業界。しかし、その世界で生きることが全てではない。B子は幸せになれたのだと思う...。

なのに、後輩の友達たちは「女優としてがんばれ!」という。仕事より恋が大切となった子に芝居でもう一度がんばれ!という。コメントを書き込む。そのくせに、プロに徹した後輩監督を批判する。その辺が一般の人には理解できない部分なのだろう。

クドいようだが解説すると、A監督の思いを例えると、巨大タンカーの船長。B子が機関室長。なのに、彼女は仕事を放棄。船が座礁しかけた。だから解雇した。対して友人の発想はこう。サークル活動に参加したとき、B子という可愛い子がいた。好感を持った。それを些細な失敗で、A監督が解雇した。許せない!もう1度チャンスを上げろよ!

同じ事実がそれぞれに、そんなふうに見えているはず。だが、映画撮影はサークル活動ではない。まさに巨大タンカーで航海するようなもの。でも、一般の人には分からないだろう。そんふうに映画の仕事はなかなか理解されないものなのだ。


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私の実力を認めてくれ!と主張する前に、人のために何ができるか?を考えることが大事 [映画業界物語]

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【私の実力を認めてくれ!と主張する前に、人のために何ができるか?を考えることが大事】

劇団員というのは大変だ。食って行ける劇団はいくつかしかなく、ほとんどがバイトで生活を支えいる人ばかり。公演時は1ヶ月前からバイトを休み、ノーギャラの上に、チケットを100枚ほど売るのがノルマ。

しかし、毎年行われる公演にさえ2年に1回しか出演できない。そんな劇団に20代のA子がいる。月18万ほど稼ぐバイト料から毎月1万ずつ貯金して、20万溜まったら、芝居に出れるというのだ。

その劇団は小さく、観客のチケット代だけでは赤字。劇場を借り、ポスターやチラシを作り、衣装や小道具を借りると、持ち出しになる。だから、劇団員が1人20万ずつ出し合って公演をする。その金がないと、出演することができない。だが、月18万円で毎月1万の貯金は大変。月1−2回の飲み会に出るともうアウト。節約して生活しても2年かかる。

そのA子の夢はプロの俳優になること。いつか映画やテレビドラマに出られるようになりたい。そう思ってがんばっている。そのA子が以前、僕が講師をするワークショップに来ていたこともあり、その劇団の芝居を見た。抜群にうまくはないが、がんばっている。

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その年に撮影する僕の映画に出演しないか?と訊いてみた。エキストラに毛の生えた役だが、台詞がある。ただ、製作費も厳しいのでノーギャラ。それれでも、撮影現場を経験できるし、プロの俳優たちと並んで芝居ができる。勉強になるはずだ。が、彼女は不満そうにこう訊いた。

「ノーギャラって、どういう意味ですか?」

ノーギャラはノーギャラ。出演料がないという意味だ。それは理解しているはずだ。要は「プロの仕事に出るんだから、それはないでしょう?」という意味だ。もちろん、余裕があればギャラは出したい。が、僕の映画は毎回、ギリギリでやっている。いや、僕だけではない。今、ドラマも映画も本当に節約に節約して撮影をする。プロでも小さな役はバイト料と変わらぬ額だったりする。それでも1本の映画に出演できると、皆、全身全霊で芝居する。

なのに、実績もない、有名でもない、彼女がギャラを要求していた。ここで本来はアウトだが、自分の立場を勘違いしているのではなく、プロの世界を知らないのだと思い、説明した。映画の世界はバイトではない。1時間900円とかで仕事をする世界ではない。実績と実力がものを言う。実力があっても、なかなか認められない。俳優事務所からは「タダでもいいので、ウチの子たちを何かの役で出してください」とよくいわれる。それでも出れない。

小さな実績を積み重ねて、いろんな人と知り合い、チャンスをもらって、階段を上って行く仕事。いや、今は仕事と捉えてはいけない。チャンスだと思ってほしい。僕にできるのは、小さな役だけど台詞もある。勉強になる。A子なら出来る役なので、お願いした。と話した。


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彼女は不満そうだったが、納得。出演した。その後、現場はとても勉強になったと喜んでいた。で、映画公開のとき。劇団員の彼女ならチケットを売るのは得意だろうと頼んだら「友達は皆、忙しいので、映画見れるかどうか?分からないし、買ってもらえません」と断られた。なぜ、自分が出ている映画を同じ劇団員や友達に見てもらおうと思わないのだろう?さらに、試写会に呼んでもスタッフにこんなことを言ってる。

「****さんの芝居がよくなかったなあ。もっと力を抜いてやった方がいいですね」

ちょっと待て、その俳優はプロだぞ。素人のお前が何をいうの? いや、100歩譲って、その通りだとしても、それをスタッフにいってどうすんの? もしかしたら、何かの機会にそのスタッフが別の映画で声をかけてくれるかもしれないのに、一緒に演じた俳優を批判していては「この子何なんだ?」と思われて終わり。

あとで呼びつけて説教したら、反省していたけど、一連の行動は全て同じ背景だ。自分の行動や発言がどう思われるか?を考えていない。一般の素人がいうなら許される。しかし、プロの俳優をめざし、劇団で舞台に立ち。映画の撮影にも出演。台詞ある役を演じている。それはもうプロのスタートラインに立ったのと同じ。にも関わらず、素人気分なのだ。チケットをたくさん売れば、映画会社にも喜ばれる。

「へーあの子、チケット100枚も売ったのか? また、何かあれば声かけて上げようよ」

と言われるだろう。儲けのことではない。そのくらいに作品に対する思いがあり、多くの人に見てほしいという思いを感じるからだ。が、彼女は訳の分からない理由でチケットを売ろうともしなかった。

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初出演なのにノーギャラと言われると不満を表す。そこで声をかけられたことにまず感謝を示すのに「えー?」という顔をしてしまう。そして試写会での感想。どれをどうとっても「やる気」が見えない。不遇の身ではあるが、どこかで「私は出来る!」という自負があるのかもしれない。しかし、彼女はまだプロではなく、その実力を世間も業界も認めてはいない。それなら、まわりにいる応援してくれる人たちに理解してもらう努力をすべきなのだが、いつも空回り。

実はそんな俳優の卵は多い。勘違い。うぬぼれ。気がまわらない。自分の立場が分かっていない。応援してくれる人に不義理をする。芸能界はコネと金だなんて言われるが、それだけではない。一生懸命がんばる人は応援されるし、成功している人は皆、もの凄い気遣いをする。仲間のために神経をすり減らす。

実は他の世界も同じだろう。初心者は「実力があれば認められる」と勘違いしがちだが「私を評価してくれ!」と言う前に、「いかに人のために役に立つか?」を伝えること大事なのだと思える。


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映画は「泣かそう」と思って作ると感動作はできない? [映画業界物語]

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【映画を作りはどんな題材で何を伝えることが大事か?を考える。「泣かそう」と思って作ると感動作はできない?】

映画監督が映画を作るとき「これを撮ってください」と依頼を受けて撮る場合と、自分がやりたい企画を映画化する場合とがある。前者が圧倒的多数だが、僕の場合は後者が多い。もともと依頼が少ないのに、せっかく依頼があっても自分に合わない作品だと断ってしまったりする。そして本当に作りたい!という作品は何年かかっても作るからだ。ただ、いずれにしても「これを作りたい!」と思えるものを作らなければ、素晴らしい作品はできない。

でも、そんなだから、僕の場合は4−5年に1本しか監督できないということになる。おまけに通常の映画は20%ほど製作費から手数料を抜き製作するが、僕の場合は何だかかんだで全てを映画に注いでしまうので、何も残らない。それどころか、監督にはギャラが支払われない宣伝活動まで全面的にやってしまうので、1本撮るごとに経済が大変なことになる。

そんな訳で「向日葵の丘」公開も終わりに近づき、今後はどうして行くか? 考えねばならない時期に来た。とりあえず、正式な依頼はまだない。が、声をかけられたから考えたのでは遅い。どこで仕事をするにしても、そのための企画を用意しておくことは大事。しかし、問題がある。「向日葵の丘」はもの凄く評判がよかった。僕の監督作品で1番評価された作品かもしれない。

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嬉しいことだが、同時に恐怖でもある。次はよほどいい映画を作らないと「前の方がよかったなあ〜」と言われるからだ。例えば90点を取ると、次に85点を取っても「前より落ちた」と言われる。それと同じで、評価されると、次はもっと上を行かないと「駄目だ」と思われる。しかし、毎回、「感動した〜泣けたー」という映画を作ることなんて出来ない。感動作を1本作るだけでも至難の技だ。

ただ、僕の場合「泣ける映画」を目指しているのではなく、結果として観客が感動、号泣するというもの。泣かせ映画を作っている訳ではない。が、観客はそれを期待してくるのである。そのプレッシャーはもの凄いものだけど、気をつけねばならないのは「泣ける映画を作るにはどーすればいいか?」と考えてはいけないということ。

「泣ける」ではなく、何を伝える映画を作るべきか? を考えることが大事なのだ。今の時代に「親子に伝える大切なこと」とは何か?が僕の映画のテーマであり。何をどのようにして伝えるか?が映画作りである。僕の1作目はファンタジー映画だった。2作目の題材は書道。3作目は原発事故。そして今回は現代と過去の物語を繋ぐことで大切なものを伝えた。では、5作目は? 

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そう。その時代時代で一番興味を持ったものを題材としている。だから、毎回、評価されたんだと思える。自分が興味を持てないものを映画にしても、観客には伝わらない。「今、何を見つめることが大事なのか?」「何を見れば大切なことを分かりやすく伝えられるか?」それをまず考えなければならない。

でも、生活のための仕事もせねばならない。ハリウッド監督と違い、日本の監督は本当に大変。監督業だけで食えているのは5人といないだろう。もちろん、僕はその中には入っていない。多くの監督と同じで悪戦苦闘の毎日。そんな環境ではあるが、新しい題材を見つけスタートせねばならない。映画監督業とはそんな商売である。

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1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?! [映画業界物語]

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【1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?!】

 友人が大学生の頃。こんなことを言っていた。「普通の会社に就職するのは嫌だ。映画の仕事がしたい。月20万もらえるなら脚本家の仕事をしてもいいんだけどなあ」?????当時、僕はすでに映画界で働いていたので、もの凄い違和感があった。が、脚本家の求人なんてある訳がなく。彼は普通の会社に就職した。

 友人だけではない。ときどき専門学校に呼ばれ特別講義をする。そこでこんな質問を受けた。「映画監督業は食えますか?」「月いくらの収入がありますか?」そんな質問が出ること自体に腹が立ち正直に答えた。「監督業はブラック企業を超える。アルバイトをすれば時給900円とかもらえるが、監督業は時給50円。いや、日給50円。月収50円ということもある。それが監督業だよ」

 そういうと生徒たちは「映画監督なんてなるものんじゃないなあ」という顔をする。だが、それが現実。年収ゼロ円という監督もいる。奥さんに食わせてもらっていたり。アルバイトで生活している先輩もいる。監督業は厳しいという話ではない。そもそも、大学生の友人や専門学校の生徒の発想が間違っていると言う話をしたい。

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 彼らの発想はバイトが基本になっている。1時間働けば900円。たいていのバイトはそんな感じ。1日10時間労働で9000円。1ヶ月に20日間働けば18万。「それならどーにか生活できるかなあ?」という考え方だ。しかし、それはバイトや会社員の世界での価値観。映画の仕事は監督でも、脚本家でも、カメラマンでも、技術がいる。質問をした生徒たちは、まだ何も技術を持っていない。にも関わらず1時間働けばいくら? 1日働けば***円という計算ばかりしている。

 何の技術もない彼らが撮影現場に来ても、何の役にも経たない訳で、1時間いくらどころか、1円たりとも払われることはない。いや、現場に呼ばれることすらない。そのことに気付かず。「監督をやれば、いくら? 脚本家なら**万円?」と時給計算をしている学生たちは、基本的におかしい。

 バイトというのは、ちょっと教えてもらえれば出来る仕事。特別な技術は必要ない。だから、1時間900円とかいう賃金をもらえる。だが、映画の仕事は誰にもでできるものではない。技術があった上にセンスも必要。それを持った人にギャラを払って働いてもらう。その違いを学生たちは理解せず。1時間働けば***円とバイトの感覚で考えるので、ズレてしまうのだ。

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 ベテランのスクリプターさん。彼女は若い頃からスクリプターの仕事をしたかったという。が、経験がない。そこで友人に頼み込み、ノーギャラで、それも見習いで撮影に参加した。1年仕事をしたがノーギャラ。何の技術も経験もない人に賃金は払われない。逆に本来なら彼女は現場でいろいろと学ぶのだから、授業料を払わなければならない。ノーギャラでもメリットは大きい。

 頼み込んで低予算テレビ番組の撮影に参加してもらい、1年間勉強しながら現場をこなした。が、彼女の本当の目的は映画のスクリプターだった。テレビと映画のシステムは違う。そこでまた1年間、見習いで映画撮影に参加。仕事を学んだ。今は一人前のスクリプターとして、それなりのギャラをもらっているが、映画の世界では、技術も経験もない者には1円たりともギャラは払われない。

 そもそも経験のない人は撮影の邪魔になったり。足を引っ張ったりすることが多いので、撮影には参加させてもらえないことが多い。1年間も現場で働いたということは、彼女がかなり優秀で頑張り屋だったということ。今の映画界に新人を育てようという思いはないし、低予算化の波で、役に立たない者はすぐに解雇というのが現状である。

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 さて、思い返してほしい。そんな世界で「月20万円もらえるなら脚本家になってもいい」という大学生。何の技術もない生徒が「監督業は月いくらもらえますか?」と質問。学生にありがちなバイト感覚でしかないことが分かる。だが、これは映画の世界ばかりではない。一般の会社も昔のように、新入社員は業績を上げなくても、数年は月給もらって勉強というところは少なくなっている。何らかの技術やスペシャリティのない者は採用しない会社が多い。

 「月給は30万はもらわないとね!」とかバイト感覚で言っていると、社会からはじき出されてしまうだろう。時間の切り売りをして、賃金をもらえるのは、アルバイトだけなのだ。その発想で「仕事」を考えてはダメ。「仕事」を得るためには、それなりの「技術」や「経験」が不可欠。映画界だけでなく、一般の社会もそうなって来た。

 大学の4年間。或は専門学校の2年間。バイトして、コンパして、旅行して、さあ、就職だ!といううときに、技術も経験もないと大変なことになるだろう。

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 最後に少し前に専門学校に行ったとき、出た質問を紹介する。

 「太田監督の撮影現場はボランティアでお手伝いしている人がいると聞きましたが、僕らも参加できますか? それから1日いくらもらえますか?」

 僕は答えた。

 「通常は撮影現場に一般の人は入れない。技術も経験もない人が参加すると、トラブルを起こしたり、隠れて俳優の写真を撮ったり、大変なことになることが多い。だから、よほど信頼できる人で、映画愛のある人。この映画を応援したい!という人だけを厳選。撮影の過程を経験、一緒にがんばることを楽しんでくれる人たちのみ。受け入れる。その意味で君はダメ。ボランティア・スタッフでいくらもらえる?なんて質問する段階でアウトだ」

 その生徒はあとで「よく分かりました。ノーギャラでもいいので、手伝わせてください」といってくるかと思ったが「何だ、タダかよ!」という顔で帰って行った。バイトというシステムが若者たちに勘違いさせ、時代を逆行していることを改めて感じた。学校教育で与えられたことだけをやっていたら、社会に出て大変な事になる時代。なのに気付かぬ若い人が多い。悲しい話だ...。

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