懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編ー戎橋劇場 [思い出物語]
【懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編ー戎橋劇場】
戎橋にある元キリンビル。
映画「ブラックレイン」では殺人事件が起き、
健さんとマイケルダグラスが駆けつけるキャバレーがある場所。
個人的には高校時代に通った名画座が入っていたビル。
戎橋劇場といって、本当にいい映画を2本立て500円で上映。
毎月来ていた。
でも、ビルは立て直されて、おしゃれなものになっている。
あー37年ほど前か。。。
常盤貴子さん推薦の映画「野火」ー塚本晋也監督と記念写真! [思い出物語]
さて、上写真。「野火」の塚本晋也監督と「向日葵の丘」監督の私。
なぜ、この写真を撮ることになったか? お話したい。
そもそもの始まりは「向日葵の丘」東京公開初日。
主演の常盤貴子さんが舞台挨拶で「向日葵」ではなく
映画「野火」がいかに素晴らしい映画か?を延々スピーチ。
それをネット、スポーツ新聞が記事にして、「常盤貴子、野火を宣伝!」
とかなり話題になった。翌日のアクセスランキングでは
1位が「野火」2位「向日葵」という快挙
「野火」の塚本晋也監督がTwitterで
「僕も向日葵見せてもらいます!」
とtweet。さらに盛り上がる。
そして、先日、「向日葵の丘」横浜舞台挨拶のとき
「野火」宣伝部の方がひまわりの花束を持って、映画館までお礼に来てくれた。
そこで今回は僕が中野の映画館で上映中の「野火」監督舞台挨拶の日に訪ねた。
で、以下の記念写真を撮った訳である。
塚本監督は多忙でまだ「向日葵の丘」を見ていないとのことだったので
パンフレットをプレゼント!
「深谷シネマの上映はなんとか行きたいです」
とのこと。
僕もこの日、ようやく常盤さん大推薦の「野火」を見ることができた。
本当に凄い。素晴らしい作品で、常盤さんが舞台で宣伝した気持ちが分かる
今、日本人が見るべき映画だ。
ぜひ、みなさんも「野火」ご覧下さい。
主演女優と共々、大推薦します。
(全ての始まりはこの舞台挨拶から!)
1年前の今日の記事=>2年間延期した目の手術を実施 [思い出物語]
2014年7月18日
再掲載にも関わらず、多くの方からお見舞いと激励を頂いた。本当にありがとうございます。友人たちからは「何でもっと早く手術しなかったんだ?」と言われているが、先の記事でも説明したように、この2年間は映画製作が続き、そんな最中に手術をしたら多くの関係者に迷惑がかかる...と考えたからだ。
今回、手術を決めてからの経緯を振り返ると、やはり当時の心配は正解。映画制作中に手術をしなくてよかったと思える。やはり手術が必要と分かったのが5月中旬。6月、7月と、何度も検査を受けた。初期は毎日。そして週イチ。さらに内科の検査も必要。それらは担当医の先生の都合で、何曜日の午前とか午後とか決められる。この数日も毎日、病院通い。
もし、これが撮影準備の時期なら、打ち合わせがあっても「悪い、今日は検査だから行けない」とキャンセルせねばならない。監督の僕抜きで会議をしても無意味なので、会議は中止となる。さらに、衣装合わせや本読みのように俳優が参加する場合は余計に大変。皆、忙しいスケジュールの中。やりくりして集まるのに、監督が「悪い。その日は検査!」なんていえるはずがない。
そんなことで撮影までに本読みができない。衣装合わせができない俳優がいるてなことになると、大きな支障がでる。それのみならず、スタッフも「監督、体調大丈夫なのかな?」と心配。或いは不信感が生まれるかもしれない。本当のことが分かり「監督、撮影中に失明する可能性あるんだって!」とバレるともうパニック。
やはり、撮影前に手術というのは無理。それ以前を考えても同じ。「朝日のあたる家」の全国公開で宣伝&舞台挨拶ツアー。公開日は映画館側の意向で決まる。舞台挨拶に来てほしいと依頼があっても、「その日は検査で行けません」と言わねばならない。監督の舞台挨拶目当てに劇場に来てくれる人もいる。そんな人の期待を裏切る事になる。
もし、手術をその頃に決めていたら、そんなキャセルが1日2日ではなく、何度も出たであろうこと。この数ヶ月の検査検査の日々を思うと実感してしまう。たかが目の手術といえど、1日2日では済まないのだ。友人の中には「映画を1本延期しても、体の方が大事。まだまだ先があるのだから」といってくれる奴もいる。
でも、それは違う。僕のような無名監督の場合。個人の都合で撮影を延期するなんてことはできない。また、タイミングというものもある。今、作ってこそ意味があり、1年後では誰も関心を持たないということもある。結局、延期ではなく中止に繋がってしまう。目の前のチャンスに全力を賭けてこそ次に繋がる。そのチャンスを見送っては、次のチャンスは永遠に来ないかもしれない。それが映画の世界。毎年1本撮れるという保証などなく。むしろ、年1本撮れる監督というのは売れっ子と呼ばれる。
今、かかっている映画に全力を注げないで、次がんばる!というのはありえない。手術があったので検査に時間を取られ、十分な撮影順日ができなかった。というのは言い訳にならない。時間はどんなにあっても足りないのが映画だ。もし、プライベートなことで映画のクオリティを落とすことがあれば、監督失格。二度と映画を撮るべきではない。
これは監督だけでなく、スタッフでも、役者でも同じ。責任ある仕事がある日に「私用でその日は行けません」という言い訳はできない。その段階で失格。それが映画の世界。そんなスタッフ&キャストを率いなければならない監督業。やはり「検査があるから」と仕事を抜けるのは駄目。手術を2年も受けずにいたが、その点に関して後悔はない。
でも、今は時間的な余裕がある。編集も終わりが見えた。手術も入院コースではなく、日帰りコース(?)にしてある。「向日葵」の完成した映像は両目で見れるようにしたい。
【懐かしい歌はマッハのタイムマシーン。あの頃の風さえ思い出す..】 [思い出物語]
30年ぶりくらいにサントリーレッドを飲んだら、当時の歌を聴きたくなった。あの頃、そう1980年代初頭によく聴いていた歌をかけてみた。歌とは凄いもので、もう30年も経つのに、あの頃の空気や風まで思い出す。まるでタイムマシーンだ。
あの頃、僕は横浜に住んでいた。4畳半1間の下宿アパート。よく1人でサントリーレッドを飲みながら、レコードプレイヤーでRストーンズやザ・フーを聴きながら、あるいときはエルトン・ジョンやピンクフロイドを聴きながら、将来のことを考えた。
映画監督を夢見て上京したが、入学した映画学校は退屈。役に立つとは思えず、夏休み前に行かなくなってしまった。そして登校拒否組と毎日、飲み会。最初は楽しかったが、未来が見えず、次第にこんなことでいいのか?と思えてきた。
トイレ共同。風呂はなし。近所の風呂屋に通う。1980年のことだ。巷では松田聖子が大人気。まだ、中森明菜は登場していない。黒澤明の「用心棒」が初めてテレビ放映された年。
僕は中学時代から洋楽専門だったが、この頃から歌謡曲も聴くようになった。当時は歌謡曲とは別に、ニューミュージックと呼ばれる歌があり、今のJ-popの元祖となる。テレビには出ないが、音楽性が高い。そんなアーティストたちの歌も聴き始めた。
大滝詠一の「ロングバケーション」は繰り返し聴いた。山下達郎の「ライドオンタイム」も人気だった。佐野元春。ユーミン。矢沢永吉。音楽はほんと凄い。当時のヒット曲を聴くと、あの頃に急降下。マッハのタイムマシーンだ。あれから35年。つい、この間のことだったのに。。。時代はハイスピード。
【サントリー・レッドの思い出ーあれから32年か...】 [思い出物語]
学生時代によく飲んでいたウイスキー。先日、友人からもらった。「向日葵の丘」の舞台となった1983年頃だ。まだ、焼酎ブームは始まらず、学生は皆、ビールと安いウイスキーを飲んでいた。
当時、一番安かったのが、これと、ハイニッカ。レッドのCMは市川崑監督が大原麗子さんで撮っていた。ニッカは草刈正雄さん。大原麗子さんとはその後、仕事でお会いし、草刈さんは娘さんとお仕事をした。
何年経っても縁がある。基本的には焼酎とバーボンが好きだが、ウイスキーはなんだか物語があっていい。♬「ウイスキーがお好きでしょう?」とか何か歌にもなる。「焼酎がお好きでしょう?」では演歌になってしまう。
その学生時代以来、30年ぶりくらいにサントリーレッドを飲んだ。懐かしい味で、あーーこんなだったよなあ〜と感じる。味って、結構、覚えているものだ。ただ、目をつぶって飲むと、ニッカかレッドかはわからないくらいに似ている。
このレッドは当時、800円くらいだったと思う、ホワイトが1200円くらいだと記憶している。ビールを何本も飲むより実はレッドを飲む方が安上がりなのだ。あとはポテトチップスとか、柿の種。それだけで朝まで、映画好きの友人たちとひたすら映画の話をした。
黒澤明はどうだ? デビット・リンチは好きか? パゾリー二は趣味か? ATG映画は凄いか? いやいや、アメリカン・ニューシネマだ。と多種多様の趣味の映画青年たちが集まり、語り明かした。
4畳半の下宿アパート。クーラーもストーブもない。電話もない。ビデオデッキもない。テレビのない奴も多かった。まだバブル経済までには数年かかる頃。そんな場所で、レッドを飲みながら、映画談義をしたこと。思い出す。