向日葵の丘ー監督日記 二日かけてDVDを焼き終了! [編集]
何とかDVDは焼けた。今、最後の一枚を焼き中。結局、2日間もかかり、その間、次なる詰め作業がスタートできず、またまた時間を食ってしまった。が、ここまでの作業結果も確認せねばならず。ま、重要な時間だと思うようにする。
編集というのは、「作業」と思われがち。映像と映像をシナリオに沿って繋げる作用と。基本的はそうだ。が、それだけでは映画は生きて来ない。前にも書いたが、台詞と台詞の間の間(ま)の取り方。シナリオに書かれていなくても、ここで風景カットを入れるとか、想像力とセンスが大切。
よく映画はシナリオが設計図で、それに合わせて撮影をし、シナリオ通りに映像を繋ぐという、プラモデル作りのような感覚で捉えている人がいるが、そうではない。シナリオは創作活動だが、撮影現場も同じ。基本はシナリオ通りに撮影するが、そこでシナリオにはない何かが出てくる。俳優が予想を越える演技をする。それを無視してシナリオ通りに進めたのでは、無難な予定調和な作品になるのだ。
そして3段階目の編集もまた創作活動。シナリオとは違う順番で繋いだり、ないシーンを作ったり、あるシーンを削ったり。つまり、最初に書いたシナリオに合わせて撮影し、編集するのではなく。シナリオ=>撮影=>編集と3回改訂稿が作るということ。シナリオではどんなにいいと思えても、実際に撮影するとさほどでもないことがある。
逆にシナリオでは何も感じなかった部分が、感動のシーンになることもある。その3番目の編集。その中でも3番目の詰め編集をいよいよスタートする。
久々にメインスタッフ3人が集まり会議! [編集]
粗編集が終わり、満開のひまわりの撮影もして、都内の夏風景も撮影した。あとは詰め編集?と思いきや、まだせねばならないことがある。一般の方は撮影が終われば映画は完成と思いがちだが、実は第二段階の終わりに過ぎず、映画製作のおける一部のパートが終了しただけ。そこからがスタートといってもいいくらいだ。
あと残るは劇中劇用のクレジット、タイトル、字幕。等。それを新たに制作して撮影。本編に挿入する。
その相談を昨日行った。彼等はすでに別の作品に参加、終了。また、次の作品の準備中でもあるが、こうして、この初夏に撮った作品の作業をしてくれる。「忙しいから」と言われれば、新たにギャラを払って別の人たちに頼まねばならないところ。最後の最後まで付き合ってくれて、ありがたい。
粗編集を終えた映像は音楽家の元に送られ(もちろん、ハイビジョン画質のDVDで。圧縮してネットで送ったりはしない)作曲の準備をしてくれている。その音楽家さんとは近日中に打ち合わせ予定だ。
いよいよ、完成に向けてラストスパート。「向日葵の丘」秋には完成する!お楽しみに。
編集は映像のことだけ考えていては駄目? [編集]
本日、東京は曇り。ようやく粗編集作業が終わったが、これから詰め編集に進まねばならない。その前に編集した映像を音楽家さんに見せるためにDVDに焼く。これがなかなかうまく行かず! 平行して、別の書き出しがあり、それはノートパソコンで作業。2台のPCを使う。その間にこのFBを書いている訳だ。
おさらいすると、編集作業はNG抜き=>粗編集=>詰め編集と進むのだが、僕の場合。粗編とはいえ、かなり詰めた編集をする。以前はNG抜きをせず、いきなり詰め編集をしていたが、今回は特別。基本を踏んで作業。それだけクオリティの高い作品なので、大切に作業。
なぜ、粗編で完全に詰め編集をしなかったかというと、音の問題が関わるのだ。編集というのは映像をつなぐ仕事。だが、映画には音や音楽というものが加わる。昔、年配の編集者を見ていて思ったのは、音楽や音をあとでどう入れる?ということを考えずに、映像だけをギチギチに繋いでしまう。
それでいて「この場面。もたないな?」と思うと音楽入れるとかいう発想の人が多かった。だから、日本映画というのは(特に80年代)情緒のないものやムードのないものが多かったのだと感じる。その背景には昔の日本映画。黒沢明等の作品でないものは、編集者が編集をして、それを見た監督が「ここは長く」「ここは短め」とかいって直して行くやり方が多かったからだ。
編集は音楽のことなど考えていない。それどころか「映画は見せるもの。音楽に頼ってちゃいけない」という発想さえあった。だから、日本映画では永遠の名曲という映画音楽が少ないのだろう。デビッド・リーンだって、ウイリアム・ワイラーだって、スピルバーグだって、彼らの映画の音楽はスタンダードになり。それを聴いただけで感動が蘇るが、日本映画でその種のものは少ない。
それが昔から気になっていて、僕はシナリオの段階から音楽を使うシーンを決めて、以前はそのイメージ曲をカセットテープに入れて、それを聴きながらシナリオを書いたものだった。最近はそこまでしないが、音楽がかかる場面は決めている。学生時代に8ミリフィルムで映画を撮っていた頃は、作曲してもらう訳にはいかないので、規正の曲を先に決めて、そのリズムに合わせて編集をしたくらいだ。
なので、今は作曲をしてもらうので、編集中には曲がなくやりづらい。で、規正の曲を先に決め、それに合わせて編集。音楽家さんには、その曲の方向で作曲してもらう。が、その曲がなかなか見つからないことがある。或はイメージした曲のリズムで編集しても実際合わせて見ると駄目だったり。そんなこともあるので、完全に編集せず、余裕を持たせておく。
他にもいろいろ理由があるのだが、映像だけ見てギチギチに編集しては駄目なのだ。できあがった映画の後ろで音楽がBGMのように流れているという形では感動は伝わらない。そのために、編集作業以外の視点や発想が必要なのだが、それはまたの機会に。
編集作業。最後まで行った? [編集]
ついについに、最後まで行った.....。
ラストシーンまで行き、ついでだから、エンディングクレジットも少しだけ入れてみた。あのスピーチのシーンから、そのあとの展開。そして、ラストの、ラストのシーン。市民俳優200人に参加してもらってのあの場面。
詳しくは書けないが、壮絶.........自分で物語を作り、演出した作品ではあるが、本当に壮絶。凄い。スピーチ以降、ほとんど泣きながら作業した。何なんだこれは? 映画は4本目だし、Vシネマやテレビドラマも何本もやって来たけど、こんなことは初めて....
作業しながら涙が出そうになったことはある。
でも、これは声を上げて泣きそうになった。何なんだこれ? 何度も書くが、もはや僕が作った物語ではない。それを超えたドラマになっている。それは自画自賛ではなく、まずは俳優陣の力が大きい。トップランナーの力。思い知った。本当にスゴイ。
そして、スタッフの力。カメラ。照明。美術、録音。それらスタッフを支える製作部。全てを滞りなく進めるために全力を尽くした演出部。そのスタッフの力が結集している。映画スタッフが本気でかかったときの凄さを今回、改めて感じた。決して高いギャラを払っている訳ではない。しかし、誰もが手抜きせず、全力で戦ってくれた。その力が映画の全編から感じられる。
そして、もう一度、書くが、キャスト。
特にメインキャストの3人は本当に素晴らしい。詳しくは書けないが、あのスピーチ以降の場面は、演技ではない。数々の彼女たちの作品を見て来たが、どれとも違う。全身全霊で泣き、笑い、戦っている。これがトップランナーの力だと改めて感じる。
もう、号泣必至。打ちのめされる......と、あまり書くと、うぬぼれやだと思われるので、この辺で。でも、今回は凄いよ〜。普通じゃない。
ただ、これで編集作業が終わった訳ではない。
粗編集が終わっただけだ。ここから詰め編集がスタート。といっても僕の場合の粗編集は詰め編集にかなり近いのにで、細かなところを直して行くだけだ。詰め編集というより直しという形だ。が、今回はより丁寧にやる。ここでとちってはいけない。あと、ミュージカルシーンと、劇中映画はまだ編集していない。これらはまだ、これから作らねばならない素材があるので保留。
編集が終わった!というと、「完成か?」と思われそうだが、やっと1つ、階段を上がり、完成へ近づいたというだけだ。戦いは続く!
あのスピーチの場面 [編集]
いよいよ、本当にスピーチのシーンまで来た。
その冒頭の映像を見るだけで涙が込み上げる。俳優というのは、本当に凄い。スピーチだけで、言葉だけで、音楽もなしで、観客を感動させてしまう。その力とは一体何なのだろう。5分に及ぶ長いスピーチ。それを彼女は一気に話した。現場のスタッフまで涙した。
その感動のスピーチを撮影したのが、下写真で僕が立っている場所のすぐ前。後ろ姿の助監督君が立っている場所である。撮影まえの打ち合わせをスタッフとしているスナップだ。でも、まさに、その場所が涙の名演技の立ちイチなのだ。
そのスピーチ。もう、僕が書いた台詞ではなかった。
彼女が心からそう思い、多くの人に自分の気持ちを伝える言葉となっていた。だからこそ、胸を打ち、涙が込み上げる。これは小説や漫画では残念ながらできない。活字になってしまった言葉を読むのと、声として聞くのは伝わり方が違う。ここが映画ならでは強さ。
そして、そのスピーチ、この映画を作った意味。これまで映画を作り続けて来たことの意味だ。最初は「子供たちに伝える大切なこと」をテーマにしていた。が、やがて親がバカで子供が苦労することが分かって来て「親子に伝える大切なことが」がテーマとなった。
さらに、いろんな現実を見ていて考える。
なぜ、子供たちは苦しむのか? 子供たちの幸せを願うはずの大人たちが、なぜ子供たちの未来を奪うようなことをするのか? さらに突き詰めて行くと、幸せって何だろう? 家族って何だろう?という疑問。父親は家族を子供たちを幸せにしようと働く。母親は子供たちが無事に育ち幸せになることを願う。
しかし、戦後の日本。バブル期の日本。そして長く続く不況の中の日本。その中で日本人は、家族は、我々は本当に大切なことを見失ってはいないだろうか? 目先のことに振り回され、世間の風潮に引っ張られ、マスコミや広告に乗せられて、どちらでもいいことにムキになり。互いに傷つけ合ってはいなかったか?
幸せとは何か? 家族とは何か?
日本人はこれからどこへ向かうべきなのか?全ての答えを探して、「向日葵の丘」はいよいよラストシーンに向かう。そしてスピーチのシーン。できれば、ここは監督して編集するより。観客として見たかった。その素晴らしい名演。編集しながら涙するのは、あまりにももったいない。でも、その場面の作業を始める。本日も携帯もメールも見ない。編集に専念する。
いよいよ、この場面。 [編集]
クライマックスシーンの撮影風景を紹介! [編集]
残るは2シーン! [編集]
いよいよ(このところ「いよいよ」ばかりだが)
写真下の場面に突入する。残すところ2シーン。両方ともに同じ場所。とはいえ、次のシーンの中にもうひとつシーンがあるという設定。シナリオを読んでない人には意味分からん!と思うが、物語の中に、もうひとつの物語がある。だから、2倍大変。
そして、この場面は大量に市民俳優の皆さんが出演している。200人くらい? なかなかパワフルなシーンである。さらに、この映画の最大の見せ場といって過言ではない、あのスピーチシーンも待っている。この場面の撮影も、スタッフが皆、涙を流した。Tさん最高の名演! そして、それこそが「向日葵の丘」のテーマであり、メッセージなのだ。
編集スタートから2ヶ月を過ぎ、
とうとう、そこまで来た。あと2シーン。とは言え、通常の映画の6シーン分くらいの分量がある。何とか、明日、明後日で終わりまで行きたい。自分で書いた物語なのに「一体、最後はどうってしまうのか?!」と思え、早く続きが見たい。
1シーンの編集に8時間! [編集]
最後のチャプターは全て映画館でロケしているが、いくつかの場面に別れている。その1つ。再会のシーンは同じ芝居を7方向から撮影している。前方から6回。後方から1回。多香子、みどり、エリカの寄り。3人のスリーショット、多香子とみどりのツーショット。多香子とエリカのツーショット。
これらを短く繋いで、スムーズに、そしてドラマティックに見せねばならない。作業をしている内にだんだん、こんがらがってくる。35度を越える猛暑の中、エアコンも付けずにいると、脳が湯だってくる。
パソコンも熱を帯び、反応が鈍くなる。途中、一度止めて、冷却。その隙に僕の頭も冷やす。麦茶を飲んで、シャツを着替えて、パソコンが冷えたら再開。それにしても、戦闘シーンや銃撃シーンでもないのに、7ショットも撮影しているので、なかなか大変。
この場面は単に繋ぐだけでなく、時間の長さも調整する。間を延ばしたり、寄り引きでリズムを付けたり、言葉では説明し辛いが、下の写真を見て頂けると分かるように、数秒づつ、もの凄いカットが並んでいる。
あー腰が痛い。背中も痛い。同じ姿勢で何時間もパソコンに向かっているからだが、ここで止める訳にはいかない。
さらに、Aカメには音が入っているが、Bカメには入っていない。だから、Bカメの映像を使うときには、同じ場面のAカメの映像の音を探して、持ってきて付けてやらねばならない。昼飯以降にこの場面と格闘しているが、終わったのは先ほど。
大物俳優3人が出ているシーンだけに、クオリティも高く、時間の流れ通りに見せるのがもったいないので、かなりいろんな手法で彼女たちの見事な演技を紹介できたはずだ。