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「向日葵の丘」田中美里さんが演じたみどり役はいかにして誕生したか? ー死んだ高校時代の友人への思いを物語に託す [インサイド・ストーリー]

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【「向日葵の丘」の物語はいかにして誕生したか?!⑥】

ー死んだ高校時代の友人への思いを物語に託す

事実をベースにした物語は観客を打ちのめし、感動させるーこれは、いろんな映画や小説を読むたびに感じることであり、自作の「朝日のあたる家」でも痛感したこと。だから、「向日葵の丘」でもそれを実践した。

まず、高校時代編の映画研究部。僕は高校時代映画研究部ではなかったが、大阪の学校に通い、帰宅時には頻繁に映画館に立ち寄る。学校帰りによく行ったのは東大阪市の布施にある映画館。「来週は何の映画が上映されるんだろう?」と映画館を覗きに行く。「近日上映」のポスターを見て「おーあれが上映されるんだ」と喜んだりした。

そして同じ布施の本屋で、映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」を立ち読みする。クラスには映画好きがおらず、他のクラスにいる映画ファンの生徒とよく映画談義で盛り上がったりした。その友人とドキュメンタリー映画を作り、文化祭で上映したこともある。そんな経験を若き日の多香子やみどりに投影した。支配人と仲良くなり、映画の話を聞かせてもらったり、映写室を見せてもらうのも実話である。カメラはもらわなかったけど。

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多香子たちが8ミリ映画を製作するのは、僕が20歳前後に横浜で学生映画をやっていたときの経験を生かした。8ミリ映画を作るには、カメラを用意し、フィルムを買い、現像、編集となかなか面倒。それぞれの勉強をせねばならない。その辺をリアルに再現した。なので、劇中に登場する情報。特に8ミリ映画に関する部分は全部事実。83年当時には白黒フィルムはすでになかったが、海外では存在。85年に留学したときには、白黒でフィルムをまわした。

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町の人たちも、それぞれにモデルがいる。子供の頃に通ったたこ焼き屋のおばちゃん。映画では鯛焼き屋になっている。本屋、カメラ屋、こんな人いたよねーと思えるタイプを実際にいた人からキャラを頂いた。そして、みどり。若き日を藤井武美さんが、大人になってからを田中美里さんが演じてくれた、みどり。彼女もまたモデルがいる。

実際は男性だが、本当に僕の同級生で、映画が好きで、会うと映画の話ばかりしていた。先に紹介したドキュメンタリー映画を一緒に撮り、文化祭で上映したときの友人だ。大学卒業後も、東京には出ず地元で就職。結婚した。ただ、映画のように喧嘩別れせず、その後30年近く、付き合いは続いた。

映画の舞台となった1983年に僕が作った自主映画の撮影も手伝ってくれた。が、そんな彼はみどりと同じように病気になり、亡くなる。そのあとに奥さんから「家では太田が、太田が、って、太田さんの話をよくしていたんですよ」と聞いた。そして、奥さんにこんなこともいっていたそうだ。

「太田は昔から映画監督になるっていってて、ホンマに監督になった。でも、1作目は泣けへんかった。お前はボロボロに泣いていたけど、あれではアカン。今度会ったら、しっかり言うたるんや。今、新作作ってるらしいし、公開されたらまた家族3人で見にいこか?」



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しかし、彼はその映画を見ることなく、亡くなった。その直前、医者から「あと1ヶ月」と言われたとき、奥さんは僕に電話をくれた。なのに、当時、仕事をしていた製作会社がギャラの不払い、立て替えていた膨大な経費も払おうとしなかったため、携帯代も払えなくなり、解約されて、電話がない時期だった。そのため、奥さんが連絡をくれたにも関わらず、僕は友人が死んだことも知らなかった。数ヶ月後、共通の友人から知らせを受けて、奥さんに連絡した。

「太田さんとはお会いしたことはないけど、主人からいつも話を聞いていたので、昔からの友達から電話もらったような気がしてます」

そして、友人の最後の様子を聞かせてくれた。奥さんはいう。

「あの人に・・・・・・最後、一度でええから、太田さんと会わせて上げたかった・・・・・映画の話・・・・いっぱいさせて上げたかった・・・」

涙が止まらず、言葉にならなかった。その後、僕の新作映画は公開されたが、友人はそれを見ていない。その友人をみどり役のモデルにした。そして、僕が見舞いに行けなかった代わりに、多香子に見舞いに行ってもらった。病室で映画の話をいっぱいして、最後は一緒に懐かしの映画館で8ミリ映画を見てもらった。僕ができなかった思いを多香子に託した。

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シナリオを書きながら、涙が止まらなかった.....。友人は妻と子を残し、40代で逝ってしまった。僕はその死に目に会うこともできず、死んだことも知らなかった。あのとき、製作会社がちゃんとギャラを払っていてくれれば......こんなことにはならなかったのに.....と恨んだりした。が、一番考えたのは「幸せって何だろう?」ということだった......。

友人は理解ある女性と結婚。子供もいて幸せに生活していた。不況で会社が大変だとボヤイていた。sそんな彼は高校時代からある夢があった。僕が映画監督を目指したように、彼もある職業を夢見た。でも、それを諦めて就職。それからは僕を応援してくれていた。会うたびに飯をおごってもらった。「早く監督デビューしてくれよ!」と毎回言われた。僕は留学から帰って10年以上かかり監督になった....。

監督業は貧しく、大変。結婚もできない。それに対して夢は諦めたが、安定した生活をして、愛する妻がいて、幸せに暮らす友人。世の中、そんなもんだよなあ〜と、ある意味羨ましく思っていていたのに、その友人が40代で逝ってしまった。神様。それはないだろう? 彼が何をしたというの? 何も悪いことしてないでしょう? 何でそんな仕打ちをするの?

でも、それが現実。だから、考える。「幸せって何だろう?」そう考えて「向日葵の丘」の根幹のストーリーは、友人の死をメインにした。彼の人生って何だったんだろう? そして自分の人生って何だろう? そんな思いを込めて、シナリオを書いた......。(つづく)



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