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地方を舞台に映画を撮り続ける理由 [【再掲載】]

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僕が20代前半だった、1983年。

まさに映画「向日葵の丘」の舞台となった年。あの頃は本当に日本映画が駄目で、若い人たちは皆、アメリカ映画しか見なかった。そんな時代に彗星のように登場したのが、大林宣彦監督だ。これまでの日本映画とは全く違うテイストとスタイルに感動。”これこそが俺たちの世代の映画だ!”と多くの若い世代が支持。僕もそんな1人。80年の「ねらわれた学園」81年の「転校生」と注目していたけど、83年に公開された「時をかける少女」がとどめ。大きな影響を受けた。

その後、僕は駄目な日本映画界に見切りをつけ、

大好きなアメリカ映画を学ぼうと留学。「スターウォース」のG・ルーカス監督らが卒業したUSC(南カルフォルニア大学)映画科に留学する。いろいろと感じることあった。そしてアメリカにいて一番学んだこと。それは大嫌いだった日本の田舎の風景がどんなに美しいものであったか? 憧れていたカルフォルニアのビーチ。ニューヨークの摩天楼も、それはそれで素晴らしいけど、日本の田園風景も、決して引けは取らない素敵なものであること痛感した。

そして、ハリウッド映画にはずっと憧れていたけど

もし、ここで映画が撮れたとしたら、何を撮るべきか?考えた。Gルーカスは1960年代を舞台にした”アメリカングラフィティ”という素晴らしい青春ものを作った。ウッディアレンはニューヨークを舞台に”マンハッタン””スターダストメモリー””インテリア””アニーホール”という名作を監督した。じゃあ、僕がLAで、NYでそんな映画が作れるか? 

ノーだ。

ルーカスはカルフォルニアのモデストと小さな町で生まれ育ち。その町を舞台に「アメグラ」を監督。アレンはNY育ち。だから、臭うようなあの街が撮れる。アメリカの監督たちに憧れている内はいい。でも、アメリカで勝負するなら、彼らはライバル。そこで生まれ育った監督を凌ぐ作品ができるのか?そんなことを考えた。僕は何を作るべきか? 

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当時、日本はバブル景気。

アメリカは不景気。ハリウッドも日本の企業に買われる時代。USCの映画科を出た先輩が就職もできず、大学内でアルバイトをするような状態。あるアメリカ人は僕を通して日本の企業にアプローチ。映画の資金を引き出せないか?と相談してきた。アメリカは行き詰まっていた。そんなこともあって、一度日本に戻ろう。そして、自分が撮るべきものを考えることにした。

が、帰国したとたんにバブルは弾け。

今も続く不況が日本を覆う。新人監督への道は厳しく、映画産業自体が崩壊しそうなくらいだった。アルバイトをしながら5年がかりでシナリオライターになり、どうにかありついた仕事も酷いもので、ブラック企業も裸足。生活もできない額のギャラなのに、長期間、苦闘の連続。同じ苦労するなら、自分で映画をプロデュース。監督してやる!ととんでもないことを考えた。友人たちから「無謀だ」「無理だ」「不可能だ」と言われた。が、問題はそこではない。何をどこで撮るべきか? それが問題だった。

留学中ことを思い起こした。

ルーカスがモデストで「アメリカングラフィティ」をアレンがニューヨークで「スターダストメモリー」を撮るのなら、僕も古里で青春映画を撮ろう。それは憧れの大林宣彦監督の影響もあったと思う。大好きな「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」も大林監督の古里・尾道で撮られたものだった。

古里を舞台にしたファンタジー。

それこそが僕が撮るべき映画だと感じた。LAのサーフィン映画ではなく、NYの摩天楼物語でもなく。和歌山県のファンタジー。それならルーカスにもアレンにも負けない。タイトルは「ストロベリーフィールズ」とした。だが、完成までは怒濤のような事件とトラブルの連続。そのことは「監督日記」に詳しく書いた。http://t-ota.blog.so-net.ne.jp/

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僕が4歳まで住んでいた和歌山の町。

そこで繰り広げられる悲しき少女たちの物語。シナリオを書き、製作費の出資を求めて営業を続けた。ある会社が大林宣彦監督が監修して、尾道を舞台にするなら製作費を出すという。和歌山への思いもあるが、尾道で撮れるのも嬉しい。まずは、尾道で成功してから和歌山で撮ろう。僕は安易にそう考えて、20歳のときから憧れていた大監督と対面することなる。

ところが大林監督はこう言う

「太田君。あなたは尾道で撮るべきではない。和歌山で撮るべきだ!」大監督にそう言われては、会社も企画を進められない。尾道ロケは取りやめ。でも、大林監督の思いも知る。「憧れの尾道ではなく、自分が生まれた街。古里でこそ、思いが籠るんだ。デビュー作ならそれが大事だよ」と伝えたかったのだ。「思い」がどれだけ大事かは後に痛感するのだが、先の会社は「和歌山なら金は出せない」と撤退。また、ゼロからのスタートとなった。

数ヶ月後、大林監督から連絡。

「僕の新作ー理由のメイキングスタッフを探しています。太田君にお願いしたい」それは仕事の依頼ではなく、これから監督デビューしようとしている僕に、大林組の映画撮影を現場で見つめるチャンスをくれたということ。「その全てを見て経験して、自分の作品に生かしてほしい」という大林監督の愛情だった。

「理由」の現場を体験させてもらったあと、

さらに1年以上かかり、別の会社を探して出資してもらい、和歌山でも寄付を募り、撮影にたどり着く。美しい自然の中で、都会では絶対に撮れない、心癒される風景の中で、10代のキャストによる物語を撮影。東京でも地元でもヒットした。同じように自然が溢れる田舎街を舞台とすること。僕の映画の定番になった。浜松、湖西、そして今回の島田。皆、どこにでもある田舎街だが、美しい自然に囲まれている。

余談だが、

大林監督はそのとき以来、様々な形で応援してくれている。それが昨年、ロスアンゼルスで開催されたジャパン・フィルム・フェスティバルで、大林監督の「この空の下」と僕の「朝日のあたる家」が同日に招待上映され、師弟対談までやらせて頂いた。憧れの監督と同じ舞台に、それもロスアンゼルスで。感無量だった。

ニューヨークでも、ロスアンゼルスでもない。

日本の片田舎の風景がどれだけ美しいか? どれだけ心癒されるものか?留学中の経験を生かした。僕と同じように、多くの人がまだそれに気づかず、都会や外国に憧れている。でも、自分のまわりにある、見慣れた風景こそが、世界に誇れる素晴らしいものであること。僕が伝えたいテーマのひとつとなった。


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