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続・アーティストは抉れた心を癒す為に作品を作る。 [アンコール]

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 先の記事が大好評だったので、

 もうひとつエピソードをお届けする。脚本家の先輩たちはよくこういう。

「シナリオはストリップだ。自分の恥ずかしい体を、ケツの穴を人様に見せて拍手をもらう仕事だ」

 が、僕は「はらわたショー」だと思う、裸どころか腹切りして、腐った内蔵を取り出して人様に見せる。でも、その恥ずかしい行為に多くの人が感動し拍手を送るのが芸術ではないか?と、

 「**すればウケそう」「**が人気だから使おう!」と頭で計算して作ったものでは感動は生まれない。なんてことを感じる。

 つまり、人はそれぞれに悲しみを抱えている。酒を飲んで忘れることができるもの。時間が経てば忘却できるもの。でも、それが人から見れば大したことのない悲しみでも、その人にはどうしようもない辛さになっていることがある。

 本当は逃れたいその悲しみと向かい合い、

 それを歌にしたり、絵にしたり、物語にして、なぜ、こんなことになったのか?と問い続けることで作品になる。が、ある友人はこういった。

 「いくら悲しみと対峙しても、才能がなければ作品はできないんだよ。結局、才能あるかないか?じゃないの?」

 バカな奴だ。作品を作る人は皆、そこから努力を始めるのだ。作品作りの中で原因を探り「自分はどうすべきだったか?」を考え続ける。が、「悲しみ」と対峙せず、考えないようにして、酒で自分をごまかし続け、悲しみをいつまでも引きずる人もいる。

 つまり、才能があるか?どうか? 

 ではなく、「悲しみ」と向かい合い努力するか?どうか?なのだ。「悲しみ」と向かい合って作品にした人を世間は「才能ある」といい、悲しみから逃げ回り苦しんでいる人を「才能がない」と決めつけるのである。

 また、映画でいえば企画会議で決まった作品を愛情のない脚本家がハリウッド映画からパクったアイディアでシナリオにし、作品に何ら思いのない監督が現場に来て、有名俳優を並べただけでは感動作が生まれないのと同じ。

 その作家の魂の告白ともいうべき、

 悲しみとの対峙が観客を圧倒し、感動させる。でも、人はそういくつも「悲しみ」を抱えてはいない。その多くは「名声」や「経済的成功」で癒されてしまうもの。或いは自分を理解する多くの人がいて、良き妻や夫。それとも恋人ができれば、悲しみをぬぐい去ることができる。当然、作品を作らなくてもよくなる。その状態を世間は「あの人の才能も尽きたわね?」というのだ。

 それでも、クリエーターという仕事につくと作り続けなければならない。そこからは地獄の戦いだ。期待は高まり、以前のようなヒット作を要望される。が、作れない。だから、ミュージシャンはドラッグに走ったりする。
 
 そう。もし、才能というものがあれば、

 何もしなくても湯水のようにアイディアが溢れ出してくるだろう。が、本物の作品というのは「悲しみ」との対峙で生まれるもの。「才能」があるから作れる訳ではない。だから、アーティストは苦しいのだ。

先の記事を読んでない方はこちらで=>http://aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp/2014-06-21

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