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「メイキング」って何? とは言われなくなったが、僕のスタートはそのメイキングだった。 [思い出物語]

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 20年ほど前は「メイキング」と

 いっても一般の人は分からず、「え?何?」と訊かれた。「映画の撮影を風景を記録したドキュメンタリーですよ」と説明すると、「へーー」と言われ、何だかイメージできないようだった。ドキュメンタリーというとNHK教育テレビ(?)で放送されるような真面目なものを想像してしまうのだろう? また、撮影風景を記録したものを観て何が楽しいのだろう?という感じだった。

 が、アメリカ映画は1960年代から大作映画を撮るときには作られていたもの。日本では1970年代から特撮映画の舞台裏を記録したメイキングが人気。海外版のビデオとかが、レンタルショップにも並んだ。

 そして1980年代に角川映画が

 所属の俳優・薬師丸ひろ子、原田知世らの主演映画のメイキングが発売。人気を得た。ま、これは正当派のメイキングではなく、アイドルビデオといっていいもので、人気アイドルの撮影現場を記録したものだった。
 
 映画ファンにはその頃から「メイキング」の知名度は広がったが、一般の人には1990年代に入ってからも「メイキング?」と言われることが多かった。が、ようやく最近は「撮影現場を記録した...」と話していると、「あ、メイキングね?」と言われるようになった。

 今では日本映画でもDVDになれば、ほとんどが特典映像として「メイキング」が収録されており、撮影現場や俳優たちの素顔を観ることができる。

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 と、長々書いたのは、実は僕の監督歴はメイキングからスタートしているからだ。確か1997年。もう20年ほど前になるが、先輩監督の映画でメイキングを担当した。メイキングは監督兼、カメラマンが通常。撮影現場に張り付きビデオカメラをまわす。ドラマではないが、それが僕の監督デビュー作である。それが評判よくて、数本の映画。そして深夜ドラマのメイキングを担当した。

 メイキングは撮影、演出だけでなく、

 編集も担当する。なので、ただ現場を撮影すればいいだけでなく、いかに編集して、面白く見せられるか? を考えて撮ることが大事。ま、メイキングの心得はいろいろあるのだけど、僕が担当したメイキングはとても評判よく、「本編よりおもしろい」と言われるようになった。ま、本編はドラマで、メイキングはドキュメンタリーなんでそもそも比較するのはおかしいのだけど。評判がよかった。

 それもそのはず、実は10代から始めた自主映画。学生映画でもメイキングを撮っていたのだ。8ミリフィルムだけど、アメリカ映画を真似てやっていた。ただ、撮影風景を撮っただけではダメで、そこにドラマがなくてはならない。といってドキュメントだから無理矢理物語を作るとヤラセになる。そうではなく、いかにドラマチックに見せるか? は構成と編集の腕が問われる。

 何よりも大事なのは編集だ。

 これはもの凄く時間がかかる。ある意味で本編より大変だ。本編は基本シナリオ通り、物語の順に繋いで行けばいいが、ドキュメンタリーの場合は様々な繋ぎ方がある。回想形式もありだし、時間順もあり。そして、誰にクローズアップするのか? 一人称で描くのか? 三人称か? それ次第で出来が大きく変わる。

 編集の力量が試される。だから、DVDの特典映像を見ても「何これ?」というものも多い。ただただ、撮影風景を映しているだけ。資料映像じゃないんだから!というものもある。30分くらいの長さなのに、やたら退屈するもの。ふーーん、だから何?といいたくなるものまで。実はメイキングはなかなかむずかしい。

 見ている方は「へーーー、こんなふうにして撮影したのか〜」と思って見るので、気づきにくいが、そう思って真剣に見られるメイキングは実はとても良く出来ているということだ。撮影風景など、5分も見ていたら飽きてしまうのが普通。そこにドラマがあるから見ることができる。

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 だが、退屈せずに見られるメイキングを作るには、

 時間がかかる。先にも説明したが、本編の編集より時間がかかることもある。30分ものでも、まじめにやれば1ヶ月くらいかかる。もちろん、手抜きで1週間で作ることもできる。が、クオリティが低い。編集というのは不思議なもので、時間をかければいいものが出来る。が、時間をかけなくても、それなりのものができる。でも、見ていて面白いものではない。ビデオメーカーから言われて、DVD発売のために低予算で無理やり作るときに、そうなりがち。

 僕はいつも時間かけ過ぎて、大変なことになるが、それだけにいつも高い評価をもらった。そして、2001年。究極のメイキング依頼が来る。あの大林宣彦監督の映画のメイキングを依頼されたのだ。宮部みゆき原作の「理由」。こうして憧れの大林組の現場で、メイキング監督をすることになった。

 その話をすると、またロングロングストーリーになるので、別の機会にするが、メイキングにも厳しい大林監督からも高い評価を頂いた。ビデオソフト発売時にはパッケージの表に「太田隆文 構成」というシールを貼ってくれて、恐縮した。このあとスタートする僕の初映画「ストロベリーフィールズ」への巨匠からの応援だった。

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 そして「理由」が地上波で放映されたときに

 作られた特別編では、僕が撮影したメイキング用の映像が本編に何カ所も使われてビックリ! 恐縮したのを思い出す。そんなふうにメイキング時代のことを思い出すと、いろんな話が出て来る。思うのだが、昔は助監督を10年勤めてから監督デビューしたが、今は、メイキングを何年かやってから監督デビューするパターンも有意義。メイキングを撮るには映画スタッフの役割、映画の作り方。等を理解してないとできない。そして現場で撮影、演出も学べる。とても勉強になる。僕もそれぞれの現場でいろいろ教わった。

 さらに、編集力が問われる。学ぶだけではなく、力もないとメイキングはできない。ま、ドラマでも、ドキュメンタリーでも同じで編集はとても重要で、それ次第で傑作になったり、凡作になったりする訳だが、その意味でもメイキングでは、いろいろと勉強になった。

 
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6年前の監督作「青い青い空」懐かしい! [思い出物語]

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6年前の監督作「青い青い空」懐かしい!

出演者が凄かった。松坂慶子、長門裕之、波岡一喜、鈴木砂羽、藤田朋子,,,,,,,,,メジャー映画のキャストよりスゴイと言われた。そして、長門さんの遺作。いろいろ思い出す。



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僕のベストテン2015ー読んだ漫画、観た演劇、DVD [思い出物語]

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僕のベストテン2015ー読んだ漫画、観た演劇、DVD 

* 「ウォーキング・デッド」シーズン4&5

* 「24 リブ・アナザー・デイ」

* 漫画「漂流教室」

* 漫画「わたしは真吾」

* 漫画「14歳」

* ジャクソン・ブラウン公演

* ポール・マッカートニー公演

* キャラメルボックス「クロノス・ジョンターの伝説」公演

* 小説「原発ホワイトアウト」

* DVDで「ひめゆりの塔」を見る

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懐かしのマクドナルド**店! 1998年冬? [思い出物語]

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懐かしのマクドナルド**店! 1998年冬?

このマック。1995年頃によく来た。当時、僕はシナリオ・ライターデビューする直前で、ライター業をしながらシナリオを書いていた。そんな中、どーしても書きたい物語があり、2年がかりで小説にした。

まだ、パソコンはさほど普及しておらず、ワープロ全盛。それ以前はよくこんな店で、珈琲一杯で粘り、原稿を書いたものだが、ワープロ時代になると、持ち運びが大変。プリントアウトした原稿を持ってきて、校正をした。

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不思議に部屋で原稿を読むと問題点が見えないのに、外で読むとすぐに発見してしまう。環境が変わると客観性が強くなるのかもしれない。そんな訳でよく原稿を持ち出して、時間ができると、校正作業をした。そんな一軒がここ。もう、テーブルの配置とは違い「懐かしー」という感じはないが、場所はここだ。

あれから20年ほど来なかったことになる。毎回、1杯の珈琲だけで、2−3時間ここにいた。確か、冬で、モーニング娘。から飛び出したユニットの歌が流行っていて、店内で何度も流れていた。モーニングは98年に初ヒットを取っているから、ここに来たのは95年ではないか? ということは99年頃? 記憶とは当てないならないものだ。(調べたらタンポポの「ラストキッス」98年11月発売)

ということは、脚本家デビューはしたあと。ドラマ監督のデビューもして、メイキングの撮影なんかをして、よく仕事をしていた製作会社と大喧嘩して仕事がなくなった頃か? とにかく、そんな頃にミステリー小説を2年がかりで書いた。出版社に持ち込み、かなりいいところまで行ったが、出版には至らなかった。

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もの凄く評価して「これは売れる! 面白い」といってくれた編集者と、「こんなのどーしようもない!」という編集がいた。内緒だが、原稿を褒めてくれた編集者は今、その会社の社長である。(といって、10数年前の作品はもう覚えてはいないだろう)

その原稿の直しをこのマクドナルドでよくやった。監督デビューしたが、仕事がなく、映画監督デビューは夢の又夢。映画会社に企画を持ち込んでも「オリジナルシナリオではねえ〜」と言われた。ほとんどの会社はベストセラー原作でないと映画化できないというのだ。「だったら、自分で原作書いて、映画化してやる!」と小説を書き出したのだが....。もう15年ほど前か......。


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この映画公開からも、もう4年かあ。「青い青い空」 [思い出物語]

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この映画公開からも、もう4年かあ

製作開始からだと8年だ。





【ふと、この10年のことを思い出してみたら、さらに15年の思い出が!?】 [思い出物語]

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【ふと、この10年のことを思い出してみたら、さらに15年の思い出が!?】

1980年代は年代ごとにしっかりと覚えている。高校を卒業して本当の人生を歩み出した年でもあるからだ。その意味で「向日葵」の1983年というのは明確に覚えている年だ。が、1990年代に入ると不明確だ。そんなことを考えながら歩いた。

1990年 アメリカ留学から帰国。29歳。秋に戻ったので、本格的なスタートは91年から。その年の2月に東京のアパートを契約。新たな生活が始まる。目標は映画監督になること。アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。この辺のことは以前書いたが、昼はレンタルビデオ店で働き、夜は居酒屋で皿洗い。映画会社や製作プロダクションに何度も持ち込みしたが、「面白い。映画にしよう!」といってくれたところは1軒もなかった...。

92年、93年、94年と、新たにライター業をスタート。雑誌や週刊誌に記事を書く仕事をしていた。仕事をもらうだけでなく、自分で取材、それを出版社に売り込んだり。「週刊プレイボーイ」「ペントハウス」「コスモポリタン」等で書かせてもらった。が、それだけでは食えず、ビデオ屋やベビーシッターのアルバイトもしていた。あと、映画学校や演劇学校の講師もあちこちでした。

95年に日米合作ドラマ「Gaijinー開国」にスタッフ参加。同年、シナリオライターデビュー「アルティメット・クライシス」「女子高生コンクリート詰め殺人事件」96年、Vシネマ「82分署R」「ゼロウーマン」を担当。97年、映画「ルーズソックス」メイキング。98年、ドラマ「太陽娘と海」スタッフ。ドラマ「風の娘たち」監督デビュー。99年、映画「死びとの恋わずらい」メイキング。Vシネマ「真・恐怖体験 投稿編」を監督。

00年、Vシネマ「真・恐怖体験 ドラマ編」担当。01年ー02年 映画「ストロベリーフィールズ」営業。03年、ドラマ「怪談・新耳袋」監督。大林宣彦監督「理由」メイキング担当。04年 新作準備。05年「ストロベリーフィールズ」監督。

こんな感じか? この先は明確に覚えている。「ストロベリーフィールズ」「青い青い空」「朝日のあたる家」そして「向日葵の丘 1983年夏」。だが、それ以前は記憶が曖昧。毎年、戦いの連続だったので、どれが何年で、何が何年でと覚えていない。しかし、今、振り返ってみると、何でも来い!という感じで、一進一退している。理不尽な製作会社とは何度も喧嘩しているし、ブラック企業を超える仕事も大かった。何ヶ月も働いたのにギャラの不払い。仕事を依頼して来ておいて、何の連絡もなく別の人にまわした会社もある。それを知らずに待ち続けて馬鹿を見たことも。

けど、そんなこんなで15年。15年だ。これをどう捉えればいいのか? どう、解釈すればいいのか? 考えてしまう。このあとの2005年から映画「ストロベリーフィールズ」を監督。そこから怒濤の戦いが続き、現在に至る。それでさらに10年。その最初の段階で、総括をする余裕がなく、その前の15年が曖昧なのだろう。帰国して15年。映画監督デビューして10年。ひとつの節目だと思えている.....。

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2年前の今日。食べた弁当。北九州空港にて [思い出物語]

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2年前に食べた弁当。北九州空港にて

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懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編 大劇名画座 [思い出物語]

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【懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編 大劇名画座】

ここは当時、大阪に住んでいた映画ファンでも知っている人は少ない。この辺だとやはり戎橋劇場だが、実はここも名画座。かなり古い大正時代か?と思える石造りの建物で、そこの3階か4階が映画館になっていた。が、当時この辺は****な感じで、ビルもヤバそうで余程でないと入ろうと思わない雰囲気だった。

が、78年くらいに「007は二度死ぬ」「女王陛下の007」を2本立てで上映。当時はレンタルビデオもなく「007」は新作かテレビでしか見られなのが大阪の現実。そこに2本立てで!!上映。大阪でも他の映画館で一切上映していないプログラム。勇気を絞って見に行った。

中はとても豪華で、コロシアムといった感じ。古い豪華な映画館だった。なぜか、アクションやゲテモノ映画の上映が多く、客もまばら。僕の知り合いでここで映画を見た人は1人もいない。が、今となっては懐かしい。もっと、通えばよかった。。。。

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【懐かしさの映画館を探して 大阪ミナミ編 千日前スバル座】 [思い出物語]

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【懐かしさの映画館を探して 大阪ミナミ編 千日前スバル座】

77ー79年までの高校時代。

このビルの4階か5階にあった千日前スバル座によく通った。

千日前(?!)にありながら、劇場内は優雅。

スクリーンも湾曲していて、ミニシネラマ。

小さな劇場ながら画面は大きく、シネコン以前なのに階段の客席。

名画を多く上映していた封切館。

「2001年宇宙の旅」「スティング」のリバイバル。「ジョーイ」等を見た。

今はビル自体も建て直したのか? 

映画館はもうない。

味気なくゲームセンターとなっている。

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懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編ー松竹座 [思い出物語]

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【懐かしの映画館を探して 大阪ミナミ編ー松竹座】

1977年から3年間。大阪の高校に通った。

ミナミで一番大きかったのがここ松竹座。

大正時代にオープン。

3階席まである巨大映画館。

「八つ墓村」「スーパーマン」「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」

等を見た。

何年か前に老朽化で取り壊し、現在は新しい建物。

映画館ではなく芝居小屋となった。

劇団新感線の「朧の森に棲む鬼」はここで見た。


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