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向日葵の丘ー監督日記 第4章完結編 「ひまわりの丘」で再び涙が....。 [思い出物語]

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まねだ聖子さん。スタジオ録音でご一緒したときに約束してくれた「マイアミ午前5時」をライブで歌ってくれた。それだけでなく、映画のタイトルの元となった「ひまわりの丘」まで歌ってくれた。涙が溢れた。思い出が溢れた。僕なんかのために、20周年記念のライブで...。

実は、まねださんには先日の0号試写も観てもらっている。そのときの彼女の感想が印象的だった。

「とっても素敵な感動できる映画でした。それと、台詞の端々に1983年が感じられて、とても懐かしくて、嬉しいものでした。参加できてたこと感謝しています」

僕もまねださんに参加してほしかったし。お陰で1983年を映画の中で伝えられた。それを分かってくれたこと本当に嬉しかった。きっと、彼女も感謝の意味で、この2曲をプレゼントしてくれたのだと思えた。ありがとう!

1983年。今から30年ほど前の時代。キラキラと輝いていた。僕は21歳。映画監督を夢見て、学生映画を作り、8ミリフィルムをまわした。やがて、憧れのジョージルーカスの母校を目指して留学。そんな日々に流れていたのは松田聖子のヒット曲。1曲、1曲に思い出が溢れる。

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今、思えば、それが青春だったのかもしれない。その中で2度、大きな風が吹き始めた。1度目が学生映画活動に終止符を打ったとき。街では「天使のウインク」が流れていた。2度目はアメリカ生活を終わりにしようと思ったとき。マイアミビーチで「マイアミ午前五時」を聴いた。そして、帰国したとき、東京の街で流れていたのが、また松田聖子の「大切なあなた」だった。これも今夜のライブで、まねださんは歌ってくれた。

でも、帰国してからもアルバイト生活が続き、脚本家デビューまでに5年かかった。監督デビューにはさらに2年。初監督映画は、さらに5年。10代のときに夢みた映画監督という仕事。たどり着いたのは40歳を過ぎていた。そして今、また、大きな風が吹き始めるのを感じている。そんなときに作った映画。タイトルは「向日葵の丘」。その映画に参加してくれたまねだ聖子さんが、今夜のライブで「ひまわりの丘」を歌ってくれた。

あれから、どのくらいに歳月が流れたのだろう? あれから、何度、強い風が吹いただろう? そして、あの頃、一緒に学生映画を作った友人たちは今どうしているのか? 街のどこかで流れる松田聖子の懐かしい歌を聞き、あの頃を思い出したりするのだろうか?

30年の日々で、僕の髪はすっかり白くなってしまった。映画を1本撮るごとに白さが増して行く。そのうち、きっと、全て抜け落ちてしまうだろう。でも、キラキラした1983年の思い出はかすむことはない。今も天然色で輝いている。あの時代になくした大切なものを、探して「向日葵の丘」を作った。今夜、まねださんの歌を聴かせてもらい、いっぱいの思い出が蘇った。このFacebookを通じて、感謝を伝えたい。

「向日葵の丘 1983年夏」当時を生きた全ての人に、そして、当時を知らない子供たちに。日本人が忘れかけた大切なものを届けます。来年、初夏に全国のシネコンで公開予定。間もなく完成。そして、今夜は松田聖子のCD聴きながらバーボンを飲みます......。


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