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【大手映画会社が映画を作らない理由? ー配給のみの方が儲かる不思議な業界!】 [映画業界物語]

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【大手映画会社が映画を作らない理由? ー配給のみの方が儲かる不思議な業界!】

 その昔、映画会社は映画を製作し、

自社の映画館で上映していた。五大映画社と言われた東宝、東映、松竹、大映、日活。それぞれが自社製作し、作った作品を自社の映画館チェーンで公開した。だが、倒産したり、買い取られたり。昔とは違う方法論で生き残ろうとしている。

 それらの映画会社。ほとんどが、この数年。年間1ー3本くらいしか映画を作っていない。「じゃあ、何をして儲けているの?」と思うだろう。あるいは「でも、映画会社の映画館では毎日映画を上映しているじゃん? 作ってるってことだろう?」というだろう。

 その疑問に一気に答える。映画会社は自社ではほとんど映画を作らず、他の会社が作った映画を上映しているだけなのだ。近所にある***シネマというシネコンでかかるほとんどの映画は、従来の映画会社ではないところが作った映画なのである。

 「えーー、上映だけなら儲からないじゃん!?」 

 「なんでそんなことするの?」と思うだろう。いや、その方が儲かるのだ。だから、映画会社は映画製作をせずに上映(つまり配給)だけをしているのである。詳しく説明しよう。

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 例えば映画会社でないA社が映画を製作するとする。

製作費は1億円。それを全国上映するために大手の映画製作会社に依頼。会社は「配給」と「興行」を請け負う。「配給」とは宣伝と映画館のブッキング。「興行」とは映画館で上映することをいう。言ってみればA社は農家。野菜を作る。「配給」が市場。「興行」が小売店にあたる。

  ここからが問題だ。配給会社(正確には映画会社の配給部門)はA社に宣伝費として、最低5千万円を要求する。それを使った宣伝。自社の映画館チェーンで上映する。

 そこで3億円の収入が上がったとする。

その中からまず映画館グループが50%を取る。残りは1億5000万円だ。そこから配給会社が半分の7千500万円を取る。残りは7千500万円。それが映画製作をしたA社の収入。

 なんと映画会社は収入の75%を取ってしまう。一方、映画を作ったA社は製作費に1億円つぎ込んでいる。そして宣伝費に5千万円。合わせて1億5000万円の出費。儲けは25%なので7500万円。差し引きすると、7500万円の赤字である。

 1億円もの製作費をかけ、映画を作って、3億円もの興行成績をあげたのに、儲けはなし! それどころか2500万円の赤字。比べて映画会社は1円も現金を使わず。宣伝費ももらって、自社の映画館を使って、2億2500万円もの売り上げを出しているのである。これでわかってもらったと思う。

 映画を製作したA社      支出1億5000万円 収入7500万円  赤字7500万円

 配給・興行をした映画会社   支出(現金は0円) 収入2億2500万円 


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 映画を作ると巨額の赤字。配給興行だけなら2億円の黒字。

映画製作は物凄いリスクを背負うことになるのだ。それに対して配給興行は請負業。売り上げから収入を得る。結果として、映画を作った会社は儲からず。作っていない会社、映画館を持つ会社は大儲けできるというシステムなのである。

 言い換えれば、農家が様々なリスク、お天気、害虫、疫病、いろんなことに気をつけながら何ヶ月もかかって作った野菜。それを市場を通し、マーケットで売って、儲かるのは市場とマーケットだけ。ということなのだ。同じく、リスクを背負い大金をはたいて映画を作っても、製作した会社は赤字で、映画館と配給だけが儲かるということが起きてしまう。

 もちろん、映画がメガヒットすれば、

製作した会社も儲かる。でも、配給、興行はもっと儲かる。少しくらいのヒットでは、配給・興行は儲かるが、製作会社は大赤字となる。だから、映画会社はリスクを避け、この10年以上、できる限り映画製作はせず。配給・興行に徹して、外部で作られた映画を上映して収入を得ているのである。

 実際、映画会社も多くの社員を養い、全国の映画館を維持していくには多額の支出がある。だから、多額の歩合を取らねば大変なことになる。だが、映画製作と興行面だけを見るなら、映画を努力して作った方がバカを見ることが多くなってしまうのだ。だから、大手映画会社は映画を作らず。リスクを避け、どこかが作った映画を上映して収益を上げる。もはや映画会社ではなく、映画館会社だ。

 大企業が映画を作ると、多くの映画会社が

「ぜひ、うちで上映してください!」とアプローチする。なぜか?というと、リスクなしで大儲けできるからだ。そして、儲けの75%を持っていく。映画製作とは本当に報われない仕事だと思えてしまう。もちろん、それとは違った方法論もある。また、別の機会に紹介させてもらう。


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映画の成功はキャストだけでなく、スタッフ選びも大きい! [映画業界物語]

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後輩の映画監督から相談を受けた。

撮影現場が非常に混乱してうまく行かなかったのだが、理由が分からないという。スタッフ同士が議論になったり、喧嘩したり、ギクシャク。まとまらずに、それぞれが勝手なことを始めたというのだ。

そう聞くと普通なら「相性が悪いスタッフが多かったんだね?」とか「ギャラが安いのでイライラしてたんじゃないの?」とか言われそうだが、後輩はそういうことではないというのだ。で、いろいろと訊いてみた。

まず、後輩が監督したのは低予算映画。それをドキュメンタリータッチで撮影しようとしたという。手持ちカメラを多様。多少のブレがあっても、台詞が聞き取れなくてもOK。それよりリアリティを重視。あえていえば、アメリカのテレビドラマ「24」をさらにエスカレートさせ、「これはドキュメンタリーじゃないの?!」と思えるほどのリアリティある映画をめざした。

次にスタッフを訊くと「カメラは***さん。照明は***さん、

助監督は***君」と名前を上げてくれた。その段階で「ワトスン君。答えは簡単さ!」といいたかった。もちろん「AさんとBさんは犬猿の仲なんだよ。うまく行くはずがないさ」なんて真相ではない。映画作りの難しさがそこに現れていた。

まず、カメラのAさん。この人はドラマでもドキュメンタリーでも出来る人。だが、照明のBさんはバリバリの映画人。そして助監督のCさん。この人はテレビドラマを専門。もう、これだけで答えは出た。

作品の方向性はドラマだがドキュメンタリータッチ。

だが、照明のBさんはバリバリの映画人。こだわった映像で重厚な物語を作って来た人。それに対して助監督のCさん。テレビの仕事が多いので、とにかく早く撮影する。クオリティは低くて、予定通りにクランクアップすることを重用視。

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そして技術的にも問題が出る。

例えば手持ちカメラがグラグラ揺れとする。通常の映画ではNGだが、ドキュメンタリーならOK。それをあえてドラマでやろうというのが意図なのに、映画の照明部も、テレビ専門の助監督も「それはおかしい!」と受け入れなかったのだ。

照明部はドキュメンタリーではありえない、おしゃれなライティングをするし、演出部は「役者の顔にしっかり光を当てないと!」とテレビドラマの定義を持ち出す。どちらもドキュメンタリーでやったらおかしなことになる。つまり、監督の意図をスタッフのほとんどが理解せず。また、テレビ系、映画系のスタッフもそれぞれに価値観が違い、ぶつかったのだ。後輩が意図するドキュメンタリータッチのドラマを理解しているはカメラマンだけ。

後輩、曰く「作品意図の説明を聞き、皆、分かった!といってたんですよ」そして一般の人から見ても映画も、テレビも同じ。ドキュメンタリーもほぼ同じ。という認識だろう。が、これらは全く違う。似て非なる物。あえていうと宗教と同じ。知らない人が見れば宗教なんて皆、神がいて、その教えを信じるものだと思いがちだが、そのささやかな違いで海外では戦争まで起きている。映画やテレビもまた同じ。

例えば映画では「監督」が絶対的存在だが

テレビは「プロデュサー」、CMでは「スポンサー」ドキュメンタリーもまた「監督」だろう。つまり、映画のスタッフは「監督」のためにがんばるが、テレビは「プロデュサー」だ。CMは「スポンサー」第一。

僕も以前、CMのスタッフとドキュメンタリー作品を作ったが、何かあると「だったら、まずスポンサーに報告して承認を得ないと!」言い出す。いい加減うんざりした。ドキュメンタリーはスポンサーのために作るものではないのだ。同じく、後輩の映画でも、テレビ系は監督よりもプロデュサーにへつらい。監督をないがしろにしていたらしい。

さらに、それぞれの方法論が違い、議論になり、言い争いになる。でも、それは最初から見えていることだ。後輩は事前に説明したというが、何十年も実践してきた方法論を人は簡単に変えることはできないのだ。もし、ドキュメンタリータッチを実践するなら、テレビや映画スタッフではなく、ドキュメンタリーのスタッフでドラマを作るべき。

或は、その種の発想を理解するスタッフを選ぶべき。

名前を聞くだけで、「その人にドキュメンタリーは無理!」というスタッフにした段階で失敗は見えている。よくキャスティングが成功すれば、映画の70%は成功だと言われるが、スタッフも同じ。そこで間違った人を呼ぶと、テロリストを乗せて船出するのと同じになってしまう。

映画スタッフのみならず、新入社員でも、何でも、人選というのは本当にむずかしい。



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映画監督には3通りのタイプがあるの? [映画業界物語]

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 映画監督には3通りのタイプがある。

 一番目が作家タイプ。自分のカラーを持ち。映画によって、自身のメッセージを発信。作品の中でテーマを描こうとする。多くの作品は自身で企画したものである。これが映画作家タイプ。日本でいうと、黒澤明監督や大林宣彦監督のような存在。

 2番目はプログラム・ピクチャー監督。与えられた仕事を自分なりのスタイルで料理して、エンタテイメントとして仕上げる。作家性は強くなく、主張やメッセージにはこだわらず職人技で勝負する。ハリウッドでいえば、トニースコットのような監督。

 そして3番目がディレクタータイプ。

 テレビディレクターに近く、与えられた仕事を卒なくこなす。作品に個性や主張はなく、予算内、期間内に、ある程度のレベルで無難な仕上がりを見せるタイプ。以上の3タイプに分けられる。最近、多く作られる製作委員会方式の場合は、②のプログラム・ピクチャー監督か、③のディレクタータイプが起用されることが多い。


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 この方式だと、出資した多くの企業の顔を立てることが作品のクオリティを上げるより重要なので、①の映画作家では揉めることが多い。なので、与えられたことを無難に仕上げる③のディレクタータイプが重宝される。

 しかし、映画作家タイプはよほどの知名度がないと仕事がない。

 なので、本来①のタイプであるのに、自分を殺し、メッセージや主張を控えて、与えられたことを無難にこなす仕事をする人も多い。「自主映画時代はいい作品を作ったのになあ」とか「デビュー作はよかったのに」と言われる監督はそんな人が多い。

 スポンサーやプロデュサーがあれこれ口を出してきても、「いや、俺はこんなふうにやりたいんだ!」と自分のカラーや主張を掲げると、嫌がられて、次から仕事がもらえない。なので、③のディレクタータイプや②のプログラム・ピクチャータイプに徹して演出するのである。

 だが、やはり、多くの人に支持されるヒット作を作るのは、やはり①の映画作家タイプである。巨匠と呼ばれる監督は皆、このタイプ。アメリカでも、日本でも同じだ。ただ、現在の日本映画は「面白い映画を作ろう」「感動作を見てもらおう」という気持ちより、人気漫画の原作を押さえ、多くの企業に出資させて、人気俳優を揃えるという映画作りが主流。

 誰一人。原作への愛はないのに、

 ベストセラーというだけで映画化。宣伝に何億もかけてテレビスポットを流す。だから、そこそこヒットするが、感動作にはならず、半年も経つと存在すら忘れられる。テレビ局が作る大作映画にその手の作品が多い。この場合の監督は単なる下請け仕事で、与えられたことを、それなりにすることが重要。作歌性も、主張も必要とされない。そこが現代の日本映画が面白くない背景である。

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 その昔、日本映画が世界レベルだった時代。

 なぜ、あの頃はあんなにレベルが高く、名作が量産されたか?を生前の黒澤明監督が答えている。「監督が一番撮りたいものを撮るからいいものができるんだよ」まさにその通りだろう。押しつけで、好きでもない作品を監督してもいいものはできない。①の映画作家タイプが活躍するには、今の時代はむずかしい。

 「主演はこの人! 原作はこれ。脇は主演俳優の事務所の人で固めて、主題歌は今人気の****。これでよろしくね?」と頼まれた作品では、やはりいいものはできないだろう。だから、1年に何本も撮るのは③のディレクタータイプが多くなる。その種の監督の名前をポスターで見るだけで、「あ、この映画は大したことはないな....」と分かってしまう。

 例え、大作映画の依頼が来ても、

 その種の映画だと、③タイプに徹せねばならない。仕事は苦痛なだけになるが、それなりのギャラはもらえる。それが出来る人は仕事が続くが、自身の「思い」や「カラー」は出せず。作品もあまり評価されない。自分のカラーを発揮できれば、いいものができるが、そのチャンスはなかなか来ない。それが日本映画の現状である。

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監督の「思い」がダイレクトに出ないと映画は感動はできない? [映画業界物語]

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編集も、シナリオと同様、缶詰になり

 集中しなければならないので、人と会い話をするとトーキングモードになると、作業ができなくなる。

 通常はシナリオは脚本家が書き、監督は現場で撮影に臨み、編集はエディターがする。それぞれのエキスパートが行う。それぞれに違った資質が必要。シナリオは繊細でクリエイティブ。そして物語を作る力。監督はスタッフを束ね、俳優とコミニュケーションをして、演技を引き出す力。編集は映像のセンスを駆使して、見せる力。でも、僕の場合は3つとも担当する。

 3つもできることを自慢したいのではなく、今の時代はそれが大切なのだ。歌の世界と同じ。昔の歌は作詞家の先生が作詞。作曲家の先生が作曲。それを歌手が歌い。バックでバンドが演奏する。そんなふうに歌謡曲は作られた。でも、今は、ローリングストーンズやビートルズと同じ。アーティストが作詞作曲して、自分で演奏して自分で歌う。日本の歌手も今は ほとんどが、そのパターン。何が違うのか?

いろんな人が作品作りに関わると「思い」が薄くなるのだ。

 作詞家の先生が素晴らしい歌詞を書いても、それを理解しない作曲家が曲を作るとメッセージが弱まる。それを歌手が理解しないと、さらに駄目になる。理解しても、50%60%では弱くなる。それをそもそも作ったクリエーターが全てを担当すれば、そのメッセージはダイレクトにリスナーに届き、感動を伝える。間に人が入ることで、弱くなるのだ。

だから、歌謡曲形式が衰退。

 バンドスタイルが人気を博している。映画も同じ。昔は脚本家の先生が書いたものを、現場の仕切りのうまい現場監督が演出し、センスのあるエディターが映像を編集して映画が作られた。が、それでは「思い」は寸断され伝わらない。

 1人のクリエーターが全てを担当することで、「思い」がダイレクトに伝わる。バンドと同じ。ハリウッド監督のルーカスも、スピルバーグも、キャメロンも、皆、自分たちで企画した映画を、自分でシナリオにし、演出、編集。完成させる。「思い」がダイレクトに伝わる。だから、彼らの映画は世界中で人気となった。

 僕の映画も同じスタイル(予算は全然違うが!)、僕自身が企画。原作はなくオリジナル・シナリオとして 、僕自身が書き、僕自身が現場で演出。僕自身が編集し、仕上げる。1年近く休みなしの作業になるが、そうすることで「思い」をダイレクトに観客に届けることができるのだ。

 ま、残念ながら、バンドでいう「歌う」=「演じる」はできないが、それをやってしまったのが、チャップリンだ。彼の映画が時代を超え、感動を伝えるのは彼の思いがダイレクトに届くからだと思える。

ただ、「シナリオ」「監督」「編集」というのは

 全く違う資質が必要だし。使う感覚も違う。監督はアクティブで社交的。ある意味で戦闘隊長のようなものだが、編集はナイーブで繊細な感覚を持つ孤独な職人気質が大切。真逆の性格?!シナリオ執筆と同様にその種の「霊」(?)が降りてくることも大事(詳しくは監督日記 の「シナリオ」編を!)その切り替えが苦しい。何といっても、ほぼ別人になるのだから大変。人間がオオカミに変身するのに近い? そこまでは行かないか?

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編集は作業ではなく、悲しみとの対峙。 [映画業界物語]

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今回の映画「向日葵の丘」

 いつもと違う手法で描いている。「ストロベリーフィールズ」は昭和40年代の物語。全部が過去。「青い青い空」「朝日のあたる家」は現代。そして今回の「向日葵」は「1983年」と「現代」。初めて2つの時代を描いた。決して新しい試しみではなく、例がいくらでもあるスタイルなのだが、その手法で「人生とは何か?」を描いている。

僕の映画は

 「親子に伝える大切なこと」が毎回のテーマなのだが、今回の「向日葵」は同時に「人生とは何か?」が主題ともいえる。そのために、主人公以外にもいろんなキャラクターが登場。その人生を描く。多くは普通の人々。でも、彼ら彼女らは何の罪もないのに、ささやかな幸せを求めているだけなのに、不幸な出来事にぶつかり、やがて悲しい結末を遂げることになる。

その物語。

 机の上で想像したものではない。テレビドラマを見て借りて来たエピソードではない。全て実在の人物。僕が出会った人々であり、長年の親友をモデルとしている。だから、現場でそれを演じる俳優さんたちを見ていて、胸が詰まった。心優しき友人たちの末路を改めて見つめるような思いで、何度も涙が溢れた。

なぜ、彼は、なぜ、彼女は

 あんな思いをせねばならなかったのか? どんな罪を犯したというのか? 平凡に小市民として生きて来ただけ。小さな夢を胸に秘めて、それすらも果たせずに、潰れていった。ある者は全てを失い、ある者は子供を残したまま、この世を去った。

でも、僕は何もできない。

 手を差し伸べることもできなかった。いや、会うことすらできず、逝ってしまった奴もいる。今もその絶望の中で足掻いている友人もいる。なぜ、あの子が、なぜ、あいつが、そんな思いをせねばならないのか?憤りと怒りと悲しみが撮影の間中、交差していた。今も、その思いは続き、心から血が流れ続けている。

 一因はそこにあるのかもしれない。その友人たちの過酷な結末を編集作業の中で、もう一度、見つめなければならないことを躊躇することもある。シナリオも、編集も、単なる作業ではない。人生と向かい合うこと。その中で希望を探し、答えを見つけること。それが作家の使命。その過酷な悲しみと、対峙せねばならない。それが映画を作るということなのだ。

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監督業に専念できない理由? [映画業界物語]

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 僕は監督、編集だけでなく、

プロデュサーも担当している。源泉徴収の納付、給与振込、使用料の支払い等もあって役所や銀行にも行かねばならない。撮影後の清算やあと始末。苦情の処理等。といって、それにばかり時間を割いていると他が進まない。編集は「霊」が降りて来なければならない作業。午後1時に人に会って、午後2時から編集。午後3時に銀行なんてことはできない。

「それならプロデュサーを雇って、やらせればいいじゃん?」

 という人もいるだろう。だが、そのPというのが曲者が多い。前にも書いたが彼等のためにどれだけの事件が起こるか? 全部とは言わないが、多くのPは金にルーズ、トラブル解決をする仕事なのに、自ら事件を起こすことの方が多い。あげくは僕が製作費を集め、映画を企画し、彼を雇ったのに

 「太田監督に映画を撮らすために、がんばりましたよ。あっはは!」

 などと自分が全てをお膳立てしたかのように言い、関係者に敏腕Pであることを売り込む。(そうやって、別の仕事を取ろうとするのだ)そのくせ、ルーズな行動が多く。多くの関係者に迷惑をかける。そんなトラブルを僕があと始末をして、迷惑をかけた人たちに謝罪してまわる。毎回そんな感じだった。

その後、僕自身もPの肩書きを着けるようにしたが、

他の「P」たちが同じことを繰り返したので、前作からは僕のみがPとなり、支払いから後始末までP業を担当している。(今回はプロデュサー部の補佐的存在はいるが、製作費、人事については僕が担当。最高責任者という形だ)実はそれが一番機能的と痛感した。確かに時間と手間はかかる。

でも、Pが起こすトラブル

(あとになってギャラの額を変えて、スタッフを怒らせる。不必要な出費をして製作費をオーバーする。多額の製作費を抜いて自分のものにする等)がなくなったと思えば、全然OKという気はしている。とはいえ、編集作業も進めねばならないので、このままでいいとは言えない。友人は言う。「女性Pと結婚すればいいんだよ!」でも、それが一番大変かもしれない?

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最近の日本映画は面白い映画を作るより、スポンサーの顔を潰さないことが大事? そこに映画愛はあるかい? [映画業界物語]

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 映画の作り方はいろいろあるが、

 今回は実行委員会方式を紹介する。スタートもいろんなパターンがあるが、例えば製作会社が企画を立ち上げる。人気漫画の「*****」を映画化しようと考える。まず、製作費。最初は原作を出している出版社にアプローチ。そしてテレビ局、レコード会社、ビデオ会社、映画によく投資している企業。さらには俳優事務所。

 それぞれの会社が出資。例えば10億円集まったとする。それが製作費となりスタートする。当然、出資している俳優事務所から主演俳優は選ばれる。或いは、主演にしたい俳優のいる事務所に出資を頼む。DVDは出資したビデオメーカーから発売。テレビ放映は出資したテレビ局だ。各社からプロデュサーが出されて、製作会社が幹事となり、制作を進める。

 シナリオライターを決める。

 「同じ原作者の漫画を映画化したベテランのAにしょう!」とか決まる。書かれたシナリオは各社にまわされて、意見が出される。俳優事務所は特にうるさく言って来る。「うちの***の出番が少ない。もっと増やせ」「主題歌もうちの***に歌わせたい。歌手デビューも考えている」という感じ。

 そんな進行と同時に監督も決める。誰がいいか? 原作はSFものなので、若手がいいだろう。「怪獣ものが得意なB監督がいいのではないか?」とか話が出るが、以前にも書いた通り、製作委員会方式では、いろんな人がいろんなことをいう。それをうまくまとめて、不満が出ないようにすることが大事。我慢強く、協調性があり、自己主張の少ない監督が求められる。

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「怪獣が得意のB監督は傲慢なところがある。だから、おとなしくて、何でもいうことを聞くC監督にしよう!」とか考えてしまう。C監督はSFものはまるで苦手だとしても、そんな理由で決まることが多い。他にも、スポンサーのD社長はある女優のファン。で、その子をキャスティングする。音楽はE社が応援している作曲家にしよう。と、皆が満足するように行われる。

 さ、これでお分かりだろう。

 この場合。一番大事なのはスポンサーの顔を立てるということ。いい映画を作る。おもしろい作品を作るではない。もちろん、表面的に「素晴らしい映画にしよう」とはいうが、各社がそれぞれのプラスを求めていては、いい作品にはならない。そして監督からの要望はほとんど実現しない。キャストはすでに決まっていたり。音楽も知らない人。主題歌が上がって来て聴くと、物語とは全くテイストが違う。でも、それをエンディングに流さなければならない。

 おまけに、C監督はSFが好きではない。最初からやる気が起こらない。実質的な仕事は多くの人の顔を潰さぬように、各社の意見を調整。取り入れること。こうして、多くの力ある企業が参加。巨額の製作費が動き、多くのメディアを使って大宣伝される。映画館も都心にある大手シネコン。でも、考えてほしい。この作品に愛がある人がいるのか?

 原作はベストセラーだからという理由で決まった。

 プロデュサーが惚れ込んだ訳ではない。監督はSFが好きではない。原作に思いがある訳ではない。彼の思いとは関係なしに主題歌が作られ、キャストが決まる。出資会社もそれぞれのメリットがあるから参加している。愛がどこにもないまま。形として映画が作られる。これでいいものができる訳がない。

 黒澤明の映画がなぜ、素晴らしいか? それは黒澤が「これを作りたい!」という思いがある題材を、黒澤自身が選んだスタッフ、キャストで作るからだ。ハリウッドのルーカスも、スピルバーグも、キャメロンも、同じだ。皆、監督たちが「これをやりたい!」という作品を作り、誰が何といおうが監督が全て人選、決定するから名作になり、大ヒット作となる。それが映画というもの。

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 それに対して、今の日本映画。

 この製作委員会方式は誰も「思い」がない。監督さえも愛を感じていない。皆の顔を立てることが優先。だから、詰まらない作品しかできないのである。もちろん、この方式でも多少違った展開をすることはあるが、大差はない。例えば、監督が原作に惚れて参加したとしても、その原作に相応しい俳優を使おうとすると、俳優事務所から「うちから選べ!」といわれ、テレビ局からは「その俳優は知名度がないから、客を呼べない!」と止められる。

  結局、監督の提案も意図も無視されて、出資企業が都合のいい形で制作が進むのである。結果、人気俳優が競演、スケールは大きく、まずまず面白いが、心に残らない作品になるか? どーにか出来ました〜というレベルの映画となることが多い。これが日本映画の作り方の1つ。いいものができる訳がない。愛のない人たちが金儲けだけのために、映画を作っているのだ。これでは感動作も、ヒット作も生まれない.....。

 だから、僕はその種の製作委員会方式の仕事は絶対にしない。太田組方式で映画を作る。が、その手法はまた別の機会に、、、

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【感動作を監督しようとすると貧しく。そこそこの映画を撮れば生活が安定する?】 [映画業界物語]

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【感動作を監督しようとすると貧しく。そこそこの映画を撮れば生活が安定する?】

少し前になるが、あるプロデュサーから新作映画の相談を受けた。ストーリーを聞き、イメージするキャスティングを聞き、制作母体について説明された。かなり大規模。有名俳優もたくさん出演。製作委員会方式のメジャー映画。製作費は*億円。題材はスタンダードだが、切り口が新鮮。

 まだ、実現するか?

 どうかは分からないが、その企画を進めていて、その監督候補に「太田君はどう?」と言われた。彼は何年も前から僕の演出力を評価してくれており、前々から「一緒に映画を作ろう!」といってくれているのだが、なかなかタイミングが合わない。そして「向日葵」が間もなく公開終了になるのを知り、声をかけてくれたのだ。

もちろん、その映画はまだ正式にスタートしていない。これから製作費を集め、俳優たちに交渉。進めて行くので、中止になるかもしれない。が、その監督候補にどうか?といってくれたのだ。本当に嬉しい話だし、ありがたい話だ。が、お断りした。「えーーーもったいない!」と友人にも言われたが、その枠組みと企画を見て、僕では貢献できない思えた。簡単にいうと、感動作を作ることのできない枠組みだからだ。

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 まず、スポンサー。大手が入りそうだ。

 何より製作委員会方式。つまり、多くの企業が出資して1本の映画を作るというやり方。この場合、それぞれの企業がいろんなことを主張する。「我が社のCMに出ている**子を出してほしい」「社長と懇意にしているタレントの***をゲストで出せ」「音楽は若者に人気の****にしてほしい」「ロケ地は我が社の工場のある***市で!」金を出す会社は必ず口も出す。

 俳優候補も決まっている。

 大手事務所に所属。そこはいろんな口出しをすることで有名なところ。シナリオや演出にまであれこれいってくる。「主題歌を主演俳優に歌わせろ」とも言うだろう。ま、大作映画となると、企業も事務所もいろいろ主張するのが当然なのだが、その調整役が結果、監督がすることになる。「人気俳優***さんの見せ場を作りますから」「音楽はA社のCMを担当している。**さんにするので、ロケ地はB社さんのお膝元で!」とか、全ての出資者の顔が立つように考えねばならない。

また、内容、物語についても、映画の脚本を読んだこともない人たちの意見を取り入れなければならない。正反対のことをいってくる人もいる。10人いれば、10人が違う意見をいう。それを取り入れないとヘソを曲げ「だったら、出資しない!」とか言い出したりする。しかし、その手の意見のほとんどは趣味嗜好による「感想」にしか過ぎない。「完成した映画がどうなるのか?」を正確に予想して、よりよくなるための提案ではない。

では、関係者全てが納得するシナリオにするにはどうすればいいのか? それは無難でよくあるパターンの物語にすること。誰も賞賛はしないが、文句は出ないストーリーにすることなのだ。逆にいえばシナリオ段階で一般の人たち=カタギのビジネスマンが賞賛する物語が映画になったときに、感動大作になることはまずない。むしろ、全員が反対したシナリオの方が可能性がある。


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 考えてほしい。

 新しい料理を決めるのに、そのレンストランに出資した料理人ではない、ビジネスマンたちが、好みの味やスタイルを様々に主張して、それを取り入れてシェフが料理を作って、美味しいものができる訳がない。それと同じ理由で製作委員会方式の映画のクオリティは低くなってしまう。

そんなスタイルの映画にはどんな監督が相応しいのか? 自己主張をせず、協調性があり、我慢強く、温厚で、こだわりがなく、それでいて、それなりの作品を作る力量のあるタイプでないといけないのだ。これで分かってもらえたと思うが、僕と真逆のタイプである。僕は作家性が強く、自分が作りたいものを作る。人のいうことを聞かない。協調性がない。ワガママで、こだわりがある。その代わり、必ず、いいものを作る(?)というタイプだ。

候補に上げてくれたことは光栄だが、もし、その映画を監督したら、数日で問題を起こし、クビになるか? 自分から降りるかだ。何より、出資者たちは感動大作を作ろうとは思っていない。表面的にはそういうが、「どうすれば感動作になるか?」が仕事の方々ではない。なので「いかに自社にプラスになるか?」「社長や関係者が喜ぶか?」あとは「ヒットさせて儲かるか?」が重要なのである。つまり、この企画で大事なのは、感動作を作るより、各社が揉めずに撮影を終え、公開させることが、何よりの優先事項となる。

 「感動作が出来た!」というより

 「皆が不満なく、仲良くやること」が大事なのだ。「いい映画が出来たけど、A社とB社が途中で降りちゃったなあ」では困る。むしろ「ま、作品はそこそこだけど、無事完成したし、皆、そこそも満足してくれたので良かったなあ」ということが大切なのである。その目的からすると、僕のような監督は不協和音を起こす、とんでもないヤツでしかない。

だから、せっかくの好意だが、それを受けることはそのプロデュサーに迷惑をかけることなので、お断りした。ここで、もうひとつ分かること。そのタイプの映画を受けて、そこそこのものが作れる監督こそ、定期的に仕事がもらえて、評価されるということ。候補者の推薦を頼まれたので、何人か上げたが、名前を上げながら「あ、みんな手堅く仕事している人ばかりだ!」と感じた。


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んーーー、「違うな」「これはダメだ」と思っても我慢して監督することが仕事としては大事なんだなあ〜と、改めて感じた。が、それが出来れば苦労しない。僕のモットーは「観客が感動する映画」作りであり「出資企業からの要望を調整して、映画を作ること」ではない。

 それではそこそこの作品しかできない。

 そこそこが出来たら大成功であり、ほとんどが、どーしようもない作品になるだろう。誰もが大手企業の大作を見て「何で、ここまで詰まらないの?」と思ったことがあるはず。今年もそんな大作が何本もあったが、その理由は多くの人が口を出すからだ。

映画を始めとする「作品」というのは、みんなで仲良く作るものではない。強い思いを持つ1人のクリエーターを支持して、多くの人の力を注ぐことが、素晴らしい作品を作る唯一の方法なのだ。それが製作委員会方式ではできない。あれこれ口うるさい俳優事務所が参加すると、うまくいかないことが多い。そんな訳で、本当に申し訳ないが候補段階で辞退させてもらった。同時に、だからいつまで経っても、僕は生活が安定しないことも感じた。

 素敵な映画を作りたいなら、

 厳しい生活で大変な思いをするということ。生活を安定させたいなら「思い」のない映画も作らねばならないということ。はははは、やっぱ無理だよなあ〜。


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【映画公開時の舞台挨拶。俳優さんはいくらもらえるの?】 [映画業界物語]

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【映画公開時の舞台挨拶。俳優さんはいくらもらえるの?】

映画が公開されるとき、大きな都市ではキャストが勢揃い。華やかな舞台挨拶が行われる。ワイドショー等でもよく紹介されるので、実際に行ったことはなくても、テレビで見たことがあるだろう。「向日葵の丘」でも東京初日8月22日には常盤貴子さんを始め、大人組とヤング組の6人が勢揃い。多くのマスコミも詰めかけて、盛り上がった。

あのときは人気者勢揃いということもあり、オンラインでのチケット発売からわずか6分で完売。ま、どんな舞台挨拶でも、人気俳優がナマで見られるとあって、数分で完売すると映画館スタッフに聞いた。いつもはスクリーンでしか見れない俳優たちが、実際に観客の前に現れるのだから多くの人がチケットを取ろうとする。

そんな舞台挨拶は誰が企画し、どのようにして行われるのか? これは意外と知らない人が多い。「映画館が俳優を呼ぶんだよ」と思っている人も多いが、そうではない。今回はその辺を説明しよう。

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まず、東京公開初日に舞台挨拶があるのが定番。多くの皆さんの協力で映画が完成。無事に公開されました!という御客様への報告の意味もある。そして、マスコミが来てくれるから。ワイドショーやバラエティ番組で紹介。スポーツ紙や雑誌に掲載。多くの人にその映画が公開されたことを伝達できるからだ。要は宣伝になる。

もうひとつは「人気俳優がナマで見られる!」ということで、観客がたくさん来てくれる。初日が大入り。満員御礼になることは大事。その日、たくさんの客を入れるということも大事だが、舞台挨拶をすることで、その日来ていない人たちにもアピールできる。というのも、初日に来た観客も映画の話題だけでなく、舞台挨拶についても、あちこちで語ってくれる。そこから口コミがスタートする。

その日の客席を満杯にするだけでなく、舞台挨拶をすることで明日からのお客にもアピールするのだ。それを公開の真ん中や最終日に舞台挨拶をやっても、声が広がる頃に上映終了となってしまう。だから、初日にやらねばならない。映画というのは最初が肝心。スタートして徐々に盛り上げてという方法論では駄目。初日がガラガラだが、口コミで広がり、客が増えてくるというのはありえない。

初日満員でスタートして、あとは数が減る一方だが、その減少幅を少なくしながら、いかにロングランするかが、映画では勝負なのだ。ま、極々稀に、途中から人気が出てくる作品もあるが、それは何か事件やニュースがうまく絡んで注目された場合のみ。やはり映画は初日が勝負なのだ。その意味で初日に舞台挨拶をして盛り上げることが重要。あとあとまで効果が続く。

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基本、東京初日は舞台挨拶をするが、地方でも舞台挨拶は実施される。今回も金沢では田中美里さん。大阪、名古屋は藤田朋子さん。あと、横浜ではヤングみどり=藤井武美さん。十三では仲代奈緒さんが登壇。その全てに僕も参加した。基本、映画館側から配給会社に「うちでも舞台挨拶をしてください」との依頼から始まる。配給会社はキャストがその街で舞台挨拶することで、より多くの客が来てくれるかどうか?を判断。承諾する。

だから、キャストが来ても客がさして来ないであろう人口の少ない町では舞台挨拶をしない。場内ガラガラで舞台に立たされる俳優も気の毒。告知するのは配給会社の仕事。さらにキャストが出演する番組、ブログ等でも告知してもらって、アピール。旅費、宿泊費、食費は皆、配給会社が負担。映画館は出さない。少々、疑問あるシステムではあるが、それが映画界の習慣だ。

そして、キャストは1日かけて、その町まで行き、舞台挨拶をしても、ギャラは1円も出ない。一緒に登壇する監督も同じ。「えー何で?」と思うが、それも映画界の習慣。基本、俳優は舞台挨拶を始めとする宣伝は断ってもいい。それをなぜ、受けるか?というと、一生懸命演じて、素晴らしい作品が出来た。だから、それを1人でも多くの人に見てもらいたい!という思いからだ。監督も同じ。多くの人は登壇すればギャラがもらえると思いがちだが、実は皆ノーギャラで舞台挨拶を行う。

よく映画館公開終了後のイベント上映。自主上映のときに「俳優さんに来てほしいんですけど!」との連絡が、主催団体から来ることがあるが、それは舞台挨拶ではなく「営業」というカテゴリーに入り、かなり高額なギャラを払わねばならない。あくまでも、映画館上映時に「素敵な映画が出来たので、皆さん見てください!」という俳優の思いによって、舞台挨拶は実現する。

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それが映画の世界。昔からの習慣なのである。舞台挨拶だけではない。マスコミの取材も、バラエティ番組に出演しての告知も、基本ノーギャラ。全て俳優の好意だ。だから、ある映画のある主演女優さん。映画の出来が気に入らなくて、全ての宣伝を拒否したことがある。それもアリ。舞台挨拶は強制ではない。ただ、俳優たちが「金」のためでなく「映画」のために骨を折るというところが素敵だと思う。

自分たちが懸命に作った映画。その映画を見てほしい! そのために、大阪でも、名古屋でも行く。そのことで1人でも多くの人が映画に関心を持ってくれれば....という思いなのだ。監督業も同じ。以前の映画では数ヶ月に渡り、全国縦断舞台挨拶ツアーをしたが、ギャラは1円ももらっていない。でも、僕が映画館で登壇することで、観客が1人でも2人でも増え、地元でマスコミ取材を受け、映画の存在がアピールされる。それはありがたいこと。(数ヶ月。無収入であとは大変だったけど!!)

今の時代。何かというと金金金!という人が多い。1時間働いたから時給900円だとか。もちろん、正当な報酬はもらうべきだ。しかし、お金のためではなく、労力を費やす、時間をかけるということ。本当に自分が真剣になれることを時給換算するべきではない。お金では買えないものが、そこにあるのだから。舞台挨拶というのは、そんなひとつだと考える。


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【映画の宣伝ってどーやるの? 予算がない。時間がない。いや、できることはある!】② [映画業界物語]

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【映画の宣伝ってどーやるの? 予算がない。時間がない。いや、できることはある!】②

ハリウッド映画や大手企業の日本映画が公開されるときは、何億もの宣伝を使い、テレビ、新聞、雑誌等に大量の広告を出し宣伝する。それに比べて、独立系の映画は宣伝に億単位の額をかけられないので、チラシとポスターを作り。あとはキャストや監督の取材をマスコミにお願いするしかない。

映画プロデュサーはよくこういう。「宣伝費がないんだから、何もできないんだよ〜」だが、それは違う。彼らがいう「何も」というのはテレビ、新聞では宣伝できないという意味。80年代ならそうかもしれないが、今の時代はネットがあり、様々ななアプローチができる。

近年のネットによる宣伝は、公式HPを作る。そこで映画の解説。ストーリー紹介。キャスト&スタッフ紹介。スチール写真。映画館情報等を載せる。予告編もそこで見れる。これはどんな映画も最近はやっている。ただ、HPというのは、その映画に興味を持った人しか見に来ない。テレビCMや新聞広告のように映画に興味ない人の目に触れることはない。

ネットによる宣伝はタダでできるが、そこが一番の弱点。とは言え、やらないよりはいい。最近はFacebookやブログで、宣伝部スタッフが情報発信を兼ねた日記を連載するパターンも多い。Facebookは何千人もの「友達」ができるメディアだし、ツイッターで情報発信もテレビに比べると厳しいが、数千から数万人に発信できる。それもタダ!にも関わらず、多くの配給会社はそれを活用していない。
或いは先と同じように「金がないから何もできない」というだけ。

金がなくても出来るのに、やろうとしない。それは面倒だから。毎日、ネットに情報を書き込むのは本当に大変だ。ネタもなくなるし、情報発信ばかりでは読んでくれない。配給会社は複数の映画の宣伝を担当するし、1人で何本もの映画を抱えている。ネット以外の仕事も山ほどあるので、結局手がまわらず。週1回の更新とか、ほんのときどき、新情報を発信するのみになりがち。

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それもFacebookやブログ。ツイッターを始めるのが映画公開の直前。これが「スターウォーズ」や「ターミネーター」シリーズなら、あっと言う間に「友達」やフォロアーが付くのだが、独立系の知名度のない作品だと、興味を持つのは本当に僅かな人。1000人もフォロアーや「友達」が付かないままに、上映が終了することも多い。おまけに、たまにしか更新しないから、余計に駄目。「*月**日から***市で公開」とか、情報だけ発信しても、よほど、その作品を見たい人しか読んでくれない。

そこで考えた。配給会社は何だかんだで忙しく、大手でも公式Facebookを作り、頻繁に情報発信しているところはほとんどない。そして、努力すればできるのに独立系は特にしない。以前、僕の映画もその種のブログを配給会社が準備したのだが、途中で更新がなくなり。アクセス数も僅かしかない。だったら、僕自身がやる! と、それ以降。ブログを始めた。公開が決まってからスタートしてもアクセス数は伸びない。そこで映画を企画した段階でスタート。撮影があり。完成して、公開が終わるまで続けた。あるときは4年近く連載を続けた。

アップできない日もあったが、ほぼ毎日。書くことはたくさんある。こちとら、映画監督業をする前にはライター業をやっていて、週刊誌や月刊誌の記事を書いていたこともある。文章はプロだ。製作過程や撮影日記を毎日、アップした。これが思った以上に好評。まず、スタート時は映画のタイトルも決まっていないので、「その映画を見たい!」というファンはいない。僕も有名監督ではないので、支持者もいない。にも関わらず、次第にアクセス数が伸びて来た。数ヶ月でアクセス数が数百になり。公開前には1000件を超え。公開中は5000件超え。公開が終わっても1000件を割らなかった。

最初、「誰が読んでいるのか?」と思った。友達や関係者は100人いない。「誰が??」と考えたのだが、コメントから分かって来た。映画ファンが読んでくれていたのだ。映画撮影の現場を記録したメイキングというのは、人気でDVD化されるときに特典となる。が、撮影以前の映画製作を綴った記事というのはなかなか読む機会がない。まして、監督自身が書いているのは「マルサの女」の伊丹十三監督くらいだろう。そこに多くの映画ファンが関心を持ち、毎日、読んでくれた。

その内にキャストが発表。その俳優のファンも読者になる。こうして、毎回、映画公開時には50000件アクセス。それを可能にしたのは、公開直前に始めるのではなく、企画段階、何年も前からブログをスタートするからだ。口コミというのは時間がかかる。数ヶ月でブログの人気は上がらない。でも、数年前に始めれば、それも可能。宣伝費がない映画でも、数千人にアピールできる。


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それに味をしめて、数年前からはFacebookも始めた。方法論は同じだ。まず、映画製作の経過を記事にする。それからブログでも好評だったのは、単に映画製作の裏側だけでなく、映画評、日常、思い出等も綴るのだ。映画監督というと、それなりの仕事だと思われがちなのに、結構生活が大変なことが分かるのも関心を惹いたようだ。それにプラスして、ここ数年は映画界の話。俳優の話。夢を追うこと。そして社会問題までエッセイのように綴った。

結果、映画には興味のない人まで「友達」申請をくれて、Facebookは「友達」と「フォロー」を合わせて3000人近くになった。ブログのときは1本の映画の公開が終わると終了するのだが、Facebookはそのまま次の映画のことを書いて行く。ブログだと新しいのを始めるとまたアクセス数は「0」からなのに、Facebookはすでに「友達」が数千人いるところからスタートなのは大きい。それにどちらにも同じ記事を載せるので面倒ではあるが、倍の労力はかからない。

ブログと合わせると、乱暴な計算で最盛期は8000人近くが記事を読んでくれる。もちろん、テレビCMを打てば10万人単位でアピールできるのだが、そのために数百万、数千万の費用がかかるが、ネットなら0円! なのに、多くの配給会社はそれを活用せず。形だけのHPや公式Facebookを作る。もちろん、人手が足りない。時間がない。ということはあるだろう。が、僕も映画製作をしながら、シナリオを書きながら、撮影をしながら、宣伝をしつつ、更新している。そして、配給会社からギャラももらっていない。

でも、多くの人の応援で完成した映画だ。1人でも多くの人に見てほしい。そして配給会社が手がまわらないというのなら、僕がやればいいのだし、読者も配給会社のスタッフ日記より、監督日記の方をおもしろがってくれるだろう。いいたいのは、考えれば方法はあるということ。「金がない」「予算がない」「人手が足りない」と言い訳しても一般に映画は伝わらない。企業映画がテレビでバンバン宣伝するのなら、独立系はできることをすべき。それをしないから、多くの映画が惨敗。2週間で上映が終わるのだ。

作品が駄目な場合もあるだろう。しかし、多くはその映画の存在を誰も知らないからだ。ただ、問題はある。それでなくても、監督業はやることがいっぱい。僕の場合はシナリオ、プロデュサー、編集、宣伝まで担当する。結果、オーバーワーク。医者から「過労死するから休め!」と言われる訳である....。(つづく)


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