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【なぜ、人は人を批判するのか? 自分が知らないことにまで口出しするのか?】 [My Opinion]

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【なぜ、人は人を批判するのか? 自身に関係のないことまで口を出してくるのか?】

Twitterではときどき攻撃的なリツイートをしてくる人がいる。「向日葵の丘」の映画館情報をツイートしたときも「どーせ、下らない映画なんだろ?」とかリツイートしてくるヤツがいた。

ハンドルネームは嘗めたものだし、アイコンはアニメキャラ。念のためにその人のツイートを確認するが、世間への文句ばかり。これは即ブロック。ツイートを欲求不満のはけ口にしているタイプだ。

その点Facebookは相手の身元が分かる。と思っていたのだが、そうでもない。「基本データ」を調べると、住所も、年齢も、仕事も記載されていない。顔写真は動物ーネコとか犬とか。名前も本名かどうか?分からない。そんな人があれこれ首を捻るコメントをしてきたり、勘違いなダイレクトメールを出してくることが多い。

僕の生活面や記事に対して叱咤してくる人が時々いる。が、相手がどんな人か?分からない。年上なのか? 若い人なのか? どんな仕事をしている人なのか? 例えば医療の話で、それを指摘して来た人が、医療関係なら少しばかり失礼なコメントでも読むべき意味はある。でも、何の知識もない人なら、真剣に受け取る必要はない。つまり、相手は覆面をして、顔を見せず、素性も年齢も、住んでいる場所さえ分からない。そんな人に説教されたくはない。

では、そんな人たちはどう考えてコメントしてくるのか? 彼らの立場に立ち考えてみた。僕のFacebookを見る。履歴や職業は「基本データ」を読めば分かる。「この人は映画監督か...そこそこ映画も撮ってるけど、どれも聞いたことないなあ。何だか偉そうな文章を書いているけど、そうとは限らないだろう? 何か勘違いしてんじゃないの? 誰か注意してやらないと、調子に乗って大変な目に合うよ〜。よし、俺がいってやろう」と思ったりしてコメントしてくる。

これはあの構図と同じ。テレビ番組を見ていて文句をいう人たちと同じなのだ。「この子、アイドルグループのメンバーというけど、可愛くないじゃん。これでアイドルなんて笑える。私の方がまだ可愛い。なのに、可愛子ぶってムカつく。テレビ見ている人はみんなそう思うよ。こんなの出してる局って分かってないねえ。一言注意してあげるか?」とクレームの電話したり、メールを出したり。

つまり、ネット上で「お前誰?」という文句をいってくる人というのは、テレビを見て文句をいう感覚でネットを捉えているのだろう。特に僕の場合は映画監督業という仕事なので、テレビに出ているタレントたちと同じ感覚で認知されてしまう。ネット世界の有名人も同じ。だから、攻撃されやすい。一般の人が相手でもネットで接すると、テレビタレントと同じ感覚に陥り平気で酷いことがいえる。

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実際に会うと控えめな僕の友人も、ネットでは無意味なオヤジギャグを連発する。これも同じで、よく知らない人に対して「馬鹿じゃねえの?」とは言えないけど、芸人がテレビに出ていると「バカだな〜」といえるのと同じ感覚。でも、テレビに映っている芸人に声は届かないが、ネットの相手を批判すれば、届く。考えれば分かることなのに、無意識にテレビ感覚になっている人が多い。

つまり、現実に人と会えば「この人とは初対面。年上だ。それなりの立場の人だ。***に関して詳しい」とか、考える。さらに「僕は若い、その分野は詳しくない、単なる一市民だ」とか自身のことを顧みて、相手に意見する立場ではない。「年上の人に説教すべきではない」「知らないことを反論すべきではない」と考える。それがパソコンに向かうと、そんな発想はなくなりテレビ感覚で、番組に出ているタレントを批判するように、何でも言えてしまう。

だが、その種の人たちに悪意はない。テレビに向かって悪態をつくのも憂さ晴らしであり、誰にも迷惑をかけない。テレビ局に電話をかけても、反論されずおとなしく聞いてくれる。ただ、それをネット上でやってしまうと問題が出て来る。相手を怒らせる。ブロックされる。反論される。友達がほしくて、始めたFacebookでも「友達」ができない。ということになる。そんな可哀想な、或いは不器用な人たちなのだ。ただ、この人たちを優しく受け止めると大変。

勘違い気づかず、当て外れな批判を続ける。「あんたのために言ってるんだよ」という気分のまま、慣れ慣れしく、上から目線でコメントやメッセージがくる。こちらからすると、やはり覆面をしたヤツにあれこれ、思いつきで批判されているとしか感じない。「僕のことを思ってあえて、厳しい提言をしてくれている」とは解釈できないし、実際にそうではない。でも、相手は気づかない。

結局、その種の人たちの多くは自分の立場を把握せず、コミニュケーション能力に少し欠け、「憂さ晴らし」であるのに本人的には「親切」と思い込んで、他人をあれこれ批判、説教しているのが実情だろう。そんな人は無視するか? 削除するしかなくなる。だが、そう書くとまた別の人から「心が狭い!」「冷たい」「その人も寂しいのだから優しくして上げたらいいのに」「本当は監督と仲良くなりたいかもしれないですよ」とかいうコメントやメールが来る。だが、僕は問題児学級の先生ではない。

1人2人ではない無礼なコメントに対して毎回「本当はいいヤツだ。分かって上げよう!」という対応はできない。返事するだけでも、時間を取られる。状況の理解を求めるだけでも、かなりな時間と労力が必要。さらに、相手は「親切でいっているのに!」と逆上して、さらに揉める可能性もある。

仕事でやるべきことは山ほどあるのに、それはできない。僕の仕事は映画製作だ。いや、誰だって同じ、相手にしたくない。だが、日本人にはそんなタイプが多く「大きなお世話」ということが好き。それはいい面でもあるけど、現代社会に置いては意味をなさないことも多く、むしろ事態を悪くしているだけのことが多い。そんな人たちの多い現代社会で、どのように対応し、生きて行くべきなのか? 考えてしまう。


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【正義を掲げ、他人を誹謗中傷している人。それに気づかないタイプ?】 [My Opinion]

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【正義を掲げ、他人を誹謗中傷している人。それに気づかないタイプ?】

Twitterで1万フォローされているEさんのツイートをこのところ毎日、読ませてもらっている。日本国籍だが、フランス在住。いつも鋭い意見で感銘を受ける。が、そこに挙げ足取りや重箱の隅を突く、下らない質問や意見が常に寄せられる。Eさんは真面目な方のようで、その種の質問にもいつも答え、議論では打ち負かしているのが痛快だが、そのEさん曰く....

「フォロアーが3000人を超えた頃から、その種の人たちが増え、連日、やってくるようになった」

同感だ。僕の場合もFacebookで「友達」が2000人を超えたあたりから、ちょっとおかしな人からのコメントやダイレクトメッセージが来るようになった。Twitterなら名前も素性も分からないから、あれこれ書きやすいが、Facebookの場合は基本名前や顔写真まで出す。にも関わらず、おかしなコメントをしてくる人たちがいる。

以前に書いたが、イスラム国人質事件のとき。僕も意見を何度も記事にした。が、ネットで見つけた残酷な写真は使っていない。シェアするときも、その種の写真が使われていないか? 注意してシェアした。にも関わらず、こんなダイレクトメッセージが来た。

「Facebookは子供も見ます。パッと目に飛び込んで来ます。残酷な写真が掲載されいると、子供はショックを受け、心に傷がつきます。ですので、イスラム国関連の記事はアップしないでください」

?????? おかしい! まず、先にも書いた通り、残酷な写真を僕は掲載していない。次に、「Facebookは子供も見ます」というが、記事は「友達」にならないと見れない。僕の「友達」で未成年はいない。「パッと目に入る」という指摘もテレビならそうかもしれないが、Facebookの記事は自分で探し出さないと見つけられない。

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つまり、残酷な写真も使用せず。余程のことがないと子供が見ることができない僕の記事で、「子供がショックを受ける」ので「書かないでください」というのだ。大げさに言えば言論弾圧に繋がる発言。「****のことは書くな!」というのである。もし、僕の書く記事内容が不満なら「友達」を削除すればいい。あえて「記事をアップするな」と連絡してくるのは、常識に欠ける。何様?だ。と少しばかりイラついた。

「メッセージして来たのはどんな人なのか?」と調べてみると、40代の主婦。顔写真も出ているし、名前も偽名ではないようだ。タイムラインを見てもごく普通の主婦である。これまで、僕の記事に対して「いいね」もくれている。他人の記事に対してあれこれいちゃもんを付けるタイプではない。では、なぜ、そんな主婦が「記事をアップしないでください」なんて、非常識なことを要求して来たのか?

真相はこうだろう。その主婦は僕の記事を頻繁に読んでくれていた。賛同できる部分も多く、好感を持っていた。そんなとき、イスラム国事件。テレビでは放送されない残酷な写真がネットで流れた。それをアップするFacebook記事もある。そんな中、僕もイスラム国事件を記事にする。「ああ、監督まで、あんな残虐な事件のことを書いている」ーーーここで、その残虐な写真を確認せずに「きっと監督もあんな写真を掲載しているはずだ」と思い込んだ。

そして、Facebookの機能を忘れて「もし、子供が見たらショックを受ける」と考えた。子供が見る可能性は極めて低いのに、そう感じる。自分は毎日、監督の記事を読んでいる。子供で読んでいる人もいるだろうと思った。でも、Facebookは誰もが読めるメディアではない。そこも忘れる。「これはいけない。監督はそのことに気づいていない。教えて上げないと。悪い人ではないから、言えば気づいてくれるはずだ」そう考えたのだ。

しかし、それは大きなお世話であり、実際に起こりえないことを思い込み、「子供たちを守ろう」と責任感を感じてメッセージを送って来た。その主婦に悪意がないのは分かる。が、僕はその人には会ったこともなく、個人的にメールのやり取りをしたこともない。そんな人から急に「***の記事はアップするな」と言われても、理不尽な要求にしか思えない。まして、その主婦が指摘する写真は使用していない。「写真を使うな」ではなく「記事をアップするな」とまでいう。

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ただ、真相を探ると、大きな勘違いがある。どーしようか?それを説明する返事を出すのなら長い長い文章を書かねばならない。そして、その主婦がそんなことを言って来たのは自身が不快だからという訳ではなく、子供たちへの悪影響を懸念したからだ。悪い人ではない。ただ、思い込みと勘違いが激しい。それに僕は本業で忙しく、その人のために、時間を割くのはどうか?とも思えた。

考えた末に「説明しよう!」とFacebookを開くと、その人から「友達」削除されたあとだった。逆にほっとした。勘違いであれこれ指示してくるほど、気にいらないなら「削除」してくれる方がいい。だが、「友達」が2000人を超えた頃からこの種のタイプが出て来た。「監督のためだ!」「あなたは気づいていない」との思いで、いろんなことをコメントしたり、メッセージする人が結構いる。

ある時期は毎日のように、その種のコメントが書き込まれた。本人たちは「監督のため」と思っているようだが、僕が実際にお会いした人はほとんどいない。僕のことをどれだけ知っているというのか? そして相手の素性を確認すると、年齢も仕事も、住んでいる場所も書かれていない人もいる。覆面をかぶった謎の人物からのお説教と同じ。それを受け入れることはできない。そもそも、意見のほとんどが当て外れ。先の主婦と同じパターン。先方は親切のつもりだろうが、こちらからすると中傷、嫌がらせになっている。

繰り返すが,彼らに悪意はなく、むしろ親切なよい人たちなのが心苦しい。むしろ応援してくれている。心配してくれている。しかし、結果、そうはなっておらず、好意が好意にはならない。先の主婦も「この監督は駄目だわ。せっかく好意でいって上げたのに分からないみたいね」そう思って「友達」を削除したのだろう。悲しい構図といえる。が、僕はその1人1人に誤解を解き、説明する時間はない。悪意がないと分かっても、執拗にその種のコメントをしてくるのならこちらから「削除」せねばならなくなる。

今回の結論。人に指示、苦情を言う前に自分は本当に正しいのか? 自分は人に意見する立場か? そして相手は確実に間違っているのか? あらゆる視点で検討した上で、進言、行動するべきということ。でないと、それは単なる妨害行為となり、人を傷つけるだけの結果となる。ある種の人たちだけではなく、考えたい部分だ。


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【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】 [My Opinion]

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【「目薬を使ってはいけない」と意味不明のコメントが来た。その背景を探る?】

以前、こんなコメントが書き込まれた。「目薬を使ってはいけない」ただ、それだけ。その理由は書かれていない。昨年、目の手術をしたあとに、化膿止めとして渡された目薬のことを記事にしたときのことだ。こんなのもある。「そんな食品を食べない方がいい。あなたの健康を損ないますよ」似たようなパターンは多い。

これらをコメントした人たちの気持ちを推察すると、「目薬はいけない」=>危険だ=>医学的にも言われることだ=>そのことを知らない=>教えてあげないと=>「そうだ。それが親切というものだ」そんなふうな思いからコメントしたのだろう。

しかし、この人は大いなる思い込みがあり、手順、そして状況を理解していない。例えば、この人が医薬関係に精通していて、それは友人間ではよく知られている場合は、よく知る友達が目薬を多用しているのを見て「目薬を使ってはいけない」と言えば、その友達も「彼がいうのなら、そうかもしれない....」と思い、止めるかもしれない。

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ところが、Facebookにそんなことをコメントすると、どうなるのか? その人が医薬品に詳しいか?どうか? 僕は知らない。もしかして、その人の「基本データ」を読めば、「薬剤師」「医薬メーカーに勤務」と書かれているかもしれない。だとしても、それをいちいち読まない。そんな人からいきなり「目薬を使ってはいけない」と言われても????と思うだけだ。

Facebook友達ではあるが、コメントをくれたのは初めて。何よりコメント文章が不親切だ。もし、その人が僕の映画のファンで「監督の健康が心配だ」と思っていたとして、さらに医薬メーカーに勤務して、目薬の弊害に詳しくて「監督のためにも進言しよう」と思ったとする。だが、それでは伝わらない。その背景を飛ばして「目薬を使ってはいけない」とだけコメントして来ても、単なるヘンなヤツとしか思えないからだ。

何より「使ってはいけない」という命令形でコメントしてくることに違和感を持つ。さらに言えば、僕の記事を読んでいないことは明白。通常の目薬は確かに問題があり、効果がないことがよく指摘される。僕自身も眼科で医師から「市販の目薬を使うくらいなら水で目を洗う方がいい」と言われたこともある。

だが、記事を読めば手術直後であり、化膿止めの薬であると分かる。季節は夏。もし、傷が可能したら大変ことになる。何より通常の目薬とは違う。化膿止めなのだ。もし、それでも「使ってはいけない」というのなら、それなりの理由を提示すべき。なのに「使ってはいけない」とコメントするのは、記事を読まず「目薬さして寝ます」というタイトルだけを見て「あー目薬ってよくないんだよなー知らないのかなーこの人? 教えてあげなきゃ」というレベルでコメントしたと思える。

けど、もし、この人が知識豊富で何らかの理由で化膿止めでも危険と伝えたのであれば、親切心でコメントしようというのであれば、そこからまず説明するべきなのである。でないと「怪しいヤツ」「偉そうなヤツ」という印象しか持たれない。目薬だけではない。2番目の「そんな食品を食べるべきではない」も同じ。

そんなコメントを現実に親しい訳ではないFacebook友達に書き込まれるのは、例えればレストランでとなり合わせた客から「それ食べない方がいいよ」と注意されるのと大差はない。親切とは思われず、むしろ嫌がらせ。頭のおかしなヤツということになってしまう。


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目薬や食品だけではない。放射能についても、原発についてお、安保法案も、集団的自衛権も、TTPも、教育問題も、全て同じ。もし、相手が無知だったり、間違った知識を持っていたとして、自分が詳しくても、よほど親しい友人でなければ、先の人たちのような説明不足のコメントをしても、嫌がられこそすれ、喜ばれることはない。もし、コメントするなら、自分がいかにその分野に詳しいか?を説明。さらに、その人に対してどんな思いを抱いているか? 「応援している」「心配している」だからこそ、あえてコメントしたことを伝えなければ嫌がられるだけだ。

そんなことは当然なのだが、その種の人が多い。それはなぜか? というと、多くの人が「Facebook友達」になると、それは「現実の友達」とイーコールだと勘違いしてしまうから。友達承認をされれば、もう友達になったと思い込むからだ。考えてほしい。現実だって、誰かと知り合っても、そこからスタートで、様々な会話をし、行動を共にし、いろんなことが分かってきてこそ。アドバイスができたり。また、相手の助言を聞くようになる。

つまりFacebook友達の「承認」は友達関係をスタートという意味であり。「友達」になったということではない。にも関わらず、自分のことを相手が何も知らないのに「目薬を使ってはいけない」などとコメントする。本人は親切のつもり。だから、コメントを削除されたり、返事がないと、ムカつく。「親切で言っているのに、何てヤツだ!」と思う。が、問題はコメントした側なのだ。互いのことを知らないのに、コミニュケーションもほとんどないのに、アドバイスをするからだ。

せめて、自分がなぜ、目薬に対してこだわるのか? なぜ、わざわざコメントしたのか? その辺の理由を詳しく書くべき。同様にこんな問い合わせも良く来る。「友達承認」をしたとたんに「映画はどこで観れますか?」とか「何時から上映ですか?」「俳優の***さんってどんなですか?」尋ねて来る人がいる。


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それらも同じ。「承認」したからと、友達になった訳ではない。それを現実の、それも5年10年の付き合いがある友達関係だと勝手に解釈しているので、そんなことが言える。それは仕事で名刺交換したばかりの人に電話して「あなたが建設したビル。いつオープンするんだっけ?」「君が仕事したA社って、どんな感じの会社?」と訊くようなものだ。

それらを聞くには、仕事で何度も行動し、互いのことが分かって来て、ちょっとしたときに、仕事の合間に世間話と聞くなら許されるだろう。けど、名刺交換の翌日に電話やメールで尋ねて来られても「お前は誰じゃ?」「何でそんなこと教えなきゃならん!」となる。なのに、ネット上ではそれが分からなくなり、勘違いする人が多い。

僕は当初、おかしなコメントがあっても、相手の背景を考え、対応を考えた。が、何の役にも立たない助言や無礼な提言に対して、いちいち説明したり、返事をする時間がもったいなく思えて来た。なので「大きなお世話」「読んでて不快」というとき。第三者が読んで誤解するというときは即、削除することにした。

一部の人かとは思うが、たぶん、彼らは現実の中では良識を持ち、行動しているはず。にも関わらず、なぜ、ネットとなると、暴走してしまうのか? 常識や礼儀を忘れて、勘違いなことをしてしまうのだろう? どこかで、人とコミュニケーションしているのではなく、パソコンと会話している気分になっているのかもしれない。機械と対話している感じ? でも、機械を通して人と会話。人に意思伝達をしている。それをどこかで勘違いしてしまうように思える。


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「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある [My Opinion]

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【「若いのに頭固いな〜」と撮影現場で思うことがある】

「何でそんな古い発想しかできないんだ?」と年下のスタッフを見てイライラすることが時々ある。が、よく考えてみると、そのスタッフは僕よりは若いがもう40代。決して若くはなく、もうオジさんと呼ばれる年代。そういえば昔、ある人から言われて「へーーそうだよなあ」と思った言葉がある。

「10代は新しいことを当然のように吸収する。20代はちょっと努力がいる。30代はかなり苦戦する。40代は拒否して、そんなものは必要ない!といい出す….」

これは当時、僕のまわりにいる人たちを見ても納得したものだ。例えば、ヒット中の歌謡曲があったとして、10代は皆知ってる。20代は「CMでかかってるやつね?」といい、30代は「今度、チェックしておく」40代「そんな歌知らなくても、困らないんだよ!」と怒り出す。要は、歳と共に脳が老化して、新しい情報を受け入れにくくなっているということなのだ。スティーブン・ジョブスが若い頃にいった言葉でも、思い出すものがある。

「体験は人を助ける。いろんな経験をすることが人生を助ける。でも、経験はレコードに溝を彫って歌を記録するのと同じで、一度記録すると消すことができず、その後もそれの経験に縛られてしまう。それが結構、やっかいなんだ」

僕が20歳ころのインタビューで読んだので、もう30年以上前。当時、僕は深く意味を理解していなかったが、次第にその意味が体験を通じて理解して行く。そう、一度、経験したこと。教えられたことを人は繰り返し。新しい方法論が出て来ても、それが受け入れられないのだ。映画の撮影現場ではそれが顕著に分かる。古い監督はフィルムにこだわり、ビデオとかハイビジョンを毛嫌いした。

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しかし、ビデオの方が遥かに安上がり、現像代もプリント代もいらない。撮ってすぐに再生できる。編集も楽。なのに、古い監督たちはフィルムがいい!と譲らない。もちろん、クオリティはまだまだフィルムの方が上で、最近の4Kカメラになって、ようやく追いついて来た程度。

だが、いろんな面を考えると、ハイビジョンはとても便利。そう説明しても、古い映画人は「やっぱ映画はフィルムなんだよ!」と言い張っていた。フィルムだけではない。演出、撮影、編集等の方法論も伝統的なやり方を重んじて、新しい方法論を持ち出すと、「どちらがいいか?」ではなく、「それは邪道だ」「映画はそんなやり方はしない」という、もう絶対的な思い込みがあり、新しい方法論を否定していた。そして誰一人として、新しい方法論に「時間の短縮」「製作費の有効活用」等の利点に対して、論理的に答えるものはなく、「映画はそれじゃ駄目なんだよ!」と意味の分からぬ反論。それも感情的になることが多かった。

要はそういうことではなく、昔から使っている慣れ親しんだフィルムで仕事をしたい。新しい技術を学ぶのは嫌….ということ。先の友人の言葉でいうと「40代は拒否する」というやつなのだ。今ではフィルムで撮影する日本映画は1年に1−2本。フィルムで撮りたいなんていったら、会社に「何考えてんだ!」と怒られてしまう。そんなふうに近年の映画界は新しいもの、新しい方法論を受け入れないと仕事もできない。生き残ることもできない状態になってきた。にも関わらず、僕より若いスタッフ。

といっても40代が撮影でも、演出でも、編集でも古い価値観を振り回すヤツがいる。そして、歳取った先輩たちと同じようなことをいい、頑になる。何で? 若いのに? と思っていたら、実は彼らを育てた先輩たち、或いは彼らが長年仕事をした先輩というのが、結構、高齢の人で、もちろん、僕よりずっと上であることが分かる。つまり、僕が「この人頭古いなあ」と思っていた先輩たちから直に、映画技術を教わった世代なのだ。その先輩たちから伝授される技術、方法論こそが「映画作り」と若い頃から思い仕事をしてきた。ジョブスのいう「一度、刻まれた記憶は消せない」ということなのである。

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そのため、若いのに古い価値観をふりまわし、現場の進行を阻害するのだ。僕より上の世代。古い価値観を振り回す先輩たちが近年、どんどん引退して、ようやく自由にやれるようになって来たなあーと感じていたのに、次世代に同じ古い価値観を振り回すタイプがいようとは、思いもせず困惑することがある。基本、映画というのは各パートで、上の人に師事して勉強しながら仕事をする。だから、先のようなタイプも出て来るのだ。監督業も昔は、助監督システムで、ベテラン監督に師事。10年ほど助監督をしてから、監督になったのだが、今は助監督経験なしに、自主映画等を経験して、いきなり監督ということがほとんどだ。

僕もそんなコースで監督になったので、古いベテラン監督を見て、演出を学んだ訳ではなく、8ミリ映画で実践。自分なりにあれこれ考えて、或いは聞いた話や読んだ巨匠のエピソードから学んだ方法論で演出する。そのために、ベテランの方々観ると「何だあれは? 映画の作り方じゃねえなあ。駄目だ。ありゃ。うるさくいってやんないと、ろくなものが作れねえよ」と思い、あれこれうるさく言われたのである。だが、彼らの主張する王道、伝統的な映画製作では、これまでと同じ、よくあるタイプの映画しか作れない。

おまけに、製作費、撮影期間はどんどん削減されて、旧き良き時代の映画作りとは同じ条件で製作はできないのだ。にも関わらず、お金も時間もないのに、古い価値観で映画を作るので、過去の作品以上のものができない。それに気づかず、古いやり方を繰り返していた。そこで、僕は自主映画時代に試行錯誤して体得した時間も製作費も節約しながら、クオリティを上げる方法論を実践したのだが、多くのベテランスタッフらの逆鱗に触れ、よく説教されたものである。


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でも、それがいよいよフィルムが使われなくなり、編集もノンリニアしかなくなり、あらゆる意味でデジタル化が進んで今日では、過去のやり方が実践できなくなってきた。むしろ、僕がやってきた新しいスタイルを使う若手監督も増え(別に僕が開発した訳ではない、ハリウッドスタイルと自主映画のいいとこ取りの方法論だ)そちらが、マジョリティになって来た訳である。また、「邪道」といわれ「これじゃロクな映画にならない」といわれた僕の映画が彼らの不安に反して観客から高く評価され、彼ら自身も認めざるを得ない完成度になったことから、次第にうるさくいう先輩たちもいなくなった。

それでも次世代にその先輩たちの価値観を引き継いだ人たちもいるのだが、こうして新しい時代がやって来ることを感じる。次は僕のやり方が古くなり、さらに下の世代から「太田監督は古いんだよな〜」と言われるようになり、疎まれる時代が来るのだろう。いずれにしても、伝統も大事だが、時代の移り変わる中で大切なのは、その時代に相応しい方法論を使うことだ。映画だけではない。ビジネスでも、音楽でも、演劇でも、公共事業でも、コンピューター産業でも同じはずだ。

それを妨げるものこそ、実は人の老化。脳の老化なのだ。新しいものが受け入れられないということは、時代から振り落とされることでもある。昔はそのスピードがゆるやかだったが、今はもの凄い早さで時代が進む。昔は歳を取れば威張ってられたが、これからは若い人の方が時代を生抜ける力があるということ。その中間の世代はこれから大変な思いをするだろう。もちろん、僕を含めて。

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【勉強のためにテレビを見なければいけないのに....スプリングスティーンを聴いてしまう理由?】 [My Opinion]

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【勉強のためにテレビを見なければいけないのに....スプリングスティーンを聴いてしまう理由?】

先にも書いたが、4年間休みなしに走り続けて来たので、世間が分からなくなっている。てっとり早く取り戻すにはテレビを見ることだ。子供の頃は親から「テレビばかり見ていると馬鹿になる」と言われるほど、テレビを見ていたけど、いつからかテレビを見なくなった。というのは、最近のテレビは面白くないからだ。それでもテレビを見ることは時代を感じることができるので有効。

また、映画の仕事をしているのなら映像表現であるテレビを見ることは本来なら大切。業界の先輩でも家にいる間中、テレビを付けっぱなしにして、映画チャンネルを流している。小説家の知人も呆れるような下らないテレビ番組でも見ている。それはとても大切なことで、作家は表現するばかりでは駄目。供給が大事。その意味でテレビは手軽な供給源なのだ。

それが分かっていても、テレビを見るのは努力がいる。ここしばらく、午前の「向日葵」情報発信のときに、テレビを付けっぱなしにしているのだけど、夜になると、やはりテレビより音楽が聴きたくなる。そう。今もこの記事を書きながらiPodで音楽を流している。映画監督業なのに、テレビ=映像より音楽が好きなのだ。

仕事を終えて、そろそろ一杯....というと、カタギの友人たちは野球やお笑い番組を見ながらビール!というが、僕は音楽を聴きながら一杯がいい。昨夜はB・スプリングスティーン。一昨日はマディ・ウォータース。今夜はライトニング・ホプキンズとか。音楽が酒の肴。新しい曲を聴きながら、懐かしい曲に触れながら、あれこれ考えるのが好き。

考えると、中学時代から、起きている間はずっとラジカセで音楽を流していた。外出時はウォークマン。今はiPadに音楽が入っているので、ヘッドホンを持って行けばOK。何で、映画屋なのに、音楽が好きなのか? ま、だから、監督した映画の音楽はもの凄く力を入れる。どーも、日本映画って音楽に対する扱いが低くて、昔から不満だった。

自主映画時代も同世代で音楽に強い関心のある奴は少なかった。皆、映画はよく見ているが、音楽はそこそこ。「何聴くの?」と訊いても「何でも」と言われる。それは何でも聴くというより、特に関心がないという意味だ。「***のレコードは全部持っている!」とか「****のライブは必ず行く」という奴はほとんどいなかった。

映画監督業を始めてからも、「スプリングスティーンのファンだ!」とか、「ストーンズは今回も行った」とかいう監督には会ったことがない。先輩たちも「村上春樹は読んだか?」とか「芥川龍之介は読んだ方がいいぞ!」とはいうが「ピンクフロイドは聴いているか?」とか「フーの『四重人格』は聴いたか?」という人はいなかった。

いや、もしかしたら、僕の方がおかしいのかも? 本来は音楽業界に行っくべきなのに、映画界に来てしまったのかも? そういえば、高校時代にギターを練習していて、Fのコードが弾けなくて挫折した。情けない。音楽業界は無理。でも、8ミリカメラはコードないから、誰でも使えた!?

そんなこんなで、一番影響を受けたアーティストと訊かれると通常は黒澤明とか、スタンリーキューブリックと監督たちは答えるのだけど、僕は「B・スプリングスティーン」とか言ってしまう。けど、彼の音楽を知っている人は「なるほど」というのだが、映画ファンは「????」となる。ははは、とりあえず、今宵はブルースの昔の曲を聴きながら、焼酎を飲むことにする。


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【夜空を見上げながら考える。幸せはどこにあるのか?】 [My Opinion]

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【夜空を見上げながら考える。幸せはどこにあるのか?】

「幸せって何だろう? どこにあるんだろう?」それが今の僕のテーマだ。前作「朝日のあたる家」あたりから、それを探している。その答えはなかなか見つからず、「向日葵の丘」でそのひとつを提示したが、今もなお答えを探し続けている。

金持ちになることか? それだけではないと思う。ただ、お金は生きて行く上で必要だ。必要だが、それに執着すると大切なものをなくしてしまう。友人の1人はかなり稼いでいるが、長時間労働。家に帰ると最愛の幼い娘はすでに寝ており、朝は友人より早く小学校に行ってしまう。

たまの日曜日は、彼自身が疲れ切っていて昼まで寝ている。娘と過ごせる時間は本当に僅かなのだ。それもそれでひとつの幸せかもしれないが、彼は仕事を減らしてでも娘と過ごす時間がほしいという。ただ、仕事がそれを許さない...。

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「有名になりたい!」という友人もいた。「俳優になって、スターになって、有名女優と結婚したい」といっていた。結局、それは適わなかったが、有名になった俳優を見ていても幸せ感がない。皆が笑顔で寄って来る。誰が本当の友達か?分からないという。プライベートにどんどん入り込んでくる人たちがいる。もう、放って置いてほしいと嘆く。

「自分がやりたい仕事をすること」という友人もいる。彼はミュージシャンを目指していたが、挫折。故郷に帰り就職した。友人はいう「太田がうらやましい。お前は映画監督になりたいといい、本当になった。ラッキーな奴だ」でも、羨ましがられるほどのものではない。映画は毎年撮れる訳ではない。

仕事がないからと、昔のようにアルバイトもできない。50歳を過ぎて何をすればいいのか? 日本の監督業は過酷。ハリウッド監督のように金持ちには絶対なれない。退職金もない。家も買えない。いや、結婚すらできない。好きでやっているのだが、幸せ感はない。

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つまり、夢は適えばハッピーだが、監督になることは目標へのスタート地点。「監督になれて嬉しい!」ということではない。作った映画を見て観客がハッピーになるーそこで始めて僕の「思い」が果たされる。

そこが大事なのだ。職業として監督になることが夢を果たしたことにはならない。そうなると、観客が感動してくれる、どんな映画を作るか?が次のテーマになる。そのテーマこそが「幸せとは何か?」となのだ。

結婚して愛する人と生活することか? 子供の成長を楽しみに生きることか? 理解ある友人たちがいることか? 仕事の上で素晴らしい仲間がいることか? しかし、人は変わり、妬み、堕落して行く。詰まらぬことで争い、批判し合い、下らない優越感をひけらかす。

何を信じて、何を掲げればいいのか? 時代の風が吹き始めている。その風はどこに行こうとしているのか? 流れる夜空を見ながら、その答えを探している...。

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テレビ見てたらバカになる。でも見ないと世間からズレてしまう?! [My Opinion]

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テレビ見てたらバカになる。でも見ないと世間からズレてしまう?!

これまでは集中するために仕事場で、パソコンに向かい「向日葵」情報の発信をしていた。が、毎朝4時間。発信ばかりで吸収できない。映画監督業は「吸収」こそ大切。なのに、この8ヶ月ほど何もできていない! そこでテレビの前にノートパソコンを持って来て、そこで作業。フランス同時多発テロのニュースを見ながら、Facebook等を書く。記事の場合は集中しないと書けない。でも、映画館情報や撮影風景の写真のアップならニュース番組を見ながらでもできる。

子供の頃はよく大人から「テレビばかり見ていると馬鹿になる」と言われたが、大人になりテレビを見る時間がなくなると、世の中の動きが分からなくなるという弊害があることを痛感した。確かにテレビ報道をそのまま受け止めていると、とんでもないことになるが(情報操作や嘘。誘導が多い。そして、見る者に考えるということをさせなくする効果も強い)全く見ないと、今日本で何が起こり、何が問題になっているのか? が分からなくなる。

もちろん、ネットのニュース等は見るので多少は分かるのだけど、やはり映像による報道は分かりやすい。ネットも動画があるが、まだまだ文章。その場合は記者の主観が入るし、社の方針もある。もちろん、映像も細工したり、印象を変える編集をすることができるのは仕事柄、理解している。だとしても、ネットだけの報道を信じていると世間は見えて来ない。

報道だけではない。ドラマでも、バラエティでも、ほんと見ていると馬鹿になるような番組が多いが、そこからもいろんなことが見えて来る。レギュラーで出ているタレントや俳優が誰なのか? なぜ、人気があるのか? その背景はなにか? と考えると、そこからも世間が見えて来る。

そんなふうにテレビを見ることも大事なのだが、文章は速読できるが、テレビは録画して早送りで見ても分からない! 1時間のドラマは見るのに1時間かかる。ということで、どこでもスマホで見れるネットニュースは見れても、テレビ報道はなかなか見れない。ましてドラマやバラエティはもっと見れない。

新聞なら持ち運べる?と思ったが、それも駄目だった。そのくらい、この8ヶ月ほど忙しく。世間の流れが分からなくなっていた。「NEWS23」だけは毎晩、録画して、時間があるとまとめて見ていていたが、ひとつの局のひとつの番組だけでは、全体像は分からない。いろんな局も見て比べることも大事なのだ。

そんな訳で社会復帰するために、テレビを見なければと思いつつ。まだ、昼過ぎまでパソコンに向かう生活が続いている。そこでテレビの前にパソコンを置き、作業することを思いついた。もっと、早くやればよかったんだけど、長い記事を書くのは「ながら」じゃできないからなあ〜。ということで、本日は4時間かけず。早めに切り上げる。

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有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか? [My Opinion]

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【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】

学生時代。有名人と交流があることをやたら自慢する奴がいた。「俳優の**さんと知り合いだ」「***監督の家に呼ばれた」「***さんとはもう1年以上の付き合い」でも、ほとんどが嘘。ただ、完璧な嘘ではなく、付き合いはないが会ったことがあるとか、同じ会場にいたとか、1%は事実。そこから妄想(?)が始まり「会ったことがある」=>「友達だ」と思い込んでしまうタイプのようだ。

なぜ、彼はそんなすぐにバレる嘘を付くのか? それは子供が友達の気を引きたくて「うちには外車がある」とか「****のおもちゃがある」と嘘をつくのと似ている。注目を集めたい。尊敬されたい。そんな子供と同じ。もっというと、嘘というのは努力せずに、関心を集めることができる。楽して注目されたい!という思いが根底にあり。友人はまさしく、そんなタイプだった。

ただ、彼はもう学生だったので、「おもちゃがある」とか「家に外車がある」ではなく、「有名人と知り合い」という手を使う。なぜか? 有名人と知り合いであることが自慢になるのか? 僕は10代からそう思っていたが、結構、有効な手であること。のちのち分かって来る。例えば、友人が「有名な映画監督の***さんと交流がある。お世話になっている」と言えば、皆「へーーー」という。つまり、友人は何らかの素質や実力が認められたからこそ、面倒を見てもらっていると解釈するからだ。

しかし、有名タレントの場合はどうだ? 「人気俳優の***と友達だ」といっても、それはたまたま友達!と思うのだが、多くの人は「へーーー」という。それで何のメリットがあるというのだ? 大手企業の社長を知っているというのなら、就職に有利とかあるが、人気俳優が友達で何の得があるの? なのに、多くの人は「あいつは有名人と友達。あいつは凄い奴だ!」という評価になるようだ。

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その解釈はおかしい! 例えるとこういうことだろうか? 友人は有名なデザイナー***さんと友達=>***さんは世界的に有名な人=>その人と付き合えるのは、友人もそれなりの人間だということ=>だから凄い。

そんなふうに多くのは人は「有名人」が友達だと、「その人も同じくらに凄い人だと解釈」するのだろう。ただ、あとになり嘘だと分かり友人は顰蹙を買い、尊敬されるどころか、さらに馬鹿にされるようになるのだが...。

最近、その友人を思い出すことが多い。以前にも書いたが、有名俳優と仕事をしたことで、多くの人が「凄い」と言ってくれる。凄いのは俳優の方であり、僕ではない。僕は単なる監督。でも、多くの人が「あんな有名な俳優が出てくれるんだから、凄い監督だ」といってくれる。ありがたいことだが、本来は「素晴らしい映画を撮った監督」=>だから「凄い!」というのが正解。それより、有名俳優と仕事したから「凄い」になる。

逆に、批判の対象にもなる。「偉そうに有名俳優と仕事をしやがって!」という業界の先輩がいる。「有名俳優と仕事してから、態度がデカくなった!」と批判する一般の人もいる。が、その人たちの背景を考えれば理由が分かる。先の先輩は低予算映画しか監督できず、有名俳優は出演してくれない。嫉妬した。でも、「悔しい」とは言わずに「偉そうに」と表現。「お前ごときが有名俳優と仕事をするな。100年早い。まず、オレが先!」という上から目線の言葉なのだ。


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後者は以前、僕の撮影のお手伝いをしてくれた方。今回は来れなかった。つまり、有名俳優の撮影現場に参加してない。だから、特に連絡もしない。それを「以前は面倒を見てやったのに、今回は何の挨拶もない。有名人と仕事をして調子に乗っているんだ」と解釈した。だが、間違っている。今回、お手伝いしてくれた人は100人を超える。その1人1人にだって連絡はできない。まして参加していない100人を超える人に連絡する余裕はない。

その人は「今回の撮影を手伝いにいけば、有名俳優に会えたのになあ〜」という悔しさがあったのだろう。その気持ちをストレートに表現すると惨めなので「挨拶に来ない」「連絡がない」「以前は面倒みたのに」という理由をつけて「態度がでかくなった。有名人と仕事をして調子に乗っている」と歪んだ解釈をしたのだ。

この2つのタイプに言えるのも「有名人好き」ということ。自分も有名人と関わりたかった。会いたかった。話をしたかった。という強い思いがあることが背景だ。彼らは決して特別な人ではない。悪意もなく、善良の人たち。でも、有名人が絡むと嫉妬し、悔しさを批判に変えて批判する。それほど有名人というのは、魅力的な存在なのだろう。だから、学生時代の友人は有名人と交流があると嘘をついて関心を集めたのだ。

僕はちょっと欠落したところがあり、昔から有名人に特別強い興味がなかった。それゆえ、有名人自慢する友達の気持ちが分からなかったのだが、最近はそれを痛感している。

この業界で仕事をするようになり、有名な俳優、巨匠、アーティストと何度も仕事させてもらった。有名な人たちは確かに凄い。魅力的だし、学ぶことが多い。だからこそ、有名になったのだが、多くは「あの人の実力は凄い」という評価でなく、「あの人は有名」=>だから凄い!になっているような気がする。有名とは何か? なぜ、人は有名人に惹かれるのか? あれこれ考えることが多い。

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【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう?  そして大切なことを見失っているのではないか?】 [My Opinion]

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【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう? 
そして大切なことを見失っているのではないか?】

ここ数ヶ月。忙しくて食事の時間も取れないことが多かった。移動中にコンビニで菓子パンを買って歩きながら食べるということが何度もあった。先日、カレーパンを食べながら歩いると、80歳前後の腰の曲がったおばあちゃんが前方からやってきた。僕の前で立ち止まり、笑顔でこちらを見てこういった。

「パン食べてるの?」

会ったこともない人だし、ちょっと不審に思ったがお年寄りだし、答えた。

「はい…..」

すると、そのおばあさんは急に険しい顔をしてこういう。

「だから、そんなに太るんのよ!」

と言って立ち去って行った。何なんだ? あの婆さんは????? 想像するにお婆さんは「この人は座らずに食事をしている」と思った。しかし、僕が座って食事をする時間がないとは考えない。座って食事をするだけでなく、歩いているときも食べていると考えた=>賎しい=>だから太るんだ=>一言いってやろう!という理屈だったのだろう。だとしても、見知らぬ他人にそんなことをいうだろうか?

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と思っていると、自転車に乗ったおばさんが通りかかり、目の前で止まる。「あんた。あの人知ってるの?」そう聞かれた。「いいえ。今、会ったばかり….」そういうと、おばさんは「あの人。町内でも有名なのよ…」といい、ため息をつくと自転車を漕ぎ去って行った。

何なんだ??? 想像するに、あのお婆さんは見知らぬ他人にやたら話かけては、あれこれ顰蹙を買うことをいうことで有名な人なのだろう。耄碌しているのかもしれない。

詳しいことは分からないが、耄碌したから見知らぬ人にまで余計なことをいうのか? 或いは耄碌したから思ったことを誰彼構わずにいってしまうのか? どちらかだろう。しかし、近所のおばさんたちの立ち話を聞いていても、「**さんがどうした」とか人の噂や批判ばかりしている。基本、人は他人のことをあれこれ言うのが好きなのだろう。

Facebookでも同じ。僕が書いた記事に対して、あれこれ首を傾げるコメントを書き込んでくる人たちがいる。「目の手術をしたので化膿止めのため毎日、目薬をささねばならない」と書くと、こんなコメント。

「オレ、目薬嫌いなんだよね〜」

ーはあ? あんたに目薬させとは言っていない!或いはこんなの

「目薬はいけない!さしては駄目だ」

これは一般の目薬についてよく言われることなので意味は分かる。が、記事を読めば手術後の化膿止めであることは分かる。が、その人は文章を読まず、「目薬をさした」という部分だけ見て「駄目だ」とコメントしたのだ。

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2人ともFacebook友達ではあるが、面識はない。ネット上で会話したこともない。なぜ、親しくもない相手にあれこれ注意を促したり、必要のないことを言って来るのか?何度も紹介したが、こんなコメントも以前は山のように来た。

「野菜が足りませんよ!」

「もっと運動した方がいいですよ」

「タンパク質が足りませんよ」

—大きなお世話だ! もちろん、僕の健康を気にしてくれているのは分かる。が、当時も多忙で野菜を食べる余裕なんてない。駅そばがランチてなことが多かった。そんな事情も説明しているのに「野菜が足りません」「サラダを食べましょう!」と連日コメント。「品川駅のどこでサラダ食えるか教えてくれ!!」といいたくなる。会ったこともない人たちが毎日のように、そんなことを書き込むので、一時期「プライベートなことは今後書かない!」と宣言したこともある。

僕が監督したある映画がDVD化される予定はない、と記事に書いたときもそうだった。何十人もが「だったら、***に頼むといいですよ」「台湾で作ると安くできますよ」といろんなアイディアが寄せられた。が、それらのコメントは100%当て外れ。

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何より、DVDのプレスができないと書いたのではなく、メーカーから発売できないという旨を伝えたのに、「資金がないからプレスできない」と勘違い。おまけにコメントをくれた全員が業界の人ではなく、「よく分かりませんが***社に頼んだらどーですか?」とか自分の知らない分野のことに、あれこれコメントしていた。

これも「親切」「好意」と解釈することはできる。が、自分の知らないこと。専門外のことを想像でアドバイスすることに意味があるだろうか? その上、アイディアを募集した訳でない。さらには記事の意味を理解していない。問題点ではないことにコメントする。決して悪い人たちではない。少しでも知恵をしぼって助けになれば!という思いで書いてくれたのだとは思う。が、同時に、他人のことを、専門分野でもないのに、あれこれ言いたくなる人の心理が働いてはいないか?

つまり、先のお婆さんも、近所のおばさんも、Facebook友達も皆、同じで、自分がよく知らない人に対しても、あれこれ口出ししたい!という思いがとても強いのだ。それを指摘すると「親切で言って上げてるのに失礼な!」と怒り出したり「だったら勝手にしろ!」と逆切れされたり。意味が分からない。

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なぜ、人はあれこれ他人のことに口出しするのか? 困ってもいない人にアドバイスしたがるのか? 専門外なことまで分かったようなことを言いたがるのか?映画の世界で仕事をしだしてからも、飲み会に行くと、人の噂話しかしない会が多い。

「***監督は才能ないのに何で毎年撮るんだ?」

「役者の***はもう駄目だ。仕事がなくなるよ!」

とか、そんなことばかりいう飲み会が結構あって、近年は忘年会にも出ない。成功している人や失敗した人たちの仕事ぶりを分析、自分のプラスに繋げるのならいい。が、あれこれ聞きかじったことを、あれこれ批判していても何のプラスにもならないと思うのだが……、

ふと気づくとFacebookも似たような一面のある世界だと思える。一時に比べて、その手のコメントは激減したが、僕自身もその手の人たちの輪の中に陥っているのではないか? と思うことがある。

大切なのは何か? 日常に忙殺され、自分を顧みる余裕もなく。隣の芝生をうらやみ、嫉妬して、批判し、否定することだろうか? そうやって憂さを晴らすことではないはずだ。大切なことは何か? それを考えなければならない。

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「有名になっても謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ」という人。その裏にある歪んだ構図? [My Opinion]

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【「有名になっても謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ」という人。その裏にある歪んだ構図?】

何年も前だが、あるお仕事でご一緒した年配の男性Kさん。昔はラジオの仕事をしていて、いろんな人をゲストに迎えて番組を作ったという。その顔ぶれを聞くと凄い。時代を築いた有名人たちがズラズラ。「凄いですね〜」というと、Kさんは「いやー、たまたまですよ」と満面の笑顔で答え、有名人たちとの交友関係をいろいろと話してくれた。

「ただ、その後に歌手の****さんがレコード売れてブレイクするとねー」と視線を落とす。「番組に来てもらったときは、とても謙虚でいい青年だったのに、二度目に会ったときは尊大な態度で、上から目線。有名になると人は変わるんですよね〜。太田監督が有名になっても、謙虚でいてくださいね。人は謙虚が一番ですよ....」

「有名になると態度がでかくなる」という話はたまに聞く。人はやはり変わるものなのか? だが、その後、Kさんを紹介してくれた友人から、こんな話を聞いた。「彼は有名俳優の***さんと親しいというので、仕事でオファーするので紹介してほしいといったんだ。でも、何かはっきりと返事してくれなくて、直接、事務所に電話してKさんの名前出したら、そんな人は知らないって言われてさあ」????どういうことか?友人は続ける。

「Kさんに会ったときに詳しく聞くと、どーも、彼はその俳優と親しい訳ではないんだ。一度、番組に来ただけ。Kさんは今、フリーでラジオ局も辞めているし、自分が凄いことを伝えるために、有名人と知り合いと言ってるだけみたいなんだ....」

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そこから彼の事情が見えて来た。レコードが売れてブレイクした歌手が尊大な態度になっていたというのも、実は相手がKさんを覚えていなかっただけではないか? 番組にくれば宣伝になるので、低姿勢で、気を使い会話する。でも、その番組のパーソナリティやディレクターの1人1人をアーティストは覚えていない。もの凄い数の番組に出演するからだ。そんな1人であるKさんが、局の廊下でそのアーティストに声をかける。当然、覚えていない。愛想のない対応をされた。それをKさん。こう解釈した。

「レコードが売れたので、態度がでかくなった!」

次第にKさんは有名人好きで有名だと分かって来た。親しくもない人と親しいと思い込んでいたり。いろいろトラブルを起こしているらしい。が、今回の要点はそこではない。「そのアーティストは有名になったから尊大になったのだろうか?」という点。もちろん、そんな人もいるだろう。ただ、僕自身が最近感じているあることと関連する。今回の「向日葵の丘」もの凄く評判がいい。大物俳優もたくさん出ている。

「監督、凄いですねー!」

と言われる。でも、僕が凄いのではなく、俳優たちが実力派揃いで凄いのだ。なのに、多くの人は僕を褒めてくれる。これは危ない。一般の人は「有名俳優が出ている=凄い」という発想を持ってしまう。だが、監督は映画の中身を作る人。「感動的な映画」=>「この監督は凄い」はいいか、先の「有名俳優が出ている」=>「凄い」は違うのだ。

それを勘違いして「オレは凄い」と思うのは間違い。先のKさん。それを混同したのではないか? 「有名ゲストがたくさん出る番組を担当している」=>「だから、オレは凄い!」と思い込んだ。これも「この番組は面白い」=>「だから、担当のKさんは凄い」なら正解だが、「有名俳優が凄い」=「Kさん凄い」ではないのだ。

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なのに廊下で会ったとき、その歌手はKさんを覚えていなかった。「ブレイクするとこれか?」と思い込み「人は謙虚でなければ...」と感じたのだろう。それを僕に求めた。そう思うのは、最近、いろんな人が「監督、凄い!」と褒めてくれる一方で、昔からの知人や同期の映画人から批判されることがあるからだ。「有名俳優が出演してるからって勘違いしてるんじゃないか?」「調子に乗っているよなあ?」とか言われる。

僕は何も変わらないのに「最近、挨拶ないよな?」という知人もいるが、今、挨拶に行く理由はない。もちろん、余裕ができたら報告はしようと思っていたが、宣伝宣伝で、とりあえず目の前の仕事をこなさなきゃいけない。なのにこういわれる。

「ちょっと売れるとこれだ...」

つまり、レコードが売れる。映画がヒットする。と、喜んでくれる人、評価してくれる人がいるのと同時に、妬む人が出て来て、ご無沙汰すると「偉そうに!」と解釈されてしまう。本人は忙しいだけなのに「ちょっと売れるとこれだ...」と思われる。

そしてKさんと同じようにこう思う。「昔はいい奴だったのになあ〜」人は偉くなると態度がデカくなりがち。僕もそう思っていた。Kさんに言われるまでもなく注意していた。が、こちらが注意しても、そんなふうに見られること。ここしばらく痛感している。若い人たちはよくいう。

「有名になりたい」「キャーキャー言われたい」

だから俳優になりたい。歌手になりたい。でも、まだブレイクしていると言えない僕でも、こんなことがある。本当に有名なアーティストたちって、どう なんだろう? そんなことを考えてしまう。


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