【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】 [My Opinion]

【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】
以前、こんなコメントが書き込まれた。「目薬を使ってはいけない」ただ、それだけ。その理由は書かれていない。昨年、目の手術をしたあとに、化膿止めとして渡された目薬のことを記事にしたときのことだ。こんなのもある。「そんな食品を食べない方がいい。あなたの健康を損ないますよ」似たようなパターンは多い。
これらをコメントした人たちの気持ちを推察すると、「目薬はいけない」=>危険だ=>医学的にも言われることだ=>そのことを知らない=>教えてあげないと=>「そうだ。それが親切というものだ」そんなふうな思いからコメントしたのだろう。
しかし、この人は大いなる思い込みがあり、手順、そして状況を理解していない。例えば、この人が医薬関係に精通していて、それは友人間ではよく知られている場合は、よく知る友達が目薬を多用しているのを見て「目薬を使ってはいけない」と言えば、その友達も「彼がいうのなら、そうかもしれない....」と思い、止めるかもしれない。

ところが、Facebookにそんなことをコメントすると、どうなるのか? その人が医薬品に詳しいか?どうか? 僕は知らない。もしかして、その人の「基本データ」を読めば、「薬剤師」「医薬メーカーに勤務」と書かれているかもしれない。だとしても、それをいちいち読まない。そんな人からいきなり「目薬を使ってはいけない」と言われても????と思うだけだ。
Facebook友達ではあるが、コメントをくれたのは初めて。何よりコメント文章が不親切だ。もし、その人が僕の映画のファンで「監督の健康が心配だ」と思っていたとして、さらに医薬メーカーに勤務して、目薬の弊害に詳しくて「監督のためにも進言しよう」と思ったとする。だが、それでは伝わらない。その背景を飛ばして「目薬を使ってはいけない」とだけコメントして来ても、単なるヘンなヤツとしか思えないからだ。
何より「使ってはいけない」という命令形でコメントしてくることに違和感を持つ。さらに言えば、僕の記事を読んでいないことは明白。通常の目薬は確かに問題があり、効果がないことがよく指摘される。僕自身も眼科で医師から「市販の目薬を使うくらいなら水で目を洗う方がいい」と言われたこともある。
だが、記事を読めば手術直後であり、化膿止めの薬であると分かる。季節は夏。もし、傷が可能したら大変ことになる。何より通常の目薬とは違う。化膿止めなのだ。もし、それでも「使ってはいけない」というのなら、それなりの理由を提示すべき。なのに「使ってはいけない」とコメントするのは、記事を読まず「目薬さして寝ます」というタイトルだけを見て「あー目薬ってよくないんだよなー知らないのかなーこの人? 教えてあげなきゃ」というレベルでコメントしたと思える。
けど、もし、この人が知識豊富で何らかの理由で化膿止めでも危険と伝えたのであれば、親切心でコメントしようというのであれば、そこからまず説明するべきなのである。でないと「怪しいヤツ」「偉そうなヤツ」という印象しか持たれない。目薬だけではない。2番目の「そんな食品を食べるべきではない」も同じ。
そんなコメントを現実に親しい訳ではないFacebook友達に書き込まれるのは、例えればレストランでとなり合わせた客から「それ食べない方がいいよ」と注意されるのと大差はない。親切とは思われず、むしろ嫌がらせ。頭のおかしなヤツということになってしまう。

目薬や食品だけではない。放射能についても、原発についてお、安保法案も、集団的自衛権も、TTPも、教育問題も、全て同じ。もし、相手が無知だったり、間違った知識を持っていたとして、自分が詳しくても、よほど親しい友人でなければ、先の人たちのような説明不足のコメントをしても、嫌がられこそすれ、喜ばれることはない。もし、コメントするなら、自分がいかにその分野に詳しいか?を説明。さらに、その人に対してどんな思いを抱いているか? 「応援している」「心配している」だからこそ、あえてコメントしたことを伝えなければ嫌がられるだけだ。
そんなことは当然なのだが、その種の人が多い。それはなぜか? というと、多くの人が「Facebook友達」になると、それは「現実の友達」とイーコールだと勘違いしてしまうから。友達承認をされれば、もう友達になったと思い込むからだ。考えてほしい。現実だって、誰かと知り合っても、そこからスタートで、様々な会話をし、行動を共にし、いろんなことが分かってきてこそ。アドバイスができたり。また、相手の助言を聞くようになる。
つまりFacebook友達の「承認」は友達関係をスタートという意味であり。「友達」になったということではない。にも関わらず、自分のことを相手が何も知らないのに「目薬を使ってはいけない」などとコメントする。本人は親切のつもり。だから、コメントを削除されたり、返事がないと、ムカつく。「親切で言っているのに、何てヤツだ!」と思う。が、問題はコメントした側なのだ。互いのことを知らないのに、コミニュケーションもほとんどないのに、アドバイスをするからだ。
せめて、自分がなぜ、目薬に対してこだわるのか? なぜ、わざわざコメントしたのか? その辺の理由を詳しく書くべき。同様にこんな問い合わせも良く来る。「友達承認」をしたとたんに「映画はどこで観れますか?」とか「何時から上映ですか?」「俳優の***さんってどんなですか?」尋ねて来る人がいる。

それらも同じ。「承認」したからと、友達になった訳ではない。それを現実の、それも5年10年の付き合いがある友達関係だと勝手に解釈しているので、そんなことが言える。それは仕事で名刺交換したばかりの人に電話して「あなたが建設したビル。いつオープンするんだっけ?」「君が仕事したA社って、どんな感じの会社?」と訊くようなものだ。
それらを聞くには、仕事で何度も行動し、互いのことが分かって来て、ちょっとしたときに、仕事の合間に世間話と聞くなら許されるだろう。けど、名刺交換の翌日に電話やメールで尋ねて来られても「お前は誰じゃ?」「何でそんなこと教えなきゃならん!」となる。なのに、ネット上ではそれが分からなくなり、勘違いする人が多い。
僕は当初、おかしなコメントがあっても、相手の背景を考え、対応を考えた。が、何の役にも立たない助言や無礼な提言に対して、いちいち説明したり、返事をする時間がもったいなく思えて来た。なので「大きなお世話」「読んでて不快」というとき。第三者が読んで誤解するというときは即、削除することにした。
一部の人かとは思うが、たぶん、彼らは現実の中では良識を持ち、行動しているはず。にも関わらず、なぜ、ネットとなると、暴走してしまうのか? 常識や礼儀を忘れて、勘違いなことをしてしまうのだろう? どこかで、人とコミュニケーションしているのではなく、パソコンと会話している気分になっているのかもしれない。機械と対話している感じ? でも、機械を通して人と会話。人に意思伝達をしている。それをどこかで勘違いしてしまうように思える。

「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある [My Opinion]

【「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある】
「何でそんな古い発想しかできないんだ?」と年下のスタッフを見てイライラすることが時々ある。が、よく考えてみると、そのスタッフは僕よりは若いがもう40代。決して若くはなく、もうオジさんと呼ばれる年代。そういえば昔、ある人から言われて「へーーそうだよなあ」と思った言葉がある。
「10代は新しいことを当然のように吸収する。20代はちょっと努力がいる。30代はかなり苦戦する。40代は拒否して、そんなものは必要ない!といい出す….」
これは当時、僕のまわりにいる人たちを見ても納得したものだ。例えば、ヒット中の歌謡曲があったとして、10代は皆知ってる。20代は「CMでかかってるやつね?」といい、30代は「今度、チェックしておく」40代「そんな歌知らなくても、困らないんだよ!」と怒り出す。要は、歳と共に脳が老化して、新しい情報を受け入れにくくなっているということなのだ。スティーブン・ジョブスが若い頃にいった言葉でも、思い出すものがある。
「体験は人を助ける。いろんな経験をすることが人生を助ける。でも、経験はレコードに溝を彫って歌を記録するのと同じで、一度記録すると消すことができず、その後もそれの経験に縛られてしまう。それが結構、やっかいなんだ」
僕が20歳ころのインタビューで読んだので、もう30年以上前。当時、僕は深く意味を理解していなかったが、次第にその意味が体験を通じて理解して行く。そう、一度、経験したこと。教えられたことを人は繰り返し。新しい方法論が出て来ても、それが受け入れられないのだ。映画の撮影現場ではそれが顕著に分かる。古い監督はフィルムにこだわり、ビデオとかハイビジョンを毛嫌いした。

しかし、ビデオの方が遥かに安上がり、現像代もプリント代もいらない。撮ってすぐに再生できる。編集も楽。なのに、古い監督たちはフィルムがいい!と譲らない。もちろん、クオリティはまだまだフィルムの方が上で、最近の4Kカメラになって、ようやく追いついて来た程度。
だが、いろんな面を考えると、ハイビジョンはとても便利。そう説明しても、古い映画人は「やっぱ映画はフィルムなんだよ!」と言い張っていた。フィルムだけではない。演出、撮影、編集等の方法論も伝統的なやり方を重んじて、新しい方法論を持ち出すと、「どちらがいいか?」ではなく、「それは邪道だ」「映画はそんなやり方はしない」という、もう絶対的な思い込みがあり、新しい方法論を否定していた。そして誰一人として、新しい方法論に「時間の短縮」「製作費の有効活用」等の利点に対して、論理的に答えるものはなく、「映画はそれじゃ駄目なんだよ!」と意味の分からぬ反論。それも感情的になることが多かった。
要はそういうことではなく、昔から使っている慣れ親しんだフィルムで仕事をしたい。新しい技術を学ぶのは嫌….ということ。先の友人の言葉でいうと「40代は拒否する」というやつなのだ。今ではフィルムで撮影する日本映画は1年に1−2本。フィルムで撮りたいなんていったら、会社に「何考えてんだ!」と怒られてしまう。そんなふうに近年の映画界は新しいもの、新しい方法論を受け入れないと仕事もできない。生き残ることもできない状態になってきた。にも関わらず、僕より若いスタッフ。
といっても40代が撮影でも、演出でも、編集でも古い価値観を振り回すヤツがいる。そして、歳取った先輩たちと同じようなことをいい、頑になる。何で? 若いのに? と思っていたら、実は彼らを育てた先輩たち、或いは彼らが長年仕事をした先輩というのが、結構、高齢の人で、もちろん、僕よりずっと上であることが分かる。つまり、僕が「この人頭古いなあ」と思っていた先輩たちから直に、映画技術を教わった世代なのだ。その先輩たちから伝授される技術、方法論こそが「映画作り」と若い頃から思い仕事をしてきた。ジョブスのいう「一度、刻まれた記憶は消せない」ということなのである。

そのため、若いのに古い価値観をふりまわし、現場の進行を阻害するのだ。僕より上の世代。古い価値観を振り回す先輩たちが近年、どんどん引退して、ようやく自由にやれるようになって来たなあーと感じていたのに、次世代に同じ古い価値観を振り回すタイプがいようとは、思いもせず困惑することがある。基本、映画というのは各パートで、上の人に師事して勉強しながら仕事をする。だから、先のようなタイプも出て来るのだ。監督業も昔は、助監督システムで、ベテラン監督に師事。10年ほど助監督をしてから、監督になったのだが、今は助監督経験なしに、自主映画等を経験して、いきなり監督ということがほとんどだ。
僕もそんなコースで監督になったので、古いベテラン監督を見て、演出を学んだ訳ではなく、8ミリ映画で実践。自分なりにあれこれ考えて、或いは聞いた話や読んだ巨匠のエピソードから学んだ方法論で演出する。そのために、ベテランの方々観ると「何だあれは? 映画の作り方じゃねえなあ。駄目だ。ありゃ。うるさくいってやんないと、ろくなものが作れねえよ」と思い、あれこれうるさく言われたのである。だが、彼らの主張する王道、伝統的な映画製作では、これまでと同じ、よくあるタイプの映画しか作れない。
おまけに、製作費、撮影期間はどんどん削減されて、旧き良き時代の映画作りとは同じ条件で製作はできないのだ。にも関わらず、お金も時間もないのに、古い価値観で映画を作るので、過去の作品以上のものができない。それに気づかず、古いやり方を繰り返していた。そこで、僕は自主映画時代に試行錯誤して体得した時間も製作費も節約しながら、クオリティを上げる方法論を実践したのだが、多くのベテランスタッフらの逆鱗に触れ、よく説教されたものである。

でも、それがいよいよフィルムが使われなくなり、編集もノンリニアしかなくなり、あらゆる意味でデジタル化が進んで今日では、過去のやり方が実践できなくなってきた。むしろ、僕がやってきた新しいスタイルを使う若手監督も増え(別に僕が開発した訳ではない、ハリウッドスタイルと自主映画のいいとこ取りの方法論だ)そちらが、マジョリティになって来た訳である。また、「邪道」といわれ「これじゃロクな映画にならない」といわれた僕の映画が彼らの不安に反して観客から高く評価され、彼ら自身も認めざるを得ない完成度になったことから、次第にうるさくいう先輩たちもいなくなった。
それでも次世代にその先輩たちの価値観を引き継いだ人たちもいるのだが、こうして新しい時代がやって来ることを感じる。次は僕のやり方が古くなり、さらに下の世代から「太田監督は古いんだよな〜」と言われるようになり、疎まれる時代が来るのだろう。いずれにしても、伝統も大事だが、時代の移り変わる中で大切なのは、その時代に相応しい方法論を使うことだ。映画だけではない。ビジネスでも、音楽でも、演劇でも、公共事業でも、コンピューター産業でも同じはずだ。
それを妨げるものこそ、実は人の老化。脳の老化なのだ。新しいものが受け入れられないということは、時代から振り落とされることでもある。昔はそのスピードがゆるやかだったが、今はもの凄い早さで時代が進む。昔は歳を取れば威張ってられたが、これからは若い人の方が時代を生抜ける力があるということ。その中間の世代はこれから大変な思いをするだろう。もちろん、僕を含めて。

【勉強のためにテレビを見なければいけないのに....スプリングスティーンを聴いてしまう理由?】 [My Opinion]

【勉強のためにテレビを見なければいけないのに....スプリングスティーンを聴いてしまう理由?】
先にも書いたが、4年間休みなしに走り続けて来たので、世間が分からなくなっている。てっとり早く取り戻すにはテレビを見ることだ。子供の頃は親から「テレビばかり見ていると馬鹿になる」と言われるほど、テレビを見ていたけど、いつからかテレビを見なくなった。というのは、最近のテレビは面白くないからだ。それでもテレビを見ることは時代を感じることができるので有効。
また、映画の仕事をしているのなら映像表現であるテレビを見ることは本来なら大切。業界の先輩でも家にいる間中、テレビを付けっぱなしにして、映画チャンネルを流している。小説家の知人も呆れるような下らないテレビ番組でも見ている。それはとても大切なことで、作家は表現するばかりでは駄目。供給が大事。その意味でテレビは手軽な供給源なのだ。
それが分かっていても、テレビを見るのは努力がいる。ここしばらく、午前の「向日葵」情報発信のときに、テレビを付けっぱなしにしているのだけど、夜になると、やはりテレビより音楽が聴きたくなる。そう。今もこの記事を書きながらiPodで音楽を流している。映画監督業なのに、テレビ=映像より音楽が好きなのだ。
仕事を終えて、そろそろ一杯....というと、カタギの友人たちは野球やお笑い番組を見ながらビール!というが、僕は音楽を聴きながら一杯がいい。昨夜はB・スプリングスティーン。一昨日はマディ・ウォータース。今夜はライトニング・ホプキンズとか。音楽が酒の肴。新しい曲を聴きながら、懐かしい曲に触れながら、あれこれ考えるのが好き。
考えると、中学時代から、起きている間はずっとラジカセで音楽を流していた。外出時はウォークマン。今はiPadに音楽が入っているので、ヘッドホンを持って行けばOK。何で、映画屋なのに、音楽が好きなのか? ま、だから、監督した映画の音楽はもの凄く力を入れる。どーも、日本映画って音楽に対する扱いが低くて、昔から不満だった。
自主映画時代も同世代で音楽に強い関心のある奴は少なかった。皆、映画はよく見ているが、音楽はそこそこ。「何聴くの?」と訊いても「何でも」と言われる。それは何でも聴くというより、特に関心がないという意味だ。「***のレコードは全部持っている!」とか「****のライブは必ず行く」という奴はほとんどいなかった。
映画監督業を始めてからも、「スプリングスティーンのファンだ!」とか、「ストーンズは今回も行った」とかいう監督には会ったことがない。先輩たちも「村上春樹は読んだか?」とか「芥川龍之介は読んだ方がいいぞ!」とはいうが「ピンクフロイドは聴いているか?」とか「フーの『四重人格』は聴いたか?」という人はいなかった。
いや、もしかしたら、僕の方がおかしいのかも? 本来は音楽業界に行っくべきなのに、映画界に来てしまったのかも? そういえば、高校時代にギターを練習していて、Fのコードが弾けなくて挫折した。情けない。音楽業界は無理。でも、8ミリカメラはコードないから、誰でも使えた!?
そんなこんなで、一番影響を受けたアーティストと訊かれると通常は黒澤明とか、スタンリーキューブリックと監督たちは答えるのだけど、僕は「B・スプリングスティーン」とか言ってしまう。けど、彼の音楽を知っている人は「なるほど」というのだが、映画ファンは「????」となる。ははは、とりあえず、今宵はブルースの昔の曲を聴きながら、焼酎を飲むことにする。

【夜空を見上げながら考える。幸せはどこにあるのか?】 [My Opinion]

【夜空を見上げながら考える。幸せはどこにあるのか?】
「幸せって何だろう? どこにあるんだろう?」それが今の僕のテーマだ。前作「朝日のあたる家」あたりから、それを探している。その答えはなかなか見つからず、「向日葵の丘」でそのひとつを提示したが、今もなお答えを探し続けている。
金持ちになることか? それだけではないと思う。ただ、お金は生きて行く上で必要だ。必要だが、それに執着すると大切なものをなくしてしまう。友人の1人はかなり稼いでいるが、長時間労働。家に帰ると最愛の幼い娘はすでに寝ており、朝は友人より早く小学校に行ってしまう。
たまの日曜日は、彼自身が疲れ切っていて昼まで寝ている。娘と過ごせる時間は本当に僅かなのだ。それもそれでひとつの幸せかもしれないが、彼は仕事を減らしてでも娘と過ごす時間がほしいという。ただ、仕事がそれを許さない...。

「有名になりたい!」という友人もいた。「俳優になって、スターになって、有名女優と結婚したい」といっていた。結局、それは適わなかったが、有名になった俳優を見ていても幸せ感がない。皆が笑顔で寄って来る。誰が本当の友達か?分からないという。プライベートにどんどん入り込んでくる人たちがいる。もう、放って置いてほしいと嘆く。
「自分がやりたい仕事をすること」という友人もいる。彼はミュージシャンを目指していたが、挫折。故郷に帰り就職した。友人はいう「太田がうらやましい。お前は映画監督になりたいといい、本当になった。ラッキーな奴だ」でも、羨ましがられるほどのものではない。映画は毎年撮れる訳ではない。
仕事がないからと、昔のようにアルバイトもできない。50歳を過ぎて何をすればいいのか? 日本の監督業は過酷。ハリウッド監督のように金持ちには絶対なれない。退職金もない。家も買えない。いや、結婚すらできない。好きでやっているのだが、幸せ感はない。

つまり、夢は適えばハッピーだが、監督になることは目標へのスタート地点。「監督になれて嬉しい!」ということではない。作った映画を見て観客がハッピーになるーそこで始めて僕の「思い」が果たされる。
そこが大事なのだ。職業として監督になることが夢を果たしたことにはならない。そうなると、観客が感動してくれる、どんな映画を作るか?が次のテーマになる。そのテーマこそが「幸せとは何か?」となのだ。
結婚して愛する人と生活することか? 子供の成長を楽しみに生きることか? 理解ある友人たちがいることか? 仕事の上で素晴らしい仲間がいることか? しかし、人は変わり、妬み、堕落して行く。詰まらぬことで争い、批判し合い、下らない優越感をひけらかす。
何を信じて、何を掲げればいいのか? 時代の風が吹き始めている。その風はどこに行こうとしているのか? 流れる夜空を見ながら、その答えを探している...。

テレビ見てたらバカになる。でも見ないと世間からズレてしまう?! [My Opinion]

テレビ見てたらバカになる。でも見ないと世間からズレてしまう?!
これまでは集中するために仕事場で、パソコンに向かい「向日葵」情報の発信をしていた。が、毎朝4時間。発信ばかりで吸収できない。映画監督業は「吸収」こそ大切。なのに、この8ヶ月ほど何もできていない! そこでテレビの前にノートパソコンを持って来て、そこで作業。フランス同時多発テロのニュースを見ながら、Facebook等を書く。記事の場合は集中しないと書けない。でも、映画館情報や撮影風景の写真のアップならニュース番組を見ながらでもできる。
子供の頃はよく大人から「テレビばかり見ていると馬鹿になる」と言われたが、大人になりテレビを見る時間がなくなると、世の中の動きが分からなくなるという弊害があることを痛感した。確かにテレビ報道をそのまま受け止めていると、とんでもないことになるが(情報操作や嘘。誘導が多い。そして、見る者に考えるということをさせなくする効果も強い)全く見ないと、今日本で何が起こり、何が問題になっているのか? が分からなくなる。
もちろん、ネットのニュース等は見るので多少は分かるのだけど、やはり映像による報道は分かりやすい。ネットも動画があるが、まだまだ文章。その場合は記者の主観が入るし、社の方針もある。もちろん、映像も細工したり、印象を変える編集をすることができるのは仕事柄、理解している。だとしても、ネットだけの報道を信じていると世間は見えて来ない。
報道だけではない。ドラマでも、バラエティでも、ほんと見ていると馬鹿になるような番組が多いが、そこからもいろんなことが見えて来る。レギュラーで出ているタレントや俳優が誰なのか? なぜ、人気があるのか? その背景はなにか? と考えると、そこからも世間が見えて来る。
そんなふうにテレビを見ることも大事なのだが、文章は速読できるが、テレビは録画して早送りで見ても分からない! 1時間のドラマは見るのに1時間かかる。ということで、どこでもスマホで見れるネットニュースは見れても、テレビ報道はなかなか見れない。ましてドラマやバラエティはもっと見れない。
新聞なら持ち運べる?と思ったが、それも駄目だった。そのくらい、この8ヶ月ほど忙しく。世間の流れが分からなくなっていた。「NEWS23」だけは毎晩、録画して、時間があるとまとめて見ていていたが、ひとつの局のひとつの番組だけでは、全体像は分からない。いろんな局も見て比べることも大事なのだ。
そんな訳で社会復帰するために、テレビを見なければと思いつつ。まだ、昼過ぎまでパソコンに向かう生活が続いている。そこでテレビの前にパソコンを置き、作業することを思いついた。もっと、早くやればよかったんだけど、長い記事を書くのは「ながら」じゃできないからなあ〜。ということで、本日は4時間かけず。早めに切り上げる。

有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか? [My Opinion]

【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】
学生時代。有名人と交流があることをやたら自慢する奴がいた。「俳優の**さんと知り合いだ」「***監督の家に呼ばれた」「***さんとはもう1年以上の付き合い」でも、ほとんどが嘘。ただ、完璧な嘘ではなく、付き合いはないが会ったことがあるとか、同じ会場にいたとか、1%は事実。そこから妄想(?)が始まり「会ったことがある」=>「友達だ」と思い込んでしまうタイプのようだ。
なぜ、彼はそんなすぐにバレる嘘を付くのか? それは子供が友達の気を引きたくて「うちには外車がある」とか「****のおもちゃがある」と嘘をつくのと似ている。注目を集めたい。尊敬されたい。そんな子供と同じ。もっというと、嘘というのは努力せずに、関心を集めることができる。楽して注目されたい!という思いが根底にあり。友人はまさしく、そんなタイプだった。
ただ、彼はもう学生だったので、「おもちゃがある」とか「家に外車がある」ではなく、「有名人と知り合い」という手を使う。なぜか? 有名人と知り合いであることが自慢になるのか? 僕は10代からそう思っていたが、結構、有効な手であること。のちのち分かって来る。例えば、友人が「有名な映画監督の***さんと交流がある。お世話になっている」と言えば、皆「へーーー」という。つまり、友人は何らかの素質や実力が認められたからこそ、面倒を見てもらっていると解釈するからだ。
しかし、有名タレントの場合はどうだ? 「人気俳優の***と友達だ」といっても、それはたまたま友達!と思うのだが、多くの人は「へーーー」という。それで何のメリットがあるというのだ? 大手企業の社長を知っているというのなら、就職に有利とかあるが、人気俳優が友達で何の得があるの? なのに、多くの人は「あいつは有名人と友達。あいつは凄い奴だ!」という評価になるようだ。

その解釈はおかしい! 例えるとこういうことだろうか? 友人は有名なデザイナー***さんと友達=>***さんは世界的に有名な人=>その人と付き合えるのは、友人もそれなりの人間だということ=>だから凄い。
そんなふうに多くのは人は「有名人」が友達だと、「その人も同じくらに凄い人だと解釈」するのだろう。ただ、あとになり嘘だと分かり友人は顰蹙を買い、尊敬されるどころか、さらに馬鹿にされるようになるのだが...。
最近、その友人を思い出すことが多い。以前にも書いたが、有名俳優と仕事をしたことで、多くの人が「凄い」と言ってくれる。凄いのは俳優の方であり、僕ではない。僕は単なる監督。でも、多くの人が「あんな有名な俳優が出てくれるんだから、凄い監督だ」といってくれる。ありがたいことだが、本来は「素晴らしい映画を撮った監督」=>だから「凄い!」というのが正解。それより、有名俳優と仕事したから「凄い」になる。
逆に、批判の対象にもなる。「偉そうに有名俳優と仕事をしやがって!」という業界の先輩がいる。「有名俳優と仕事してから、態度がデカくなった!」と批判する一般の人もいる。が、その人たちの背景を考えれば理由が分かる。先の先輩は低予算映画しか監督できず、有名俳優は出演してくれない。嫉妬した。でも、「悔しい」とは言わずに「偉そうに」と表現。「お前ごときが有名俳優と仕事をするな。100年早い。まず、オレが先!」という上から目線の言葉なのだ。

後者は以前、僕の撮影のお手伝いをしてくれた方。今回は来れなかった。つまり、有名俳優の撮影現場に参加してない。だから、特に連絡もしない。それを「以前は面倒を見てやったのに、今回は何の挨拶もない。有名人と仕事をして調子に乗っているんだ」と解釈した。だが、間違っている。今回、お手伝いしてくれた人は100人を超える。その1人1人にだって連絡はできない。まして参加していない100人を超える人に連絡する余裕はない。
その人は「今回の撮影を手伝いにいけば、有名俳優に会えたのになあ〜」という悔しさがあったのだろう。その気持ちをストレートに表現すると惨めなので「挨拶に来ない」「連絡がない」「以前は面倒みたのに」という理由をつけて「態度がでかくなった。有名人と仕事をして調子に乗っている」と歪んだ解釈をしたのだ。
この2つのタイプに言えるのも「有名人好き」ということ。自分も有名人と関わりたかった。会いたかった。話をしたかった。という強い思いがあることが背景だ。彼らは決して特別な人ではない。悪意もなく、善良の人たち。でも、有名人が絡むと嫉妬し、悔しさを批判に変えて批判する。それほど有名人というのは、魅力的な存在なのだろう。だから、学生時代の友人は有名人と交流があると嘘をついて関心を集めたのだ。
僕はちょっと欠落したところがあり、昔から有名人に特別強い興味がなかった。それゆえ、有名人自慢する友達の気持ちが分からなかったのだが、最近はそれを痛感している。
この業界で仕事をするようになり、有名な俳優、巨匠、アーティストと何度も仕事させてもらった。有名な人たちは確かに凄い。魅力的だし、学ぶことが多い。だからこそ、有名になったのだが、多くは「あの人の実力は凄い」という評価でなく、「あの人は有名」=>だから凄い!になっているような気がする。有名とは何か? なぜ、人は有名人に惹かれるのか? あれこれ考えることが多い。

【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう? そして大切なことを見失っているのではないか?】 [My Opinion]

【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう?
そして大切なことを見失っているのではないか?】
ここ数ヶ月。忙しくて食事の時間も取れないことが多かった。移動中にコンビニで菓子パンを買って歩きながら食べるということが何度もあった。先日、カレーパンを食べながら歩いると、80歳前後の腰の曲がったおばあちゃんが前方からやってきた。僕の前で立ち止まり、笑顔でこちらを見てこういった。
「パン食べてるの?」
会ったこともない人だし、ちょっと不審に思ったがお年寄りだし、答えた。
「はい…..」
すると、そのおばあさんは急に険しい顔をしてこういう。
「だから、そんなに太るんのよ!」
と言って立ち去って行った。何なんだ? あの婆さんは????? 想像するにお婆さんは「この人は座らずに食事をしている」と思った。しかし、僕が座って食事をする時間がないとは考えない。座って食事をするだけでなく、歩いているときも食べていると考えた=>賎しい=>だから太るんだ=>一言いってやろう!という理屈だったのだろう。だとしても、見知らぬ他人にそんなことをいうだろうか?

と思っていると、自転車に乗ったおばさんが通りかかり、目の前で止まる。「あんた。あの人知ってるの?」そう聞かれた。「いいえ。今、会ったばかり….」そういうと、おばさんは「あの人。町内でも有名なのよ…」といい、ため息をつくと自転車を漕ぎ去って行った。
何なんだ??? 想像するに、あのお婆さんは見知らぬ他人にやたら話かけては、あれこれ顰蹙を買うことをいうことで有名な人なのだろう。耄碌しているのかもしれない。
詳しいことは分からないが、耄碌したから見知らぬ人にまで余計なことをいうのか? 或いは耄碌したから思ったことを誰彼構わずにいってしまうのか? どちらかだろう。しかし、近所のおばさんたちの立ち話を聞いていても、「**さんがどうした」とか人の噂や批判ばかりしている。基本、人は他人のことをあれこれ言うのが好きなのだろう。
Facebookでも同じ。僕が書いた記事に対して、あれこれ首を傾げるコメントを書き込んでくる人たちがいる。「目の手術をしたので化膿止めのため毎日、目薬をささねばならない」と書くと、こんなコメント。
「オレ、目薬嫌いなんだよね〜」
ーはあ? あんたに目薬させとは言っていない!或いはこんなの
「目薬はいけない!さしては駄目だ」
これは一般の目薬についてよく言われることなので意味は分かる。が、記事を読めば手術後の化膿止めであることは分かる。が、その人は文章を読まず、「目薬をさした」という部分だけ見て「駄目だ」とコメントしたのだ。

2人ともFacebook友達ではあるが、面識はない。ネット上で会話したこともない。なぜ、親しくもない相手にあれこれ注意を促したり、必要のないことを言って来るのか?何度も紹介したが、こんなコメントも以前は山のように来た。
「野菜が足りませんよ!」
「もっと運動した方がいいですよ」
「タンパク質が足りませんよ」
—大きなお世話だ! もちろん、僕の健康を気にしてくれているのは分かる。が、当時も多忙で野菜を食べる余裕なんてない。駅そばがランチてなことが多かった。そんな事情も説明しているのに「野菜が足りません」「サラダを食べましょう!」と連日コメント。「品川駅のどこでサラダ食えるか教えてくれ!!」といいたくなる。会ったこともない人たちが毎日のように、そんなことを書き込むので、一時期「プライベートなことは今後書かない!」と宣言したこともある。
僕が監督したある映画がDVD化される予定はない、と記事に書いたときもそうだった。何十人もが「だったら、***に頼むといいですよ」「台湾で作ると安くできますよ」といろんなアイディアが寄せられた。が、それらのコメントは100%当て外れ。

何より、DVDのプレスができないと書いたのではなく、メーカーから発売できないという旨を伝えたのに、「資金がないからプレスできない」と勘違い。おまけにコメントをくれた全員が業界の人ではなく、「よく分かりませんが***社に頼んだらどーですか?」とか自分の知らない分野のことに、あれこれコメントしていた。
これも「親切」「好意」と解釈することはできる。が、自分の知らないこと。専門外のことを想像でアドバイスすることに意味があるだろうか? その上、アイディアを募集した訳でない。さらには記事の意味を理解していない。問題点ではないことにコメントする。決して悪い人たちではない。少しでも知恵をしぼって助けになれば!という思いで書いてくれたのだとは思う。が、同時に、他人のことを、専門分野でもないのに、あれこれ言いたくなる人の心理が働いてはいないか?
つまり、先のお婆さんも、近所のおばさんも、Facebook友達も皆、同じで、自分がよく知らない人に対しても、あれこれ口出ししたい!という思いがとても強いのだ。それを指摘すると「親切で言って上げてるのに失礼な!」と怒り出したり「だったら勝手にしろ!」と逆切れされたり。意味が分からない。

なぜ、人はあれこれ他人のことに口出しするのか? 困ってもいない人にアドバイスしたがるのか? 専門外なことまで分かったようなことを言いたがるのか?映画の世界で仕事をしだしてからも、飲み会に行くと、人の噂話しかしない会が多い。
「***監督は才能ないのに何で毎年撮るんだ?」
「役者の***はもう駄目だ。仕事がなくなるよ!」
とか、そんなことばかりいう飲み会が結構あって、近年は忘年会にも出ない。成功している人や失敗した人たちの仕事ぶりを分析、自分のプラスに繋げるのならいい。が、あれこれ聞きかじったことを、あれこれ批判していても何のプラスにもならないと思うのだが……、
ふと気づくとFacebookも似たような一面のある世界だと思える。一時に比べて、その手のコメントは激減したが、僕自身もその手の人たちの輪の中に陥っているのではないか? と思うことがある。
大切なのは何か? 日常に忙殺され、自分を顧みる余裕もなく。隣の芝生をうらやみ、嫉妬して、批判し、否定することだろうか? そうやって憂さを晴らすことではないはずだ。大切なことは何か? それを考えなければならない。

「有名になっても謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ」という人。その裏にある歪んだ構図? [My Opinion]

【「有名になっても謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ」という人。その裏にある歪んだ構図?】
何年も前だが、あるお仕事でご一緒した年配の男性Kさん。昔はラジオの仕事をしていて、いろんな人をゲストに迎えて番組を作ったという。その顔ぶれを聞くと凄い。時代を築いた有名人たちがズラズラ。「凄いですね〜」というと、Kさんは「いやー、たまたまですよ」と満面の笑顔で答え、有名人たちとの交友関係をいろいろと話してくれた。
「ただ、その後に歌手の****さんがレコード売れてブレイクするとねー」と視線を落とす。「番組に来てもらったときは、とても謙虚でいい青年だったのに、二度目に会ったときは尊大な態度で、上から目線。有名になると人は変わるんですよね〜。太田監督が有名になっても、謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ....」
「有名になると態度がでかくなる」という話はたまに聞く。人はやはり変わるものなのか? だが、その後、Kさんを紹介してくれた友人から、こんな話を聞いた。「彼は有名俳優の***さんと親しいというので、仕事でオファーするので紹介してほしいといったんだ。でも、何かはっきりと返事してくれなくて、直接、事務所に電話してKさんの名前出したら、そんな人は知らないって言われてさあ」????どういうことか?友人は続ける。
「Kさんに会ったときに詳しく聞くと、どーも、彼はその俳優と親しい訳ではないんだ。一度、番組に来ただけ。Kさんは今、フリーでラジオ局も辞めているし、自分が凄いことを伝えるために、有名人と知り合いと言ってるだけみたいなんだ....」

そこから彼の事情が見えて来た。レコードが売れてブレイクした歌手が尊大な態度になっていたというのも、実は相手がKさんを覚えていなかっただけではないか? 番組にくれば宣伝になるので、低姿勢で、気を使い会話する。でも、その番組のパーソナリティやディレクターの1人1人をアーティストは覚えていない。もの凄い数の番組に出演するからだ。そんな1人であるKさんが、局の廊下でそのアーティストに声をかける。当然、覚えていない。愛想のない対応をされた。それをKさん。こう解釈した。
「レコードが売れたので、態度がでかくなった!」
次第にKさんは有名人好きで有名だと分かって来た。親しくもない人と親しいと思い込んでいたり。いろいろトラブルを起こしているらしい。が、今回の要点はそこではない。「そのアーティストは有名になったから尊大になったのだろうか?」という点。もちろん、そんな人もいるだろう。ただ、僕自身が最近感じているあることと関連する。今回の「向日葵の丘」もの凄く評判がいい。大物俳優もたくさん出ている。
「監督、凄いですねー!」
と言われる。でも、僕が凄いのではなく、俳優たちが実力派揃いで凄いのだ。なのに、多くの人は僕を褒めてくれる。これは危ない。一般の人は「有名俳優が出ている=凄い」という発想を持ってしまう。だが、監督は映画の中身を作る人。「感動的な映画」=>「この監督は凄い」はいいか、先の「有名俳優が出ている」=>「凄い」は違うのだ。
それを勘違いして「オレは凄い」と思うのは間違い。先のKさん。それを混同したのではないか? 「有名ゲストがたくさん出る番組を担当している」=>「だから、オレは凄い!」と思い込んだ。これも「この番組は面白い」=>「だから、担当のKさんは凄い」なら正解だが、「有名俳優が凄い」=「Kさん凄い」ではないのだ。

なのに廊下で会ったとき、その歌手はKさんを覚えていなかった。「ブレイクするとこれか?」と思い込み「人は謙虚でなければ...」と感じたのだろう。それを僕に求めた。そう思うのは、最近、いろんな人が「監督、凄い!」と褒めてくれる一方で、昔からの知人や同期の映画人から批判されることがあるからだ。「有名俳優が出演してるからって勘違いしてるんじゃないか?」「調子に乗っているよなあ?」とか言われる。
僕は何も変わらないのに「最近、挨拶ないよな?」という知人もいるが、今、挨拶に行く理由はない。もちろん、余裕ができたら報告はしようと思っていたが、宣伝宣伝で、とりあえず目の前の仕事をこなさなきゃいけない。なのにこういわれる。
「ちょっと売れるとこれだ...」
つまり、レコードが売れる。映画がヒットする。と、喜んでくれる人、評価してくれる人がいるのと同時に、妬む人が出て来て、ご無沙汰すると「偉そうに!」と解釈されてしまう。本人は忙しいだけなのに「ちょっと売れるとこれだ...」と思われる。
そしてKさんと同じようにこう思う。「昔はいい奴だったのになあ〜」人は偉くなると態度がデカくなりがち。僕もそう思っていた。Kさんに言われるまでもなく注意していた。が、こちらが注意しても、そんなふうに見られること。ここしばらく痛感している。若い人たちはよくいう。
「有名になりたい」「キャーキャー言われたい」
だから俳優になりたい。歌手になりたい。でも、まだブレイクしていると言えない僕でも、こんなことがある。本当に有名なアーティストたちって、どう なんだろう? そんなことを考えてしまう。

映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる [My Opinion]

【映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる】
映画撮影では地元の方にとてもお世話になる。僕の場合は地元支援で映画製作を何本もしている。だから余計に応援を頂く。同じように、地元の支援で映画を作った後輩がいる。ある街で映画を作ろうとしたとき。Bさんという人が応援してくれた。
「この街も不況で大変だ。映画で街をPRして観光客に来てもらう! そのためには映画はとても有効なPRになる。応援するよ!」
地元の人を何人も紹介してくれたり、飯を食わせてくれた。こうもいってくれる。
「オレが経営するレストランがあるんけど、撮影で使うなら、タダでいいよ!」
ありがたい存在だったが、後輩監督が街の事情を知るに連れ、Bさんの事情も分かって来た。彼は地元でレストランを経営していた。不況で客が来ない。近所には全国チーェーンの大手ファミレスがある。多くの客を奪われている。だから、映画撮影をすることで宣伝。店をアピールしたい!という思惑があったのだ。確かに映画でロケ地になれば注目されるし、映画ファンはロケ地巡りと称して店に来てくれるだろう。雑誌や新聞等で紹介されることもある。

ただ、後輩は映画にとても厳しい。プロデュサーが女優のAさんを使えといっても、レコード会社が売り出し中の歌手C子の曲を使えば、協賛金を出すと提案してもOKしない。その作品のプラスになるのなら受けるが、そうでなければ、どんなに高額の支援をしてくれても断る奴だ。
それが映画を駄目にする一番よくあるパターンだからだ。低予算の映画でも、映画というと、いろんなメリットが生まれるので、あちこちから、その手のアプローチが来る。が、そのことで映画の中身が歪られたり、クオリティが落ちるのであれば絶対に受けてはならない。
なのにプロデュサーに嫌われたくなくて、物語に相応しくない俳優をキャスティングしたり、映画のイメージに合わない主題歌を流したりする監督もいる。いろんな圧力がかかり、仕方なしに受け入れる監督も多い。
「なんで、あんな歌が最後に流れんの? 感動が台無し!」「あの女優は違うだろ? 何で出したの?」
と思う映画は、そんな事情が背景にあることが多い。ロケ地も同じだ。自治体から「**公園を売り出し中なので撮ってほしい」とか、地元の団体から「商店街でロケしてほしい」とか、リクエストが来る。
が、それで映画がよくなるならいいが、物語に合わない場所を無理に受け入れても、その店や公園も映えない。映画も駄目になる。だから、断るのだが、そのことで、その人たちとの関係が崩れたり、トラブルになることもある。後輩はまさに、そんな立場に陥ったのである。

Bさんも次第に主張が変わって来た。最初は「うちの店で撮影してもいいぞ」だったのが「うちの店で撮影するだろ?」になり、他では「うちの店で撮影することになったんだ!」というようになる。どうも既成事実を作り、撮影しない訳にはいかないように仕向けているようだ。
友人を紹介したり、飯を食わせたりしたのも恩を売って断れないようにしていたことも分かって来た。しかし、彼のレストランはあまりにも平凡で、その映画には合わない。さらにBさんの友人から「あのレストランで撮った方がいいよ」「彼とは揉めない方がいいよ。あとあと大変だから」と言われる。
後輩は悩んだ。製作が正式に決まり、いろいろと考えて断った。理由はやはり映画に合わないから。そう伝えると、Bさんは態度を180度変えた。あちこちでこう言い触れ回った。
「あの監督は薄情だ。いろいろ応援してやったのに、映画製作が決まっても挨拶なしだよ。何だったんだよなあ〜。オレの友人もいろいろと応援したのによーほんとバカ見たぜ」
Bさんはロケ地として選ばれなかったことは言わず、そう言って回った。だが、彼がしたのは地元の人を数人紹介したこと。誰も映画製作に寄与していない。あとは一度、ランチをごちそうしたことのみ。多くの人が彼以上にいろんな形で映画を応援してくれている。見返りを求めず、様々な形で支援してくれた。そんな中で、あることないことBさんはいい触れ回った...。

映画は無事に完成。地元では大ヒットとなり、多くの人が喜んでくれた。ただ、事情を知らない地元応援団がBさんの店にポスターを貼ってほしいと頼んでも、彼は頑に拒否。「あの監督だけは許せない、恩知らず!」と言い続けている。後輩はいう。
「Bさんも悪い人ではない。レストランをアピールしたいのも分かる。店の前まで行けば、通りを歩く人は皆、近所の大手チェーンのファミレスに入っていく。何とかしたい!という気持ちは理解する。でも、今回の映画はレストランが重要な舞台。Bさんの店では成り立たない。なぜ、個人ではなく街のための映画だと分かってくれないのだろう…」
僕も同じタイプの人たちと何度も会った。さして応援してない人ほど、あとになって「オレが面倒見てやったんだ」といい、あれこれ見返りを求めてくる。「応援してやったんだから、今度はオレのいうことを聞け」とか言ってくる。
が、それもおかしい。映画を作ったのは街のためであり、僕自身は毎回、借金が残るだけ。なのに個人に見返りを求めてくる。でも、そんな要求をされる。後輩にもBさんだけでなく似たようなこと言う人。批判する人がいるという。だから、こう話した。
「映画を作るには、多くの人の応援が必要。でも、メリットのなかった人は批判しがち。そして応援してくれても、あとになって批判する人もいる。けど、憎んではいけない。映画の世界は分かりづらく、誤解もされやすい。説明してもわかってもらえない部分もある。その町のためにがんばっても、理解されないことが多い。
でも、いつか分かってくれると信じて、その街で映画が撮れたことを感謝すること。僕らの仕事で全ての人に喜んでもらことはできない。できるのは、いい映画を作り、応援してくれた人たちに感動してもらうこと。町の魅力を再発見してもらうこと...映画屋にできるのは、そんなことぐらいなんだ...」

人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?! [My Opinion]

【人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞くとよく分かる?!】
映画製作でスタッフを集めるとき、注意していることがある。問題ある人をチームにいれないこと。だが、簡単な面接で相手を知るのはむずかしい。初対面では「オレは結構やり手ですよ! ははは」というようなアピールをする業界人がいるが、仕事をするとまるで駄目ということがある。が、その人の本質が分かるのには月日がかかる。分かる頃にはトラブルを起こしている。
なので初対面で相手を知るときは、よく「どんな映画が好きですか?」と訊く。タイトルを上げてくれれば、そのジャンルで趣味が分かる。アクション映画か? ラブストーリーか? SF映画か? コメディか? そこから趣味思考が分かる。それは当たり前だが、映画の感想を聞くとその人の思考レベル、洞察力、潜在意識も分かる!?
先に書いた記事でも、シナリオを読んでくれた映画プロデュサーが「どんな感想をいうか?」で、その人の読解力や想像力が分かる話をしたが、同じ方法論だ。「作品にリアリティがないんだよな」という批評をする人がいる。それを専門的に説明できる人はOK。「警察組織は捜査するときに基本的に2人1人組で行動し、所轄署は....」とかマニアな知識を披露してくれるのなら分かる。が、そうでなければ問題がある。「リアリティがない」という言葉をそのまま解釈すれば「嘘っぽくて現実味がない。取材をせずに、いい加減に描いている」という意味。厳しい目で見ているように思える。

が、多くは「そんな奴いる訳ないだろう?」とか「そんなことありえないよ!」と安易にいうことが多い。なぜか? その言葉を使う人の多くは、自分が知らない事実や経験したことがない現実が出てくると実感できず「そんな訳ないだろう?」と感じる。外の世界に興味はない。だから、想像もしない。
自分の経験値にないこと、つまり自分の知らない事実と出会うと「リアリティがない」というのだ。だから、脚本を映画関係者に読んでもらっていたデビュー前。その言葉が出て来たら「この人の感想は参考にならない。物語を十分に想像できていないのだから」と判断した。
そして、その種の人は「自分は映画関係者だ。素人じゃないぜ! という自負があるのだが、あまり努力をせず、勉強していない人が多い。意地悪な分析だが、言葉にはその人の背景や考え方まで出てしまう。そんなタイプ。映画ファンにも結構いる。「リアリティがない」と同じようによく使う言葉に「突っ込みどころが満載」というのがある。
さすがに業界人でこれをいう人はほとんどいないが、その言葉を使う人は洞察力がないことが多い。「突っ込みどころ」というのは、矛盾点のことを指す。「何でそうなるの?」「論理の飛躍ではないか?」「整合性がない」という意味だ。確かに安易に作られたドラマにはその種の展開が多く、シナリオ段階でしっかりと考えていないことがある。

ただ、その場合は「心理展開に無理がある」とか「ストーリー展開の飛躍が多い」等の言い方がある。それを「突っ込みどころ満載」という。だが、その人が指摘した映画を見ると「突っ込みどころ」ではなく、その人が展開を理解できていないだけのことが多い。背景を把握していないとか、伏線を見落としているとか。そのためにストーリー展開が分からなくなっているだけ。
もちろん、テンポの早い映画や複雑な設定の物語だと付いて行けないことや「え? 何でこうなるの」と思うことがある。だが、そこで「僕は大事な伏線を見落としたのかな?」とか「背景をよく理解できていないかったのか?」と自分の問題点を顧みるものだが、「私が理解できないのは、ストーリーに問題があるからだ」と安易に解釈していること。それが問題なのだ。
さらに「突っ込みどころかが満載」=>「満載」という言葉から、そのような矛盾点がたくさんあるという指摘。学生映画ならいざ知らず、プロの映画でそんなミスがたくさんある映画はやたらとない。「プロの作品なのだから、もしかしたら素人の僕が理解できていないだけか?」と思わずに「満載」といってのけるのは「俺はプロの問題点を指摘できるほど鋭い」という意識を持っているからだ。
だが、この種の人はたいていの場合は「見る力」が低い。映画作りの経験がある訳でもないのに、素人の自分が「優れている」と思い込んでいる。自分の能力や言動を顧みようという意識がない。そして事実ではないことを思い込みやすい性格でもある。オタクな映画ファンに多いタイプ。
映画を上から見下ろしていて、勘違いしている人が多い。映画レビューを見れば、これらの言葉をよく見かける。が、彼らは映画の本質や肝心な部分を見落としていることが多い。映画ファンというより、作品を否定することで自分の優秀さをアピールするためにレビューを書いている感がある。

あと、こんな人もいる。「この映画の結末は途中で分かった。あの程度じゃ駄目だよ」的な人。しかし、これも先の2つと同じ落とし穴がある。「自分だけ、オチが分かった」と思っているのだが、ほとんどの人が分かっていることがある。「他の奴は馬鹿だから気づかないが、オレは優秀だから分かった」的なニアンスがある。
このタイプは人に認められることが少なく、それでいて自分の能力は高い。なのに....と不満を抱えているタイプが多い。しかし、どんな分野でも何かを作ったことがある人は、人の作品を安易に批判しない。また、仕事への愛があれば、上から目線で批判はしない。
そして洞察力のない人、想像力のない人を映画製作に参加させると、いろんな意味で足をひっぱることになる。他のスタッフが理解できているのに分からない。意味のない努力をし、回りに迷惑をかける。自分の問題点に気付かず「シナリオが悪い、演出が悪い!」と言い張る。結果、トラブルとなる。だからチームに入れてはいけないのだ。ちょっと意地悪な分析だが、分かりやすいので紹介させてもらった。
だから、最初に会ったときに映画の話をする。「どんな映画が好きか?」聞き、特定の作品の感想を訊く。そこで先の言葉が出て来たら要注意。これは映画スタッフの話だけではない。映画を「見る力」も、世間を見る力も同じ。洞察力のない人は空回りしてトラブルを起こす。自分の非に気づかず、上から目線でまわりを批判して、誰かの責任を追求し始める。
学歴や出身地で人の力は分からない。だから、僕はそんな方法でまず、人の力や思考の仕方を知ることにしている。
