映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる [My Opinion]
【映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる】
映画撮影では地元の方にとてもお世話になる。僕の場合は地元支援で映画製作を何本もしている。だから余計に応援を頂く。同じように、地元の支援で映画を作った後輩がいる。ある街で映画を作ろうとしたとき。Bさんという人が応援してくれた。
「この街も不況で大変だ。映画で街をPRして観光客に来てもらう! そのためには映画はとても有効なPRになる。応援するよ!」
地元の人を何人も紹介してくれたり、飯を食わせてくれた。こうもいってくれる。
「オレが経営するレストランがあるんけど、撮影で使うなら、タダでいいよ!」
ありがたい存在だったが、後輩監督が街の事情を知るに連れ、Bさんの事情も分かって来た。彼は地元でレストランを経営していた。不況で客が来ない。近所には全国チーェーンの大手ファミレスがある。多くの客を奪われている。だから、映画撮影をすることで宣伝。店をアピールしたい!という思惑があったのだ。確かに映画でロケ地になれば注目されるし、映画ファンはロケ地巡りと称して店に来てくれるだろう。雑誌や新聞等で紹介されることもある。
ただ、後輩は映画にとても厳しい。プロデュサーが女優のAさんを使えといっても、レコード会社が売り出し中の歌手C子の曲を使えば、協賛金を出すと提案してもOKしない。その作品のプラスになるのなら受けるが、そうでなければ、どんなに高額の支援をしてくれても断る奴だ。
それが映画を駄目にする一番よくあるパターンだからだ。低予算の映画でも、映画というと、いろんなメリットが生まれるので、あちこちから、その手のアプローチが来る。が、そのことで映画の中身が歪られたり、クオリティが落ちるのであれば絶対に受けてはならない。
なのにプロデュサーに嫌われたくなくて、物語に相応しくない俳優をキャスティングしたり、映画のイメージに合わない主題歌を流したりする監督もいる。いろんな圧力がかかり、仕方なしに受け入れる監督も多い。
「なんで、あんな歌が最後に流れんの? 感動が台無し!」「あの女優は違うだろ? 何で出したの?」
と思う映画は、そんな事情が背景にあることが多い。ロケ地も同じだ。自治体から「**公園を売り出し中なので撮ってほしい」とか、地元の団体から「商店街でロケしてほしい」とか、リクエストが来る。
が、それで映画がよくなるならいいが、物語に合わない場所を無理に受け入れても、その店や公園も映えない。映画も駄目になる。だから、断るのだが、そのことで、その人たちとの関係が崩れたり、トラブルになることもある。後輩はまさに、そんな立場に陥ったのである。
Bさんも次第に主張が変わって来た。最初は「うちの店で撮影してもいいぞ」だったのが「うちの店で撮影するだろ?」になり、他では「うちの店で撮影することになったんだ!」というようになる。どうも既成事実を作り、撮影しない訳にはいかないように仕向けているようだ。
友人を紹介したり、飯を食わせたりしたのも恩を売って断れないようにしていたことも分かって来た。しかし、彼のレストランはあまりにも平凡で、その映画には合わない。さらにBさんの友人から「あのレストランで撮った方がいいよ」「彼とは揉めない方がいいよ。あとあと大変だから」と言われる。
後輩は悩んだ。製作が正式に決まり、いろいろと考えて断った。理由はやはり映画に合わないから。そう伝えると、Bさんは態度を180度変えた。あちこちでこう言い触れ回った。
「あの監督は薄情だ。いろいろ応援してやったのに、映画製作が決まっても挨拶なしだよ。何だったんだよなあ〜。オレの友人もいろいろと応援したのによーほんとバカ見たぜ」
Bさんはロケ地として選ばれなかったことは言わず、そう言って回った。だが、彼がしたのは地元の人を数人紹介したこと。誰も映画製作に寄与していない。あとは一度、ランチをごちそうしたことのみ。多くの人が彼以上にいろんな形で映画を応援してくれている。見返りを求めず、様々な形で支援してくれた。そんな中で、あることないことBさんはいい触れ回った...。
映画は無事に完成。地元では大ヒットとなり、多くの人が喜んでくれた。ただ、事情を知らない地元応援団がBさんの店にポスターを貼ってほしいと頼んでも、彼は頑に拒否。「あの監督だけは許せない、恩知らず!」と言い続けている。後輩はいう。
「Bさんも悪い人ではない。レストランをアピールしたいのも分かる。店の前まで行けば、通りを歩く人は皆、近所の大手チェーンのファミレスに入っていく。何とかしたい!という気持ちは理解する。でも、今回の映画はレストランが重要な舞台。Bさんの店では成り立たない。なぜ、個人ではなく街のための映画だと分かってくれないのだろう…」
僕も同じタイプの人たちと何度も会った。さして応援してない人ほど、あとになって「オレが面倒見てやったんだ」といい、あれこれ見返りを求めてくる。「応援してやったんだから、今度はオレのいうことを聞け」とか言ってくる。
が、それもおかしい。映画を作ったのは街のためであり、僕自身は毎回、借金が残るだけ。なのに個人に見返りを求めてくる。でも、そんな要求をされる。後輩にもBさんだけでなく似たようなこと言う人。批判する人がいるという。だから、こう話した。
「映画を作るには、多くの人の応援が必要。でも、メリットのなかった人は批判しがち。そして応援してくれても、あとになって批判する人もいる。けど、憎んではいけない。映画の世界は分かりづらく、誤解もされやすい。説明してもわかってもらえない部分もある。その町のためにがんばっても、理解されないことが多い。
でも、いつか分かってくれると信じて、その街で映画が撮れたことを感謝すること。僕らの仕事で全ての人に喜んでもらことはできない。できるのは、いい映画を作り、応援してくれた人たちに感動してもらうこと。町の魅力を再発見してもらうこと...映画屋にできるのは、そんなことぐらいなんだ...」
人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?! [My Opinion]
【人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞くとよく分かる?!】
映画製作でスタッフを集めるとき、注意していることがある。問題ある人をチームにいれないこと。だが、簡単な面接で相手を知るのはむずかしい。初対面では「オレは結構やり手ですよ! ははは」というようなアピールをする業界人がいるが、仕事をするとまるで駄目ということがある。が、その人の本質が分かるのには月日がかかる。分かる頃にはトラブルを起こしている。
なので初対面で相手を知るときは、よく「どんな映画が好きですか?」と訊く。タイトルを上げてくれれば、そのジャンルで趣味が分かる。アクション映画か? ラブストーリーか? SF映画か? コメディか? そこから趣味思考が分かる。それは当たり前だが、映画の感想を聞くとその人の思考レベル、洞察力、潜在意識も分かる!?
先に書いた記事でも、シナリオを読んでくれた映画プロデュサーが「どんな感想をいうか?」で、その人の読解力や想像力が分かる話をしたが、同じ方法論だ。「作品にリアリティがないんだよな」という批評をする人がいる。それを専門的に説明できる人はOK。「警察組織は捜査するときに基本的に2人1人組で行動し、所轄署は....」とかマニアな知識を披露してくれるのなら分かる。が、そうでなければ問題がある。「リアリティがない」という言葉をそのまま解釈すれば「嘘っぽくて現実味がない。取材をせずに、いい加減に描いている」という意味。厳しい目で見ているように思える。
が、多くは「そんな奴いる訳ないだろう?」とか「そんなことありえないよ!」と安易にいうことが多い。なぜか? その言葉を使う人の多くは、自分が知らない事実や経験したことがない現実が出てくると実感できず「そんな訳ないだろう?」と感じる。外の世界に興味はない。だから、想像もしない。
自分の経験値にないこと、つまり自分の知らない事実と出会うと「リアリティがない」というのだ。だから、脚本を映画関係者に読んでもらっていたデビュー前。その言葉が出て来たら「この人の感想は参考にならない。物語を十分に想像できていないのだから」と判断した。
そして、その種の人は「自分は映画関係者だ。素人じゃないぜ! という自負があるのだが、あまり努力をせず、勉強していない人が多い。意地悪な分析だが、言葉にはその人の背景や考え方まで出てしまう。そんなタイプ。映画ファンにも結構いる。「リアリティがない」と同じようによく使う言葉に「突っ込みどころが満載」というのがある。
さすがに業界人でこれをいう人はほとんどいないが、その言葉を使う人は洞察力がないことが多い。「突っ込みどころ」というのは、矛盾点のことを指す。「何でそうなるの?」「論理の飛躍ではないか?」「整合性がない」という意味だ。確かに安易に作られたドラマにはその種の展開が多く、シナリオ段階でしっかりと考えていないことがある。
ただ、その場合は「心理展開に無理がある」とか「ストーリー展開の飛躍が多い」等の言い方がある。それを「突っ込みどころ満載」という。だが、その人が指摘した映画を見ると「突っ込みどころ」ではなく、その人が展開を理解できていないだけのことが多い。背景を把握していないとか、伏線を見落としているとか。そのためにストーリー展開が分からなくなっているだけ。
もちろん、テンポの早い映画や複雑な設定の物語だと付いて行けないことや「え? 何でこうなるの」と思うことがある。だが、そこで「僕は大事な伏線を見落としたのかな?」とか「背景をよく理解できていないかったのか?」と自分の問題点を顧みるものだが、「私が理解できないのは、ストーリーに問題があるからだ」と安易に解釈していること。それが問題なのだ。
さらに「突っ込みどころかが満載」=>「満載」という言葉から、そのような矛盾点がたくさんあるという指摘。学生映画ならいざ知らず、プロの映画でそんなミスがたくさんある映画はやたらとない。「プロの作品なのだから、もしかしたら素人の僕が理解できていないだけか?」と思わずに「満載」といってのけるのは「俺はプロの問題点を指摘できるほど鋭い」という意識を持っているからだ。
だが、この種の人はたいていの場合は「見る力」が低い。映画作りの経験がある訳でもないのに、素人の自分が「優れている」と思い込んでいる。自分の能力や言動を顧みようという意識がない。そして事実ではないことを思い込みやすい性格でもある。オタクな映画ファンに多いタイプ。
映画を上から見下ろしていて、勘違いしている人が多い。映画レビューを見れば、これらの言葉をよく見かける。が、彼らは映画の本質や肝心な部分を見落としていることが多い。映画ファンというより、作品を否定することで自分の優秀さをアピールするためにレビューを書いている感がある。
あと、こんな人もいる。「この映画の結末は途中で分かった。あの程度じゃ駄目だよ」的な人。しかし、これも先の2つと同じ落とし穴がある。「自分だけ、オチが分かった」と思っているのだが、ほとんどの人が分かっていることがある。「他の奴は馬鹿だから気づかないが、オレは優秀だから分かった」的なニアンスがある。
このタイプは人に認められることが少なく、それでいて自分の能力は高い。なのに....と不満を抱えているタイプが多い。しかし、どんな分野でも何かを作ったことがある人は、人の作品を安易に批判しない。また、仕事への愛があれば、上から目線で批判はしない。
そして洞察力のない人、想像力のない人を映画製作に参加させると、いろんな意味で足をひっぱることになる。他のスタッフが理解できているのに分からない。意味のない努力をし、回りに迷惑をかける。自分の問題点に気付かず「シナリオが悪い、演出が悪い!」と言い張る。結果、トラブルとなる。だからチームに入れてはいけないのだ。ちょっと意地悪な分析だが、分かりやすいので紹介させてもらった。
だから、最初に会ったときに映画の話をする。「どんな映画が好きか?」聞き、特定の作品の感想を訊く。そこで先の言葉が出て来たら要注意。これは映画スタッフの話だけではない。映画を「見る力」も、世間を見る力も同じ。洞察力のない人は空回りしてトラブルを起こす。自分の非に気づかず、上から目線でまわりを批判して、誰かの責任を追求し始める。
学歴や出身地で人の力は分からない。だから、僕はそんな方法でまず、人の力や思考の仕方を知ることにしている。
時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [My Opinion]
【時代は変わり、環境が変化する中。
ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、
どこへ行くべきなのか?】
最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。
ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?
或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。
家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。
これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。
確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。
その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。
自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。
Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。
そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。
先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。
そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。
何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。
Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。
そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。
他人の批判で「私はダメだ」と思ってはいけない。自分のいいところを探せ!(後篇) [My Opinion]
25年ほど前。脚本家をめざし、バイトしながらシナリオを書いていた頃。映画業界の人に、特にプロデュサーにシナリオを読んでもらうと、ある言葉で批判されることが多いのに気付いた。3つある。
1つめは「リアリティがない」
言い換えれば「現実味がない」「ウソっぽい」ということだ。最初はそう言われて、どうすればリアリティが出るんだろうと思い悩んだ。ところが、カタギの友人や映画ファンにも読んでもらうと「リアリティあると思うよ」という感想が多かったりする。
いろいろと考えて、物語にリアリティがないのではなく。そのプロデュサーに想像力がないのではないか?と思うようになった。例えば年配の人なら最近のSF映画とかは観てない。当時で言えば、せいぜい「スターウォーズ」止まり。だから、リアリティを感じないのではなく、その種の映像や設定を想像することができないだけ。という気がして来た。
2つ目が「ひねりが足りない」
つまり、どんでん返しや意外な展開がないというのだ。確かにその種の物語はインパクトがあり、観客を唸らせたりする。が、一時期、ハリウッド映画のホラーはもう終わったと思わせて、まだ怪物は生きていた!ワーーという展開が多かった。最初は驚いたが、次第にまたか?!と思うようになる。
また、ミステリーでも「意外な犯人」とか「驚愕の結末」とかいうキャッチコピーで観て面白かったものはない。作り手も最後に驚かそうとして、意外な人物を犯人にするのだが、そんなキャッチを伝えば観客は最初から一番犯人ではないキャラを無理やり犯人だと推理してしまう。結果、物語を捻って、驚きを作ろうとしても、面白くならないことが分かって来た。
にも関わらず、シナリオを読んだプロデュサーたちはハリウッド映画がもうやらなくなった、その種の手法を求めている思えた。もっと言えば、一番大事なの物語自体。捻ることが大事なのではなく、いかなる展開を見せるか?だ。もしかしたら、その人たちは物語のよし悪しが分からない。だから、意外な展開、ひねりがあることが面白くなると安易に考えていると思えてきた。
3つめが「よくあるパターンだ」
この批評にも最初は悩んだ。どうすれば、これまでと違うものが出来るのか? 確かにオリジナリティは大事だ。しかし、完全に新しい最初から最後まで斬新な物語なんてあるのか? 刑事ドラマは刑事がいて、事件が起き、捜査が始まる。すると、プロデュサーは「よくあるパターン」と否定する。
では、かつてない展開の物語であればヒットするのか? 友人でかなり前衛的なドラマのシナリオを書いた奴がいたが、こう言われた。「よく分からない」新しいものを書けば「分からない」定型で行くと「よくあるパターン」という。彼らの思考はどうなっているのか? 実は脳の性質と関係する。脳は何かを認知するとき、過去の記憶と照合して、それを確認する。
つまり、刑事ドラマであれば、「ダーティハリー」なのか?「リーサルウエポン」なのか? 「ダイハード」なのか? それらを当てはめてみる。その結果、似たところがあれば「よくあるパターン」と批判。照合できない場合、つまり斬新な物語である場合は比較できないので、認知できず「よく分からない」と結論する。
どちらにしても、彼らは作品を認めることはない。そういう人に限って「よくあるパターン」という。その枠でくくれば刑事映画は全て「よくあるパターン」だ。主人公のキャラが違うとか、犯人が個性的だとか、その程度の違いなのだ。が、そこまで読み込める人はなかなかいない。
以上の3つの言葉「リアリティがない」「ひねりが足りない」「よくあるパターン」これはどんなシナリオや映画に対しても言える。そして、一見、それなりの批評をしているように聞こえるが、説明した通りで見る目のない人がいいがちな言葉だと気付いた。言い換えると「私は想像力がありません」「僕は物語の本質は見抜けません」「俺は見る目がありません」という意味にさえ思える。
それで楽になった。シナリオを読んで否定されても、その種の言葉を使う人であれば「ああ、この人に読む力はない。今後はシナリオを見せても意味ないな」と判断できた。そう、シナリオでも、原稿でも何でも、読んでもらうのは力量を判断されるので、緊張するし、批判されればショックを受ける。が、読む方も試されているのだ。読む力、想像力がない人は正当な批評はできず。自らの力のなさを露呈してしまう。
映画界に読む力がある人が少ない。
そう思えたので、映画以外の世界で働く人にもシナリオを読んでもらった。念のために補足するが「俺の素晴らしいシナリオを理解できる奴がいない!」というのではない。当時、僕が書いていた作品は未熟ものである。しかし、正当な批評をしてもらわないと、何が足りなくて、何が悪いか? どこがいいのか?を分からない。客観的に観て指摘してもらってこそ、実力は伸びるのだ。
その後、出版、音楽、マスコミ、そして映画ファンの友人などにシナリオを読んでもらうようにした。帰国から5年後に脚本家デビュー。その後、監督した映画4本全てのシナリオは僕のオリジナルである。「太田監督の映画は毎回泣ける!」と多くの方が褒めてくれるが、デビュー前は否定の連続だった。今思うと、業界のプロデュサーたちに全否定されたのだから「僕にシナリオは無理だ」と諦めていてもおかしくない。
ただ、彼らの言葉の全てを受け入れなかったこと。そして批評をよく考えると、読み手に想像力がない、新しいものを理解できない。それに気付かず、上から目線でものをいい。自分の趣味と客観的判断をごちゃまぜにしている人たちだと気づいた。そんな人たちの言葉を信じる必要はないと思えたことが幸いした。
同じことは他の業界でも言えるだろう。「才能ないんじゃない?」「よくあるパターンだよ」「リアリティがないんだよね」そんな言葉で新人たちを否定する人は多い。いや、業界に限らず。想像力がない人、現実を知らない人ほど、安易に人を批判し、他人を否定しているところがある。人の言葉に振り回されてはいけない。自分のいい部分を探し、延ばすことで道は開けるだから。
【他人の批判で「私はダメだ」と思ってはいけない。自分のいいところを探せ!】(前篇) [My Opinion]
もう、20年ほど前になるが、アメリカ留学から戻り、映画監督デビューを目指してシナリオを書いていた時期がある。自分で考えたオリジナル・ストーリーをシナリオに。まだ、パソコンもない時代なので、原稿用紙に手書き。
夜、アルバイトを終えて帰宅。朝まで執筆。昼前に起きてバイトへ。という生活をしていた。が、シナリオを読んでくれる業界の人は少なく、読んでもらっても全否定の批評が返って来た。
最初の頃はショックで「やはり、僕は脚本家に向いていないのか...」と落ち込んだ。でも、何度もシナリオを見てもらっていると気づいたことがある。まず「才能ないんじゃない?」という人が結構いた。
日本の映画学校にいたときもそうだったが「俺、才能あるのかな?」とか「あいつは才能あるよ」という言い方をする者が多かった。ただ、彼らの言葉を集約すると「才能」があれば脚本家や監督になれるというもの。
「俺には才能があると信じたい」
そういって頑張る友人もいた。が、多くは「努力」をせず「才能」があるはずだから、やっていけるという発想。それは違うだろう。「才能」は「超能力」ではない。何の経験も努力もなくして感動できる物語が作れるはずはない。と僕は考えていた。
あとあと正解であることが分かる。その話は以前に書いた。現在、映画監督として仕事をし、様々な業界で活躍する第一線のアーティストとお会いすると、まさにそのことを痛感する。「才能」なんてない。「センス」や「素質」を持つ人が物凄い努力をして素晴らしい作品を作るのだ。
なので当時から「才能」という言葉を使う人は胡散臭いと思えた。注意して聞いていると、そんな人は自分で何かを作ったことのない人が多い。そして「才能ないんじゃないの?」という人の多くは、僕が書いたシナリオに「魅力や興味を感じていない」という意味であることが分かってきた。
「シナリオがおもしろくない」というのは分かるが、作家に対して「才能」がないというのは、クリエーターとして根本的な否定。アーティストを目指す人たちは大いに傷つくだろう。
なのに、要は「趣味が合わないからダメ」ということなのだ。それを表現するために「才能がない」という言葉を無神経に使っているだけだと分かって来た。最初は「業界の人に全否定された....」と落ち込んだが、背景が分かってくると気が楽になる。
そして多くの人にシナリオを読んでもらうと、否定する人が共通して使う言葉があることも分かってきた。もちろん、僕のシナリオは大したものではない。否定、批判されて当然だ。が、批評を聞いていると「あれ?」「何で?」というものが多かったのだ。
一般の人が映画を見て「なんか詰まらない!」「大したことない!」と批判するのは自由。だが、映画業界で仕事する人が同じレベルの批評をするなら問題だ。なぜ、詰まらないのか? 何がダメなのか? それを分析し、テーマを推察して、それに到達している、していないを判断。言葉にすることが、彼ら彼女らの仕事だ。
旅行に例えると「沖縄に行きたい!」と言っているのに「だったら、電車で行くのが早いわよ」とアドバイスしないし。「北海道に飛行機で行きたい!」というのに「それじゃ九州へは行けないよ」と批判しない。
つまり目的地(テーマ)がどこか?を把握しないと、批判もアドバイスもできないのだ。映画も同じ。テーマを把握した上で、それが描けているか?を判断するのが本来の批評。それができない人が業界には多いこと分かって来た。
「才能ないと何度も言われたけど、実は見る目がない人が多いんじゃないか?」
次第にそう思えて来る....。そんな人たちの批判を真に受けて、落ち込んでいてはいけない。プロだろうが、ベテランだろうが、業界の大手で働く人だろうが、当て外れな批判をする人たちの言葉を受け入れても、何らプラスにならない。そのことが分かって来た....。そして。
(つづく)
【50代になって、いいこと。悪いこと?!】 [My Opinion]
【50代になって、いいこと。悪いこと?!】
ついこの間まで20代だったのに、気付くと50代。以前は50代なんてもうジイさんと思っていた。
が、その歳になってみると20代と気持ちは変わらない。体力が落ちて、夜遅くまで起きてられないんだろう?と思っていたが、それほどでもない。メリットもいくつかある。
まず、朝早く目が覚める。10代は気付くと夕方!ということがときどきあったが、50代になると、午前中には目が覚める。これは体力がなくなり、長く寝れないということらしいが、昼夜逆転しないで困らなくなった。以前はよく夜起きて、昼寝ているということがあり、逆転させるのに苦労した。
たくさん食べれなくなる。20代は日本の食堂なら2人前は簡単に食べてしまった。アメリカ留学時代も日本より遥かに多い1人前の料理をペロリだったが、ここ1年くらいは日本の1人前でも多いと感じる。年を取り小食になったということだが、食費が安くなり助かる!?
そう考えると50代もそう悪くないなあ?とか思える。といいながら、ここしばらくの舞台挨拶ツアーで疲労困憊。起きるといつも昼前。さすがに夕方ではないが、まだまだ体力があるということか? ま、体力ないと映画撮影はできない。
けど、坂本龍馬も、ジョン・レノンも、50歳まで生きなかったんだよなあ。てなことを考える54歳の秋...。
若い内に吸収したことが、大人になってから力になる? [My Opinion]
【若い内に吸収したことが、大人になってから力になる?】
中学、高校と日本映画が大嫌いだった。タイトルを見ただけで「あーダメ!」ポスターを見るだけで「一生見ない!!」そう感じていた。正確にいうと日本映画が嫌いなのではなく、その物語やセンスがあまりにも時代遅れで、嫌悪感を持つほど、許せない!というのが本当のところだ。
当時10代20代だった僕が...、いや、僕のまわりにいた同世代は同じように感じていて、日本映画より洋画。特にアメリカ映画に魅力を感じていた。当時は「タワーリングインフェルノ」「ジョーズ」「未知との遭遇」「スターウォーズ」と金のかかった物量作戦のエンタテイメントが多く、僕らはそれらハリウッド映画に酔いしれていた。
一方、日本映画は文芸小説の映画化。アイドル映画ーそれも過去の裕次郎が出た映画の焼き直しのような物語やお涙頂戴の難病もの。客をなめているとしか思えない、古臭いセンス。ビデオで見ていたら確実に早送りしてしまうスローなテンポ。金を払うのも躊躇われる、いや、金をもらっても見たくない映画が圧倒的多数だった。
それは僕らだけではなく、当時は「洋高邦低」といわれ、洋画がヒットして、邦画は当たらない時代だった。そんな頃に育ったので、憧れはスピルバーグであり、ルーカス。唯一の例外が大林宣彦監督であり、それから十数年後に出会い、作品に参加してもらうなんて夢のような出来事を想像さえしなかった。
話は戻り。ハリウッドに憧れた僕はロスアンゼルスにある名門映画科のある南カルフォルニア大学に留学する。そして何の間違いか? 映画に合格した。日本でいくら映画の勉強をしても、現役で活躍するあの巨匠たちのような映画しか作れないのであれば、憧れのハリウッドで勉強する方が意味あると思ったのだ。
その後、波乱万丈な展開があるのだが、以前に何度も書いたので、先に進む。帰国後、10年以上かかり映画監督になった。日本を舞台にした物語を書き、日本人が出演する日本映画を作っているのだが、よく言われることがある。
「太田監督の映画って、何か日本映画ぽくない!」
外人俳優が出ているわけでもなく、海外ロケもしていない。CGを多用したアクションやスペクタクルがあるわけでもない。むしろ低予算。円盤も宇宙人も出て来ない。なのに日本映画ぽくないといわれることがある。
新作の「向日葵の丘」も日本映画は見ない!好きなのは「ターミネーター」や「スターウォーズ」という映画ファンの方に同じことを言われた。「日本映画なのに面白い。感動した」と。そんなとき、思うのは、やはり若い頃に見ていたアメリカ映画が自分の中で消化され、それがエッセンスとなって自分の映画に反映されているんだろうな?と。
そのせいか、僕の映画はアメリカ人にも評判がいい。先日、参加したロスアンゼルスの映画祭JFFLAでも、「向日葵の丘」は大評判。多くのアメリカ人が涙した。前作の「朝日のあたる家」も「青い青い空」もラストには拍手喝采。この反応もきっと、ハリウッド映画を見て育った僕が作ったので、アメリカ人も見やすいということがあるのだろう。
黒澤明監督はジョンフォードが好きで、時代劇を作ってもどこか西部劇。だから、アメリカでも理解され、高い評価を受けたのだと思える。やはり、若い頃に学んだこと。吸収したことは大人になってから、とっても生きるのだと痛感。だから、いう。若い人たちは自分が好きなものをたくさん見て、たくさん吸収してほしい。
それがあなたたちのエネルギーとなるのだから。そんなふうに思えている。
「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性? [My Opinion]
【「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性?】
寄付や投資を募り。その街を全国に発信する地域映画を作った後輩監督がいる。僕も地域密着型の映画を作っているので、何度も相談に乗った。製作費は決して高くないが、街や市の協力を得て素敵な映画が完成。地元の映画館で公開された。その後、彼が訪ねて来て不満を爆発させる。
「ほんと許せないんですよ!」
聞くと映画に参加した一部の地元スタッフ以外は映画館に来ず。連日、観客は一桁。なんと1週間で打ち切りとなったというのだ。地元ではかなり盛り上がっていると聞いていたし、作品もそこそこいいというので、地元では大ヒット間違いなしと思っていたのに、何があったのか?
「客が来なかったのは誰も宣伝をしないからでした。配給会社も付いたんですけど、地元はすでに映画の存在は知っている。関係者も多いし、地元の人が宣伝すれば放っておいてもヒットするよと、言っていたんです。僕もそう思っていたら、地元は地元で、宣伝会社の人がバンバン宣伝してくれるから大丈夫と、皆、撮影が終わると観客になってしまい。宣伝も何もせずに、公開を待っていたんです」
なるほど、僕も経験がある。地元の人たち。撮影中はどんなに応援してくれても、撮影が終わると、不思議なくらいに、観客になってしまうことが多い。自分が参加した、或いは出演もしている映画なのに「公開が楽しみだなー」というばかりで、次のステップに進まない。そう、宣伝という発想がまるでなく。日常に戻って活動をしなくなるのだ。
彼らに問うと「え? 映画はできたんだから、あとは観るだけだろ?」という。大きな間違い。「いつ、どこで、何時から上映するか?」と伝えないと観客は来ないのだ。その告知や宣伝をしないと駄目。なのに、街の人のほとんどがその発想がない。突き詰めて訊くと、
「誰かが宣伝してくれるんじゃない?」
と他人事のようにいう。じゃあ、誰が宣伝してくれるの? 「分かんないけど、映画って公開前にテレビや新聞で宣伝するだろ? テレビや新聞が告知してくれるんじゃない?」ーーーーばかーーーー。あれは制作側が宣伝費を払ってテレビや新聞で広告を出してもらっているんだよーー。と言いたくなる。
そんな信じられないことをいう人が多い。或いは「宣伝会社がやってくれるんじゃないの?」もちろん、宣伝会社は頼んでいる。しかし、市民の寄付で作った映画。十分な製作費はない中、がんばって作った。当然、宣伝費も十分にない。宣伝会社も僅かな費用は東京や大阪で使いたい。すでに知名度があり、映画の存在が知られている地元で、わざわざテレビCMを流し、莫大な費用を使う必要はない。
でも、地元の人はそうは考えない。宣伝費が十分にないことを知りながら、「誰かがやってくれるんじゃない?」と安易に考え、それを突き詰めて考える人はほとんどいない。その結果、映画館で公開されても、ほとんどの人が知らない。僅かな関係者のみが劇場に来る。客の少なさに驚く! 「何で?!」と不思議がるが客が来ないのは当然。
こうして、市民が総力を上げて製作した映画は一部の人しか観ることなく、上映を終えたのだという。ここに日本人の習性が見える。「誰かがやってくれるだろう」「会社がやってくれるはずだ」「市がやるだろう」みんな、そうやって他力本願になり、「誰が宣伝するんだろう?」「予算はあるのかな?」「本当に宣伝しているのかな?」「このままじゃヤバいな」とは、ほとんどの人が考えない。
これは地域映画だけではない。
「国がやってくるだろう」「自治体がやるべきだ」「誰かがやってほしい」全て他力本願。そうやって、「私たちがやらねばならない」とは考えず、大きなチャンスを失い。何もできず、苦しい状態を持続するばかり。そんな習性が日本人にはあるように思える。
そんなときに「多額の交付金を出しますよ! いかがですか?」と甘い誘惑を受ければ、諸手を上げて賛成。原発を押し付けられたりしてきたのだ。街の存亡。過疎化。いろんな問題がある。でも、そうなった理由のひとつは「誰かが何かしてくれるはず」「国に何とかしてもらおう」と他力本願でいたからではないか?
地方映画製作ひとつ観ても同じ。自分たちの街の映画なのだから、自分たちで宣伝し、全国の人に観てもらおう!とは考えず。お客になり、上映を待つだけ。映画を活用して、街のアピールに使おうとしない。全て他力本願。それが日本人のある側面をよく現していると思える。
太田映画は泣ける!毎回そう言われるが今回も泣けるのか? [My Opinion]
「向日葵の丘」は僕にとって4本目の劇場用映画。さすがに4本目ともなると定評ができる。一番言われるのは「太田監督の映画は必ず泣ける!」だ。ただ、これは本当にプレッシャー。
何人もがこう言う。「泣ける映画と聞いて観に行っても、たいていの映画はラストにホロッとするだけのことが多い。それでも泣ける映画という。でも、太田監督の映画はボロボロに泣ける。それも一度や二度ではなく、三度も四度も泣ける。ハンカチでは足りない!」
しかし、作り手からいうと、ラストにホロッとさせるだけでも大変なこと。二度も三度も泣かすことは至難の技なのだ。それに二度も三度も泣ける映画を作ってしまうと、次回作で二度しか泣けないと、「前作の方が泣けたよなあ〜」と言われる。ラストにホロっで「泣ける映画」なのに、二度しか泣けない映画と言われてしまう。
そんなふうに毎回ハードルが上がって行き。一、二度泣けるだけでは許されない事態となっている。だから「向日葵」はもうストレス最大で、胃に穴が空きそうな思いで製作した。ただ、「泣かそう」と思って作ると観客は泣かないことが多い。そうではなく、全身全霊で物語を描くと、泣けるシーンがいくつも出来ていることが多い。それだけにまた難しいのだ。
幸い、今回も「号泣ムービー」になっており、3度4度と泣けるようだ。マスコミ試写でも、女性はほとんど号泣。若い男性も号泣。それどころか年配のなかなか泣きそうにない男性でも赤い目で出てくる。まあ、今回は泣ける物語というだけでなく、俳優陣が素晴らしいというのもある。
常盤貴子さんの***シーンは涙なしには見れない。田中美里さんの****シーンは撮影中にスタッフが泣いていた。藤田朋子さんの*****シーンも熱いものがこみ上げ、ホロッとする。そして、******のシーンはもう涙涙。関係者試写でスタッフまでが涙した。スタッフというのは自分のパート。撮影や照明や録音という、自身の仕事を確認するので、物語に入り込めないことが多い。
なのに皆号泣。本当に思うつぼ......いや、俳優たちの力はもの凄いものがある。東京先行公開まで、あと6週間。品川プリンスシネマが涙で溢れる姿。確認したい。
公式HPはこちら=>http://himawarinooka.net
【映画作りは才能ではない。料理と同じ。年月をかけて学んだ技術が感動を呼ぶ】 [My Opinion]
映画の専門学校で授業をすることがたまにある。そんなときに感じることだが、ほとんどの生徒が真面目に授業に出て、与えられた課題に取り組む。シナリオを書いたり、実習をしたり。バイトをし、コンパに出て、大学生と変わらぬ生活を送っている。
生徒に聞くと「将来は脚本家になりたい」「映画監督になりたい」という。でも、彼らは学校で与えられる課題でシナリオを書く以外に、自分なりにシナリオを書いたり、自主映画を作ったりはしていないようだ。その学校を出ても、脚本家や映画監督になれないのは明白。その種の就職も学校は世話をしてくれない。なのに皆、焦ることもせず、まじめに学校に通い、授業を受けている。
似たような話を先にも書いたが、今回は別の視点で考えたい。もし、これが調理師になりたい。美容師になりたい。というのなら、いいかもしれない。その後、レストランや美容院で働き、腕を磨けばいい。ある意味で映画作りも同じだが、ある意味で違う。
生徒たちが足掻こうとしない理由。ひとつには映画のシナリオや演出というのは「才能」が大切と思っているからだろう。「才能があればいい物語が作れる」「才能があれば、素晴らしい演出ができる」そう考えているのだろう。何度もいうが「才能」なんて存在しない。それは努力しない人が、もの凄い努力をした人の仕事を見て、とても真似ができないと感じたときに「才能があるからできる」という理解の仕方をするだけのこと。
シナリオも、演出も、料理を作る。髪を切るというのと同じ技術だ。だから、何もせずに上達することはない。なのに、「俺がシナリオを書けばいいものが書ける。演出のチャンスがあれば、いいものが作れる」と思い込んでいる生徒が多い。僕がよく知る映画学校はそんな生徒ばかりだった。
が、世に出た人たちは皆、自主映画を作り、演出とは何か? 俳優はどう扱うべきか? 撮影の意味。編集の大切さを学んでいた。何本も何本も映画を作り、技術を磨くだけでなく、自分なりのスタイルや手法を探し続けた。この辺も調理師や美容師と同じだと思う。ただ、料理を作ることはできるが、その人しか出せない味を出す。その人しかできない髪型を作る。そこが大事。
シナリオも同様。何本も書かないとうまくならない。なのに「書く、書く」といって大学の4年間、結局1本もシナリオを書かなかった友人がいる。それから20年後くらいにある製作会社で再会したが、そこの社長に「お前、とにかくシナリオ書いて早くデビューしろ!」と言われていた。書かないとうまくならない。才能があるから書けるというものではない。
ある若い女の子はフリーターを続けながら、脚本家になるのが夢だと語る。あるとき、原稿用紙を広げた。「んーーまだ書けないなあ〜」と引き出しに戻したという。この子も同じ。シナリオは突然に書けるようになるものではない。キッチンに立ち。何もしないのに料理ができるようにはならない。技術を学び。磨かないとシナリオは書けない。
僕はギャラがもらえるシナリオが書けるまでに5年かかった。留学から帰ってアルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。そのときの話は以前に書いたが、最初はSFもの。ミステリー。やがて青春ものを勧められ。大嫌いなジャンルだったが、意外に好評。結局、監督デビューしてからは泣ける青春ものばかり撮っている。
ある人はいう。「お前は才能があったんだよ」ーそれは違う。実はシナリオは高校時代から書いていた。映画学校でも書かされたが、それ以外でも書いていたし。バイトする時間も惜しくて、サラ金で生活を立てながら書いたこともある。その内に自分の得意なジャンルが見つかり。得意技が分かり。「読んだだけで泣けた」と言われるシナリオが書けるようになった。
ま、未だに毎回、戦いだが、才能ではなく。何本も何本も書いたことで身につけた技術だ。映画も、料理も、髪のカットも、お弁当作りも、イラストを描くのも同じ。俳優業やミュージシャンだって同じはず。何事も才能ではない。年月をかけて技術を磨くこと。自分の得意技を探す事だ。