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キャラクターも実在の人物がモデルだったりする!? [インサイド・ストーリー]

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ストーリーだけでなく、キャラクターも実際に付き合いのあった人たちをモデルに作っている。鯛焼き屋「桜屋」のおばあさん・ウメさんは、ロケさせてもらった笹間のお店のおばあちゃんから話を聞かせてもらい、考えたキャラクターだ。役を演じる岡本ぷくさんは、店まで出かけておばあちゃんに会い、取材をした上で演じてくれた。

レンタル・レコードを始める北さんも友人をモデルにしている。彼はレンタルビデオ屋を1980年代半ばにスタート。本当に大儲けしている。当時は著作権がまだうるさくなくて、自分で買ったビデオソフトを店に並べてレンタル。発売元に手数料や著作料を払わないどころか、ベータのビデオソフトは全てVHSからのコピー。

レンタルされれば、全て利益というぼろい商売をしていた。店舗も増やし、1年ほどで数千万円の収入。その後、著作権がうるさくなってきたので、辞めて別の事業を始めた。実際、そのあとは大手企業が参入。個人のレンタルビデオ屋は次々に潰されていった。友人はその前。個人でも店を開けて、いちばん儲かる時期に営業して大成功した。

幸いにして、彼はサラ金から莫大な借金をして逃げ回ることはなく。レンタルビデオ屋業を辞め、命を落とすことはなかった。

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【名前だけでキャラクターが分かる太田組シナリオとは?】 [インサイド・ストーリー]

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映画を観ているだけでは分からないが、主人公たちの名前も工夫がある。3人の主人公。いや、僕の映画では皆が主人公なのだが、それでは説明しにくいので、とりあえずあの3人に絞る。多香子(常盤貴子)、みどり(田中美里)、エリカ(藤田朋子)。文字にすると分かると思うが、個性をつけてある。

多香子、みどり、エリカ。そう、多香子は漢字。みどりは平仮名。エリカはカタカナである。シナリオを読んだとき、それによってキャラクターが分かるようにしてあるのだ。多香子は漢字にしたことで、日本的な性格。みどりは平仮名。柔らかさを出した。真面目な多香子を受け止める柔軟性がある役柄。そしてエリカはアメリカ育ちの帰国子女なので、カタカナ。

これだけでも、シナリオを読むときに非情に分かりやすく、誰が誰で...と覚えなくても文字でキャラクターが理解できるようになっている。こんなふうにシナリオ上でも、いろんな工夫をしている。他

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懐かしい布施の思い出が「向日葵」のあのシーンに! [インサイド・ストーリー]

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高校時代の多香子(芳根京子)やみどり(藤井武美)が学校帰りに本屋で「スクリーン」誌を立ち読み。映画館に寄って次回上映作品をチェックする場面。ここは僕の高校時代の思い出をベースにしている。

高校は大阪。進学校でギスギスした校風。管理教育。無気力な生徒。まるで少年院のようなところだった。僕の成績は最悪で、教師からはいつもうるさく言われていたが、授業は退屈。人生最悪の3年間。そんな時代の希望が映画だった。が、高校生の小遣いは少なく、観る映画は映画雑誌で厳選。どの映画が大阪で上映されるかを確認して観ていた。

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高校は近鉄沿線。当時、僕は奈良に住んでいた。帰りの電車でよく途中下車したのが「布施」映画館が5館あり、そこをウロウロした。今では4館がなくなり、町もすっかり奇麗になり、昔の面影は少ししか残っていないが、今も訪れると懐かしいものがある。

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その布施にある映画館、ニューラインシネマで「向日葵」が上映されると聞いたときは大喜びした。まさに、劇中の多香子たちのシーンは布施の思い出なのだから。その布施での上映が本日で終了する。商店街ではポスターを貼ってくれて応援。大阪中から多くの観客が訪れた。

残念ながら舞台挨拶はできなかったが、この町で「向日葵」が上映されたこと。本当にうれしかった。38年前に毎週のように訪れた町。映画を観ることだけが希望で。将来に希望を持てなかった時代。ハリウッド映画だけが応援してくれた。そんな映画を観た町での上映が本日(10月16日)で終わる。

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「向日葵の丘はこの思い出から作られた」 [インサイド・ストーリー]

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物語というのは、作家が机の上で「どーしようかなー」「あーしてみようかなー」とか想像して作られるものだと思われがち。ま、それも間違いではないが、それだと観客に伝わるものがなかなかできない。観るものを引きつけ、共感させ、感動し、涙する物語というのは頭で考えたものではうまく行かない。

だが、事実をベースに書くと驚くほど観客を魅了する。僕が30代。まだシナリオライターデビューする前。想像して書いたシナリオは誰も見向きもしなかったが、自分の体験をベースにして書いた青春ものは結構、評判がよかった。そして監督デビューしてからのシナリオは、フィクションでも取材し、事実に基づいた物語を書く。そのせいか?毎回評判がいい。

前作「朝日のあたる家」は静岡県を舞台にしているが、劇中で起こる事実は全て福島の原発事故で起こったことを描いた。場内は涙涙の連続。事実はやはり観客の胸を打つ。そんな訳で僕のシナリオは毎回、何らかの事実を元に描いている。ただ、登場人物は複数の人をモデルにしていたり、事実を脚色して書く。事実だけを繋げたのでは物語にならないからだ。

今回の「向日葵の丘」も後半は涙の連続だった。それらのエピソードも僕が経験したことや、聞いた話。実際にあった話を織り交ぜて書いた。映画館上映もそろそろ終盤なので、その辺の種明かしを少しばかりしてみる。ぜひ、読んでほしい。

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32年の時を超えた記念写真ー8ミリ映画は時をかける  [インサイド・ストーリー]

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「向日葵」はこの思い出から作られた①

「向日葵の丘」は僕自身のいろんな思い出を集めて物語を作った。まず、1983年パート。多香子(芳根京子)たちが高校の映画研究部で、8ミリ映画を作るくだり。実は僕自身も83年に8ミリ映画を作っていた。

タイトルは「バイバイ・ミルキーウェイ」もう高校生ではなかったが、多香子と同じように、出演者で悩み、フィルム代の値段に困らされた。

多香子たちはキャノンのカメラ、518を使ったが、僕らは1014を使った。内容はミュージカルではなく、幽霊ファンタジー。日本ではまだ、その種のジャンルがほとんどなかった頃。その8ミリ映画はのちに僕の監督デビュー作となる「ストロベリーフィールズ」の原型となる。

その8ミリ映画に出演してくれたのが、本物の高校生たち。主人公の2人は17歳と16歳だった。共に高校で映画を作っており。彼ら彼女らをモデルに多香子やみどり。そしてエリカのキャラを作った。その映画は大阪、東京で公開。あと静岡。さらにはLA留学のときにUSCのクラスでも、上映会をして好評。そのあとソウルでも上映。地元の映画青年たちが絶賛してくれた。

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その中の1人は英語学校の同級生であり、のちにプロのカメラマンとなり、「グエムルー漢江の怪物」や「殺人の追憶」という大ヒット作を撮影したキム・ヒョンクーさんだ。

話を戻して、8ミリ撮影から32年。僕は映画監督になり、4本目の映画を撮った。それが今回の「向日葵の丘」である。物語のヒロイン3人が久々に集まり、自分たちが作った8ミリ映画を見て感度するシーンで、多くの観客が涙した。大阪の舞台挨拶では、藤田朋子さんと登壇。彼女にも撮影前に8ミリ映画とはいかなるものか?を伝えるために8ミリ映画「バイバイミルキーウェイ」を見てもらっている。

その藤田さんと僕が舞台挨拶をした映画館に2人の男女が来ていた。32年前に高校生だった主人公の2人である。すでにオジさんとオバさんだが、今も交流があり、男子高校生だった彼は「向日葵」のボランティアスタッフで撮影のお手伝いにも来て、女子高校生だった彼女は僕の前作「朝日のあたる家」のボランティアスタッフ。

その2人が揃って「向日葵」の丘を見て来てくれた。壇上から別所哲也さん扮する将太兄ちゃんのように彼らを紹介すると、2人は手を上げ、笑顔で観客に答えた。上映後の記念撮影会で、藤田さんを交えて4人で撮影。83年のキャストと、「向日葵」のヒロインの1人。そして両作品を監督した僕。かけがえのない記念写真となった。

(追記)

8ミリ映画「バイバイミルキーウェイ」当時のチラシ。上写真、右から2人目がチラシの左側の女の子。チラシ右側の男の子は写真上の右から2人目。32年の歳月。。。下チラシ。実は「向日葵」の中で二度と登場する。気付いた人いるかな?

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【「向日葵の丘」のストーリーはこうして作られた!第3話 幸せを探す旅】 [インサイド・ストーリー]

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具体的な物語を考え始めた。1983年の思い出。そして2011年のLAでの辛い経験。明るい時代と辛い結末。その2つが果たして、ひとつの物語として融合するのか?

そして、物語というのはただ物語ではいけない。作家が「こんな感じかな〜」とシナリオを書いてはいけない。物語を書くというのは自分に対する自問自答であり、テーマの追求でないと、観客の心に迫る物語にはならない。単に「ここで観客を泣かそう」「だったら、ここで悲しい話を入れるか?」という発想で書いてはいけない。

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今回の物語は「1983年を見つめることで大切なものを探す」ことがテーマ。だから、明るい輝かしい83年の青春物語と、希望の見えない現代を同時に描く。その対比の中で、大切なものが見えてくるはず。「1983年っていい時代だったなあ〜懐かしいなあ〜」というノスタルジー映画ではない。

映画が公開された今、あちこちで、いろんな感想を聞く。ある映画評論家の方が「映画愛」の物語と評してくれた。それはそれでいいが、それがテーマではない。映画で「映画は素晴らしい」と訴えても、どうだかな?と思えるからだ。テーマは別のところにあるのだが、それに気付く評論家さんはあまりいない。

そしてテーマというのは先に決まったものがあり、それを物語を通じて描くという手法もあるが、今回は、というか、僕の場合は、その答えを探すために物語を書く。物語を書いている内に、その答えが見えてくるのだ。だから、自分で物語を書いていながら「この先、どーなるんだろう?」という感覚に襲われる。

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書いていて気付いて来たこと。そもそも、僕の映画のテーマは「子供たちに伝える大切なこと」だ。毎回、そのテーマで違う題材に挑む。しかし、前作の「朝日のあたる家」で前に進んだ感じがした。「大切」なことを伝えるということはどういうことか? それは子供たちに「幸せ」になってほしいということだ。

では、その幸せとは何なのか? それをはっきりさせねばならないと思えて来た。金持ちになることか? 一流会社に入るということ? 有名大学に合格すること? いい成績を取ること? 多くの親たちはそんな価値観を掲げている。でも、そうだろうか? それこそ1983年であればそれでよかった。けど、今はそれだけで幸せになれない。いや、その手前で多くの子供たちが脱落して行く。

そう思いながら、物語を考えた。「幸せって何だろう?」「どこにあるんだろう?」だが、当時、僕は前作「朝日のあたる家」の全国公開で各地を飛び待っていて、パソコンの前に座る時間がなかなか取れず。苦戦していた。

本来、シナリオを書くときは電話もネットも止めて、缶詰になって、集中して書く。電車やバスの中で書くことはできない。月日がどんどん経って行く。物語は考え続ける内に、夏は終わり、秋が来て、冬が来る。年が明ければ「向日葵の丘」の製作発表そこまでにシナリオを完成させたい。

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だが、とうとう、1月の製作発表には間に合わなかった。それどころか、その場で上映された僕の監督作「青い青い空」が大好評。上映終了後に拍手喝采。スポンサーの方に言われた。「監督。ハードル上がっちゃったね? 新作、これを超えないと、前の方がよかったと言われるなあ」その通りだ。「青」は本当に評判がいい。観客は3回も4回も涙を流す。

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それを超える新作が果たしてできるのか? シナリオもまだ1pも書けていない。なのに、撮影開始はいろんな事情で春にはスタートせねばならない。あと3ヶ月。果たしてシナリオは? そして、ただ、書き上げるだけではなく、「青」を超える作品にすることはできるのか? それが2014年1月のことだった.....(つづく)

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「向日葵の丘」のストーリーはこうして作られた!第2話 LAの思い出 [インサイド・ストーリー]

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【「向日葵の丘」のストーリーはこうして作られた!第2話】

1983年の思い出ー友達と8ミリ映画を作った経験をベースに物語を作ろうと考えていた。女子高校生が映画研究部で映画撮影をする、ひと夏の物語。でも、以前に監督した「青い青い空」が書道部を舞台にした青春物語だったので、似て来るだろう。さらに「青」はもの凄く評判よかった。それを超える感動ドラマにするのもかなり大変。

そこで当初、考えたのが「スタンドバイミー」方式。大人になった主人公が過去を振り返るというスタイル。だが、さらに考えて、ある事件を物語に取り入れたようと思った。2011年にロスアンゼルスの映画祭に招待されたとき。そう、今年も間もなく「向日葵」を持って訪れるその映画祭のために、20年振りにLAを訪れたとこのことだ。

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僕はその町にあるUSC(南カルフォルニア大学)という大学で映画の勉強をしていた。帰国後、7年かかって監督業を始める。やがて映画を監督。その2作目を抱えて渡米。20年振りに母校のあるLAを訪ねたのだ。町はあの頃とほとんど変わっていなかったが、長い歳月はいろんなものを変えてしまっていた。

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よく通った店がなくなっている。笑顔でいつも迎えてくれた店員さんがいなくなっている。ある人は自殺していた。ある人は高齢で亡くなっていた。しかし、僕が住んだいくつものアパートはまだ残っていて、今も住人がいる。大学時代に勉強した教室も残っていた。でも、恩師はもういない。

その現実に、言葉にはできないものに打ちのめされた。時の流れって何だろう? あの20代の日々は何だったのか? この町で過ごした6年の意味とは? 死んで行った人。いなくなった友人。英語クラスの先生は今、どこにいるのか? もう一度あの頃に戻りたい。でも、それは適わぬ夢。

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帰国してからもしばらく、ショック状態。それから3年。その思い出と1983年がダブり始める。いつも思い出は「懐かしさ」と「悲しさ」が交差する。なのに映画で描かれる「思い出」はその「懐かしさ」が中心になりがち。「あの頃はよかった」「あの時代が懐かしい」と描く。でも、いつの時代も懐かしいだけではなく、「後悔」や「やり切れない思い」むしろ、忘れてしまいたいことだってある。

そんな思いがあって、単に「1983年」」を懐かしく描くだけでなく「現代」をもしっかりと描くことで、いろんなことを見つめることができるのではないか? 単なる懐かしいだけの物語にはならない。僕がこれまで作って来た「涙と感動の青春ストーリー」とは違う作品ができそうな気がしたのだ。

「スタンドバイミー」は現代パートは10数分。ほとんどが過去の物語。そして、通常の映画では「思い出」部分は2−3分で描く。ダイジェストのような表現。それを「現代」も「過去」もたっぷりと描くという、あまり実践されたことのないパターンで映画にできないか? 

単に現代と過去を描くだけではなく、その2つの物語が足し算ではなく、かけ算になる作品にする。過去はこうでした。現代はこうです。というだけではなく、その2つを比較、重ねることで、1本ずつの物語では描けない効果が出るに違いない。そうすればきっと、今の日本人が、僕らが忘れている大切なことも見えてくるはずだ。そう思えてスタートしたのが「向日葵の丘」である。

そしてシナリオ執筆となるのだが、当時は前作「朝日のあたる家」の全国公開直前。もう、猫の手も借りたい状態。全国を飛び回ることになる。そんな中、移動中の電車やバス。飛行機や空港で「向日葵」のストーリーを考え続けたのだが.....(つづく)

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「向日葵の丘」のストーリーはこうして作られた 第1話 全ては2年前にスタート [インサイド・ストーリー]

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まだまだ、余裕はないが、無事に東京先行公開がスタート。精神的には少し余裕ができた(緊張が解けたので疲労もジワジワやって来るが)。観客の入りもまずまずなので安心。だが、1ヶ月後には大阪、名古屋、金沢等で公開。この辺で客が入らないとかなり厳しい。だから、まだまだ宣伝活動を続ける。

ただ、ここまでは映画の中身についてのアピールをしてきた。どんな映画で、どんな物語で、誰が出ているか? けど、東京先行ロードショーが始まったので、少し違う話も書いて行こう。

「向日葵の丘」がスタートしたのは2年前の夏。

あのときもホント暑くて大変だった。そんなときに映画製作の依頼を頂いた。で、僕が昔から映画にしたかった1983年の物語を映画化しようと考えた。実は1983年。今から30年前以上のその年から考えていた企画。本当に面白い年で、映画も、音楽も、テレビドラマも凄く盛り上がった年だった。

そんな時代。僕は「向日葵」の主人公と同じように、8ミリ映画を撮っていた。その経験を生かし83年という年を背景に、青春ものを作りたいと長年考えていたのだ。

ただ、僕の経験そのままに、男の子の物語にすると、観ていて辛いものがあるので、主人公は女子高校生にした。というと、よく「監督は女子高生好きですからね〜?」と言われるが、そうではない。

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そうしておいた方が話としては面白いのだが、本当のところを書く。ただ、説明的に書いても面白くないので、こんな話をしよう。渡辺美里は作詞もするシンガー。僕は大好きで初期のアルバムは繰り返し聴いたものだ。苦しいとき、辛いときに彼女の歌に励まされた。そんな歌を聴いていて気付いたのは、美里が作詞する歌の一人称が「僕」であることが多いということ。

女の子なのだから「私」になるところが「 僕」。アルバム「Loving You」だと「悲しき願い」「嵐が丘」「Loving you」は全て人称が「僕」そのあとのアルバムもそうだ。これはきっと美里が自分の人生を歌うとき、「私」にすると客観的に自分を見れないから「僕」にすることで物語を作り、作詞したのではないか?と想像する。

たぶん、僕も似たような理由で似たようことをしているのだろう。ただ、映画に描かれた物語が全て、僕の経験という訳ではない。当時の友達の物語であったりもする。ま、そんなこんなで女子高生が映画研究部で8ミリ映画を作るストーリーを考えた。しかし、問題がある。このままでは僕が以前に作った「青い青い空」と似たような感じになる。

「青」は書道部の物語。今回が「映研」? 

部活が違うだけで、同じ青春ストーリーだと面白くない。と考えていて思いついたことがある。あの話を加えよう。そう。あれがいい。と思えることがあった。さて、その話とは? 2011年5月にLAに行ったことだ。また別の機会に書く。

(つづく)


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