LA時代の思い出⑦ ジョージ・ルーカスに憧れて留学した大学。 [【再掲載】]
正式名を南カルフォルニア大学。通称、USC。
そこの映画科に合格。勉強した。
あのジョージ・ルーカスやロン・ハワード、ジョン・ミリアスらハリウッド監督の母校でもある。
それに憧れて入学したが、
学校というのは日本もアメリカも同じで、問題が多いことを痛感する,,,,,
それでもいろんなことがあり、苦しくも楽しい大学生活ではあった。
日本人は「厳しく言った方が君のためになるから」というが、本当にそうなのか? =「褒めることの大切さ」を考える [【再掲載】]
映画監督を目指しシナリオを書いていた時代、
なかなかプロの人に読んでもらえず、カタギの友人によく見てもらった。そんなとき、多くがこう言った「厳しく言った方が君のためになるから、あえて悪い点ばかりを上げる」????と思ったが、日本人にはそんな発想が強いようだ。
「良薬は口に苦し」といったりもする。子供の頃、国語の成績がよかったら、先生は「じゃあ、次は算数もがんばろうね!」といった。学生時代に「将来は映画監督になりたい!」というと、多くの大人から「甘い!」と言われた。
なぜか、厳しいことが良いことのように言う人が多かった。先の友人は「厳しく言った方が君のためになるから」というが、なぜ、「厳しい」のがプラスになるのか?
そう言えば、「巨人の星」のお父さんも息子・飛雄馬に鬼のように厳しかったし、「あしたのジョー」のコーチ・丹下団平もジョーに厳しく接した。ライオンは崖から我が子を突き落とすような話が漫画にもよく出て来た。基本、スポ根ものは皆、厳しさを耐え抜いて成長するドラマだ。
どうも日本人には「褒めると調子に乗り、
浮かれてしまうので、厳しくいうことが本人のためにもなる」という思いがあるようで、がんばっていても、あえて褒めずに厳しく言うという気質があるように思える。
しかし、がんばる人を批判したり、否定したり、酷評することが本人のためになるのか? アメリカ留学時代。アメリカ人と接していると、彼ら彼女らはまず「Good!」「Great!」という。着ている服を褒めたり、考え方を評価したりする。夢を語れば「甘い」という人は皆無で、皆「応援するよ」「凄いね」「がんばれ」と言ってくれた。
やはり、がんばる人に厳しくいうのは日本人の特性だと分かって来た。だから、子供が夢を語ると大人は「甘い」「現実が見えていない」「世の中そんな簡単じゃない」と言い。大人になっても、僕の場合。アルバイトしながらシナリオを書いていたのだが、友人たちには批判されてばかりだった。
「厳しく言った方が君のためになるから」
といいながら、実際はがんばる人を否定しているようにも思えて来た。人はどんなに強固な意思を持っていても、信頼する人たちから、毎度毎度、否定されると、嫌になる。弱気になると「あ〜やっぱり無理かな...」と思えて来る。だから、シナリオを見せるのは極々、理解ある数人だけにした。
映画監督デビューしてから気付いたのは、
自分の作品の問題点というのは、結構、自身で気付いているということ。「あ〜あの日の撮影。***しておけばなあ」とか、すでに後悔していることが多い。それを指摘されても、その通りなのだが、意外に良かった点というのは自身で把握していないことがある。
褒められて始めて「えーーそこ、いいのかあ〜」ということがある。そんな点は何人もが褒めてくれる。次の映画でも似たようなシーンが褒められる。そこから「あー僕はそんな描写が得意なんだ」と気付いたことが何度もある。そう、問題を指摘されるより、良かった部分を言ってもらう方が勉強になるのだ。
そして親しい友人から、あえて厳しい批判をされても、
落ち込むだけだけだし、「こいつ何も分かってないなあ」と信頼さえなくしそうになる。が、「***がよかったよ。さすがだなあ〜」と言われると、嬉しいし、またがんばろうと思う。それは僕だけではないはずだ。
それ以来、僕は友人や後輩の作品を見ると、必ず良い部分を探して褒める。どんなダメな作品でも良いところを探す。俳優に対しても、カメラマンに対して、照明や美術部さんにも、不満が1つあれば、3つ褒めてから、その不満を告げる。
批判しかしない人の言葉は次第に聞かなくなる。
でも、作品を理解してくれた人の言葉は、1つ2つの批判はまじめに聞く。どーも、日本人的な「厳しく言った方が君のためになるから」という発想は、今の時代に合ってないのだと思える。それでなくても、若い人は仕事で叱られると、すぐに辞めてしまうと聞く。
そして教育も「子供は褒めて育てる」というのを聞く。映画だけでなく、いろんな分野で、今は「褒める」ということが大事なのだと思える。褒められれば、嬉しいし、がんばろうと思う。自分の良い部分を知ることができる。そんなふうに思える。
「夢見る力」シリーズー夢破れても大きな財産が残る? [【再掲載】]
夢を実現するには?
夢を形に出来る人とは? そんなことを何度か書いた。世間では夢を実現した人を「努力家」だといい。形に出来なかった人を「世間に負けた」とかいうことがある。或いは「才能がなかった」という。何度も書いたが「才能」なんてものはない。「才能」がないから駄目だったのではなく、他に大きな問題があったからのだ。
そして「世の中甘くない」「世の中は厳しい」「夢はしょせん夢である」という。そんな大人たちの言葉を聞いていると、「夢を追うのは現実を知らない子供っぽい人間」であるかのように思えてくる。実際、僕のまわりには、そんな連中がたくさんいた。「真面目に学校に行き、いい大学に入り、いい会社に入り。安定した収入を得る。それこそが堅実で、世の中を理解した生き方である」というようなタイプだ。
どうせ夢は破れるもの。傷つき、絶望し、
無力感を味わうより、夢など追わずに堅実に生きよう!という友人たちをたくさん見て来た。事実、夢破れて、故郷に戻り、その後、連絡がない友人もいる。夢を果たせなかったことが大きな心の傷となり、夢を果たした者を妬み、若い人たちに「世の中甘くないんだぞ」という奴もいる。劣等感を持ち、何年経っても、その悔しさを忘れられないでいる者も多い。
それなら、やはり夢なんて追わなければ......と思える。夢を追わなければ傷つき、後悔することもない。そう考える人もいるだろう。だが、違う。例え夢破れようとも、夢追うことは大切であり、意味あることなのだ。
もし、何の夢もなく、若い時代を学校とバイトだけで過ごしたらどうだろう?
そんな友人に話を聞くと「何も覚えていない」という、学生時代に何をしたか? 記憶にないのだ。飲み会して、部屋でテレビ見て、学校行って、バイトして、それだけ。例え傷つかなくても、そんな生活が想い出にならないのは当然。でも、夢を追うことで、人生は違って来る。
例えば、俳優になりたいと思う。そうしたら映画を見る。舞台を見る。勉強せねばならない。シナリオを読む、原作を読む。いろんなことを学べる。学校での勉強ではない、自分から進んで興味を持って得る知識は生きて来る。1人では芝居はできない。劇団に入る。仲間を集めて舞台をする。人とぶつかる。ケンカになる。意見の相違でトラブる。
でも、そんな中で人は様様なことを学ぶ。
人とどう付き合うべきか? どうやって仲良くやるか? そして舞台をするには場所を借り、宣伝をせねばならない。客が来ないことある。芝居がウケないこともある。赤字になることもある。どうすれは、客が来て、芝居を喜んでくれるか? 真剣に考える。学校では学べないことをたくさん学べる。
そして何より仲間ができる。クラスが同じだった。趣味が同じということで出来た友達とは違う、一生付き合える友達ができる。小さな劇場で芝居をするだけでも本当に大変。でも、そこで友達と笑って、泣いて、ケンカして、一緒にがんばれば、大きな絆が生まれる。そこで得たものはプロになれなくても大きな財産。
大学4年間。バイトとコンパだけで過ごすより、
ずっと多くのものが得られる。もし、最終的に俳優になれなくても、そこで経験したことは別の分野でも生きる。古里に戻って就職しても、それは役に立つ。夢破れたことを嘆く必要はない。夢追うことで、計り知れないものを得ているのだから。
俳優だけでなく、ミュージシャン、作家、映画監督を目指す人たちも同じ。夢破れても多くのものを得られる。そのことは別の業種でも必ず役立つ。どんなことでも基本は同じ。夢を追いかけるということは、多くの意味ある経験ができるのだ。
僕は以前、演劇学校で教えていた。
一目見て俳優に向かないという生徒もたくさんいた。でも、真剣に教える。それでもしプロになれれば嬉しいことだし、例え夢破れても、彼、彼女にとって俳優を目指して努力した日々は必ず、別のところでも生きるから。無駄にはならない。
だから、僕は言う。「夢見ることは大切」「夢を追うことは大事」例え破れてもそれは大きな財産となるのだから。
「編集する」機能を司る脳と、「話す」機能を司る脳は違う? [【再掲載】]
「請求書が届いてないんだけど?」
との連絡あり。あちゃー。このまま行けば編集の霊(?)が降りて来てガンガン行ける!と思っていたのに....、出かけねばならない。
毎回、思うのだが、編集作業を司る脳と、
声を出して話をする機能を司る脳のパートは絶対に違う。編集中に電話がかかってきてもパッと出れないし、出てもうまくしゃべれない。逆にいうと、電話で話せる状態というのは編集モードに入っていないということだろう。
スイッチが完全に入ると、電話どころかコンビニで店員と話すことさえ、うまくできなくなる。商品をカウンターに置いて、お金を払うだけならいいのだが、「****ありますか?」とか、ウインドウの中の商品を頼んで出してもらう(コロッケとか)というのが出来なくなる。
一体何なんだろう?
と思うが、たぶん、脳の中の言語を司る部分と、絵や文字を認知して想像していく部分が違うのだろう。編集やシナリオをスタートすると、そちらに大量の血が流れて、言語部分に血が行かず、うまく機能しないのではないか? 似たようなケースでいうと、テレビを見ながらご飯を食べることはできる。
でも、Hなビデオを見ながらご飯を食べにくい。これは脳の食欲と性欲のパートが同時に機能しづらいということから来ているらしい。近い位置に両者はあるらしいのだが、同時には厳しいらしい。
同じように編集脳と言語脳は近いところにありそうで、
実は両者を同時に働かせるのは難しいのではないか? ただ、編集をしながら「書く」というのはできる。このFB。メール等。だから、関係者には編集中に何かあればメールをしてほしいと頼む。電話の返答はできなくても、メールの返事はできる。やはり、「書く」と「編集する」脳は同じ部分なんだろう。
そのせいか? 編集を始めると人と話せなくなるし、話すと編集作業ができなくなる。やっかいな現象だが、たぶん、一般の人に分かってもらうのはむずかしい。。。。
子供たちに伝えたいこと。「考える力」を育てないと生き残れない? [【再掲載】]
僕の映画。テーマが「親子の伝えたる大切なこと」
なので、よくお母さん方から質問を受ける。「子供のために何をすればいいんですか?」その答えはとても難しい。昔なら「しっかり勉強して、いい大学に行き、一流企業に就職すること」と誰しも思っていた。
が、今や一流企業でも倒産したり、大量のリストラをする時代。エリートコースを歩んでも、絶望が待っているかもしれない。そして一生懸命勉強することは実は子供たちにとって大きなマイナス面がある。何度も書いたが、日本の教育は優秀なサラリーマンになるための訓練。与えられたことを確実にこなし、上には逆らわず、疑問を持たず、指示されたことを正確に、早くこなす能力を育てるためのものだ。
つまり、想像力。洞察力。共感力。
状況把握能力といった、社会に出てとても大切な力を育むものではない。分かりやすくいうとサラリーマン・ロボットになるための教育。バブル時代まではそれでよかった。が、言われることしかできない社員ばかりなので、上が時代錯誤になると、企業全体が駄目になり、電気製品も韓国に抜かれ、不況からも脱出できないのだと感じる。
では、何が必要なのか?
その前に聞いてほしい話がある。テレビで「****が人気!」といえば、それを鵜呑みにする人が多い。自分では確かめていないのに「テレビが言ってるから!」と信じてしまう。ニュースキャスターが「*****」といえば、それを自分の意見のように人にしゃべってしまう。「東京の偉い先生が***と言っているんだから、間違いない!」という人も多いだろう。これらこそが日本の教育の成果(?)なのだ。
上から与えられたことは素直に受け入れ、疑わない。つまり、テレビや権威のある大学の先生が言うことを絶対的に信じる。「考える」という教育を受けて来なかったことでの弊害だと考える。日本の教育は与えられたことさえすればOK、言われないことまですると注意される。なので、上からの指示、情報は疑わずに受け入れる。頭を使うのはそれこから。
でも、これからの時代で大事なのは、
情報を得たとき、そのまま受け入れるのではなく、その裏や意味を想像する力。風を読み、時代の流れを感じて、「今は何が必要か?」を自分で考える人だ。そんな力を持つことで、混沌とした時代を生抜いて行けるはず。でも、すでに社会人の大人はもう遅いかもしれない。せめて子供たちの「考える力」を育てたい。
どうすれば「考える力」は育つのか?
考えろ!といって考えられるものではない。そもそも考えるとはどういうことなのか? 例えば、目の前に白い色があっても、白と認識するのは実はむずかしい。そこに黒があることで、違いが分かる。あきらかに白とは違う色ということで認識。つまり、比較することで、物事を認識できる。
具体的にいうと僕が子供の頃、銀行は3時で閉まるのは当たり前だった。不便だし、働いていると預金を降ろしに行くこともできない。その後、自動支払機が出来てからも、しばらくは午後6時で終わり。その後も、100円の手数料が取られた。何で自分の金引き出すのに手数料が? と苛ついたが、それが当たり前だと思っていた。
ところがアメリカに留学すると、
銀行はどこでも午後5時までやっているし、自動支払機は365日、24時間。手数料なしで引き出せる。そうだよな! それが顧客サービスだし、何で自分の金出すのに手数料取るの?と思えた日本の銀行がいかに努力をしていないか?が分かる。その後、日本も改善され、3時以降も営業するところ、手数料なしで引き出せる機械もできたが、日本人は不便を不便と思わず、それが当たり前と思っていたのだ。
同じように日本では当たり前ということが、実は世界の非常識だったりする。そんな経験をすると、物事は一面だけではないこと。当たり前だと思っていたことが実は違うこと。別の側面があり、違った論理があると分かってくる。いろんなことを疑い、本質を見つめようとする。問題が見えてくれば、どうすれば解決できるか?試行錯誤する。それが「考える」ということ。その力が今の日本人は決定的に欠けている。
サラリーマン育生教育を受けて来た僕の世代。
50歳を超えた友人たち(関西人だけど)に日本社会の問題点をどう思うか訊く。「そんなん、しゃあないやん。オレらにどうにかできる問題とちゃうし。考えてもしゃーない!」とよく言われる。そう「考えてもしゃーない!」考えることを放棄している。同時に考える力もないのだ。
決して友人は馬鹿ではない。それなりの有名大学を出て、それなりの企業で今も働いている。が、「考える」ということを放棄している。あれこれ、社会問題について質問を続けると、怒り出す。日頃から「考える」ということをしていないので、答えられなくなり取り乱してしまうのだ。10代から「与えられたこと」を教えられた通りにこなすことしかしていないので、状況を見て自分で判断。意見を持つことができない。
彼が悪い訳ではない。
そんな教育を受けて育ったのだ。教えられてないことを要求してもできない。多くの日本人が自分の意見を持たず、ニューキャスターの発言を鵜呑みにして、それが自分の意見になる背景もここにある。では、どうすれば子供たちは自分で考えるという習慣がつくのか? いろいろあると思うが、そんな質問を受けたとき、僕は留学を進める。
情報化社会といいながら、
まだまだ日本人が知らないことは山ほどある。情報番組やネットで情報を得て、海外のことが分かったつもりになっているが、実際に行くと大きな違いを痛感する。海外旅行では駄目。やはり、その国に住み、暮し、地元の人と接してみないと分からない。そこで初めて日本との違いを実感する。そこから「考える」という行為をするようなるのだ。
僕自身。アメリカ映画とアメリカの音楽で育ち。ドラマもアメリカ。アメリカ人よりアメリカ文化には詳しいくらいだが、やはり住んでみると、数々の驚きがあった。その意味で、若い人には留学を勧める。アメリカでなくてもいい、ヨーロッパでも、アジアでも。日本以外の国に行けばいろんなことが見えてくる。日本の駄目な点だけでなく、日本の素晴らしさも分かる。海外で生活したことがないのに「日本はいい国だ!」という人がいるが、本当の良さは分かっていないだろう。
少し前まだは円高で、
東京の大学に進学するより海外の方が安くついたのだが、現在は円安。子供を留学させることは難しい家庭も多いだろう。ただ、留学のみが「考える力」を育てる方法ではない。いろんな方法がある。それはまたの機会に紹介する。いずれにしても大事なことは、子供たちを昔通りに日本の教育を受けさせて、一流大学、一流企業を目指すだけでは、考える力は育たず、いずれ、大人になってから大変な思いをするのは間違いない。
だから、子供たちと、その親たちに、今、何をするべきか? あれこれ考えて、映画を作る。そうやって、幸せになるヒントを届けられれば嬉しい。
俳優残酷物語ー何時間もかけて撮影したのに使われるのは5秒?! [【再掲載】]
映画の撮影は時間がかかる。
夜明けと共にスタートして、深夜まで撮影は続く。1つの場面を1日かけて撮影することもある。だが、それだけかけて撮影しても、その日の撮影で使われるのは2−3分なのだ。
カメラ位置を決めて、照明を決めて、光の具合や風の方向。太陽の位置。様々なことを考慮して、演技を固め、リハーサルを何度もして、本番! だから時間がかかるのも当然だが、撮影された芝居はさらに編集でカットされる。
例えば俳優が長い台詞をいう場面でも、
「ん〜ちょっともたないなあ」となれば、短くカットする。或は、上映時間の制約。さらには台詞は素晴らしくても、全体のリズムの問題で、カットすることもある。なので、長い長い台詞のシーンでも、完成したものを見るとたった一言になっている場合もある。俳優は
「あーー俺の芝居が下手なのでカットされたんだ〜」
ショックを受けるが、そうでない理由でカットすることが多い。或は台詞がある役なのに、映画館で見ると全くしゃべってないこともある。或は台詞が極端に少なくなっていることもある。これも「下手だから?」と思われがちだが、逆の場合もある。
その俳優の存在感がもの凄くあり、台詞で説明しなくても、そこにいるだけで、全てが伝わる。だから、台詞が必要なくなるということもある。俳優は台詞を大事にするので、ショックを受けるが、カットしたからと芝居がダメとは限らないのだ。
ただ、やはり、がんばってくれた俳優のシーンを切るのは辛い。
どんな理由でも俳優はショックを受ける。が、そこでカットしないと映画自体のクオリティが下がり、観客がうんざりしてしまう。感動してくれなくなる。この場合。やはり観客を優先しなければ、誰のための映画だ?ということになる。
同じ意味で市民俳優の方の台詞も、
バッサリ切らねばならないことがある。オーディションのときは、プロ顔負けの芝居を見せてくれたが、撮影となると緊張して、力を発揮できない方もときどきいる。その場合。申し訳ないが、全面カット。或は台詞を減らすこともある。
だが、芝居がまずいのではなく、時間の関係。テンポの関係でカットすることもある。カットされたり、短くされれば皆「芝居がまずかったんだ〜」とショックを受けるが、そればかりではない。でも、お一人お一人に説明もできず。心苦しい。時にはクレームの手紙も来る。
「カットするくらいなら、最初から使うところだけ撮影しろよ!」
でも、映画はいかに無駄となる部分にも力を入れて撮るか?が大事。実はそれは無駄ではなく、最終的に使われた映像を支える大切なことなのだ。
「カットされたから撮影に行ったのは無駄だった」
と思う方もいるが、そうではない。参加した全ての人の思いが映像を支えている。映る映らないに関わらず、多くの人の「思い」が集まらなければ素晴らしい作品はできない。
その意味で無駄ということはない。参加者の「思い」が映画のクオリティを決める。その映画が素晴らしければ、参加者の思いが素晴らしかったということなのだ。
悲観主義者は成功しない。最後に勝つのはオプティミスト? [【再掲載】]
なぜか?日本人はペシミスト(悲観主義者)が多い。
ものごとを悪い方にばかり考える。例えば「俺は会社を作り、世界と商売をするぞ!」といったする。まわりは必ずこういうだろう。「甘いなあ」「身の程知らず」「そんなの無理に決まっている」多くの人は夢や目標を批判、否定しようとする。
その背景には日本人の考え方があるだろう。「世の中に期待しない」「夢は所詮、夢」と厳しくものごとを考えることが大人の発想であり、世間を知っていることだという意識があるからだ。だから夢を語ると、だいたい先のような批判をされる。
僕自身も経験がある。
高校時代に「映画監督になりたい!」といったら、友達や先生、親、大人からもの厳しく批判、否定された。「世の中、そんな簡単にいかない」「もっと現実を見つめろ」「小学生みたいなことをいうな」「お前、才能あるのか?」ともう総攻撃。その後は夢を語らないようにした。
それがアメリカ留学し、大学の先生やクラスメートに「夢」を訊かれて答えたときは全然、違う反応だった。「映画監督か!グレート。がんばれよ」「グッド!いいね」「絶対になれるよ。応援する」ほとんどが好意的な意見で、背中を押すものばかり。日本は止めようとする人ばかりだったのに、何が違うのか?
僕が留学したのは23歳。
日本なら大学卒業、就職の歳。後ろめたいものがあった。大学でそんな話をしたことがある。「僕はもう23歳だから…」というと「何いってんだ。まだ、23歳じゃないか!」「まだまだ、これから、何だってできるさ!」と、これまた何人もから言われた。アメリカは楽天家ばかり? でも、とても励まされた。
確か、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースも60歳を超えてから成功したと聞く。さすが、アメリカン・ドリームの国。大学で出会った人たちも、皆前向きだった。で、気づいたのは日本は何で夢を語ると否定したがるのか? なぜ、夢を否定する? 厳しい現実を受け入れることを大人の考え方だと思い、何かにがんばろうとすると「子供じゃないんだから」などというのか?
帰国してからも、「映画監督になること」を目標にして、
アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。相変わらず、友達も、親も、知人も、声を揃えてこういった。「いい加減。現実を見ろ。いい歳なんだから、早く会社に就職しろ」そして相も変わらず「世の中、甘くない」と言われた。
身のまわりでも、ミュージシャンになりたい! 俳優になりたい! 小説家になりたい!という友人がいたが、1年、2年と経つと、次第に脱落。ふるさとに帰る者。会社に就職する者が出てきて、5年も経つと皆、いなくなった。「やっぱ、食って行けないから」「しょせん夢は夢なんだよな」そんな言葉を残して消えて行く。大人たちは、そんな彼らを見てこう言う。
「世の中、甘くない。諦めが肝心だよ」
しかし、それは違う。彼らは全力で努力して諦めたのではなく、ほとんどが努力不足。見ていると、少しばかり足掻いてみて駄目だと、落ち込んで悩む。その期間の方が努力する日数より長い。そして、彼らはもともと「日本でもアメリカン・ドリームを実現するぜぇ!」という楽天家タイプではない。彼らを批判する大人たちと同じように、何かにつけ「どーせ無理だ」「世の中、甘くない」などと言っていた。
「俳優になりたい!」といいながらも、現実の厳しさを知っているペシミストだったのだと思える。だからこそ、2年3年で諦めてしまったのだ。そもそも、数年で俳優や小説家になれる訳がない。でも、彼らは自分の努力が足りないのではなく、「世の中が厳しい。だから無理なんだ」という解釈をしていた。
気持ちは分かる。僕も何度か挫折しそうになった。いろんな努力をしても、なかなか映画監督へのチケットは手に入らない。近づくことさえできない。でも、人が机の上で考える方法論なんて、ものすごく限られたもの。本当は別のところに、違った方法論があるものだ。なのに、ペシミストはそうは考えず。「世の中は甘くない。厳しいんだ」と解釈して諦めてしまう。
一方、オプチミィスト(楽天家)はもう少し、がんばれば、
別の出会いがあるかもしれない。別の方法論が見つかるかもしれないと考えて、諦めない。そう、この「諦めない」ということが大切なのだ。ペシミストは努力しないのに、「世の中甘くない」と決めて、諦める。だから、それで終わったしまうのだ。
実際、僕は5年目で脚本家になるチャンスを掴み、
2年後に監督になる。そして、さらに8年後に映画監督デビューする。それから4本の映画を撮り。最新作は日本全国50カ所の映画館、シネコンで公開される。もし、途中で諦めていたら今の自分はない。
振り返ると、アメリカ時代にもらった言葉に支えられたと思う。「まだ、23歳じゃないか」「今からだってできる」「映画監督。グレート。がんばれ」「絶対になれるよ。応援する」特別の人ではない、普通のアメリカ人から何度もそう言われた。だが、僕がアメリカには行かず、ずっと日本で生活していたらどうだったか?
バイトを続けながら、映画監督を目指していたら?
ほとんどの大人、そして友人たちがこう言い続けただろう。「世の中、甘くない」「夢は所詮、夢だ」「どーせ、無理だ」「可能性は低い」そんな言葉を何年も何年も聞いていると、「そうだよな。やっぱ無理だよな」と思えたはずだ。そして、夢を諦めることこそ、大人だと思い、就職。そして、がんばる若い人を見れば「甘いんだよなー」といいたくなったろう。
でも、それは違う。こんな言葉を聞いたことがある。「最後に勝つのはオプティミスト」そして「世の中には失敗した人と成功した人がいるのではなく、諦めた人と成功した人がいる」アメリカン・ドリームというのは決してアメリカ固有のものではない。ただ、日本人の多くはペシミストであり、何かがんばる人がいると、頼みもしないのに「世の中甘くない」「現実は厳しい」と言いに来る人たちが多い。
それで若者は結局、諦めてしまう。
けど、夢でも、目標でも、テーマでも、自分が掲げるもの、目指すものを掴むことはできるんだ。それには努力や洞察力も必要だが、一番大切なのはペシミストにならないこと。オプティミストでいること。そして「諦めない」ことなのだ。何事も諦めてはいけない!
【映画は時代の反映。作家が自分の心に問うとき名作が生まれる?】 [【再掲載】]
311後に友人のテレビ局ディレクターがこんなことをいっていた。
「これからの映画は311前と後で分かれる」
同じことを感じていた。311以前に作られ、それ以降に公開された映画を見ると、「何これ?」という時代錯誤を感じ、見ていられないものがあった。震災や原発事故を描かなくても、それを体験した人が作ったものと、それをまだ経験していない時期に作ったものは雲泥の差があった。
僕の映画もそれまではさわやかな青春ものだったのが、一気に「朝日のあたる家」に進んだのも時代の反映だったと思える。あの時期にどんな美しい青春を描いても観客には伝わらない。東北の人たちだけでなく、日本人。いや、世界にも通用しないと感じた。同じ時期。宮崎駿はこう言っている。
「もはや、ファンタジーは通用しない」
あれだけファンタジーの傑作を撮って来た人がだ。やはり311以降には無意味と巨匠は悟ったのだろう。そもそも、ファンタジーというのは平和な時代にスリルやサスペンスを求める世界。2時間の間、映画館でハラハラドキドキして現実に帰って来るためものもの。
それが今の日本はまさに「ナウシカ」の腐海そのもの。そんな時代に現実逃避してどうする?ということなのだろう。その宮崎駿が監督したのは「風立ちぬ」ファンタジーの巨匠が現実を描いた。彼のナンバー1作品だと思うし、そのメッセージに心打たれた。時代を反映していない作品は観客に届かないことを思い知った。
これは僕の意見だが、ファンタジーと共に現代通用しないジャンル
がもうひとつある。「ラブストーリー」だ。それをうまく説明することはできないのだけど、この混濁の時代。「恋愛」まで行き着かないのではないか? と感じる。今の時代に求められているのは「絆」それは親子の絆であり、家族の絆。そこをまず、もう一度見つめることが大事な時代になったように思える。
親子のつながり。家族のつながり。友達とのつながり。それらが希薄になり、長い年月が過ぎた。けど、それをもう1度見つめ直す時期が来たのだと思える。当たり前だと思えた家族が崩壊する。その家族こそが災害のときには一番の味方だった。空気のようだった家族の大切さを日本人は再確認したのだと思う。
家族。古里。親子。友達。それがどれほど尊くて、貴重なものなのか? こんな時代に一番考えなければならないこと。見つめなければならないこととは何か? そこにドラマの意味があるように思える。
物語を作る上で大切なのは、
その時代を生きる作者自身がその時代をどう感じるか。そして自分の心に問いかけること。本当に願っていることはなにか?を描くことだと思う。***が流行っているから、***が人気だから、ではなく。自分の心に問うことこそ、時代を反映した他素晴らしい物語が生まれてくるのだと思える。
永田よしのりの映画講座③~テレビ局主導の劇場版映画製作~ [【再掲載】]
by 永田よしのり(映画文筆家)
今回は映画の宣伝について書いていこう。
大手映画会社の場合は、その作品を宣伝するための宣伝費も確保でき、その宣伝スポットによって一般大衆の興味をひき、劇場に観客が訪れる、ということになるのだが、独立系インディペンデント映画ではその宣伝費をなかなか捻出することが出来ない、という絶対的な事実がある。
ここ10年ほどは、純粋に映画会社が製作する映画というものは減ってきていて、地上派のテレビ局が出資して、映画製作するという方向にシフトされている。
これは地上派でのテレビ放送ありき、の映画製作であり、それなくしてはテレビ局の映画製作出資はありえない。
だから、ついこの間劇場でかかってたよなあ、
と思うものでもすぐに地上派で放送できてしまうのだ。そこで、放送枠からスポンサーをつけてスポンサー料を稼ぐわけだ。
ひと昔前は、映画が劇場で公開されたら、少なくとも上映期間が終わってから半年経たなければ、映像ソフト化しない、というルールがあった。
テレビ放送も同じで、新作映画を地上派で放送するのには、どんなに早くても1年後、というお約束があったのだが、今ではそんなものは存在しない。
なぜなら、テレビ局が、出資して製作、劇場でかけているからで、そこにはテレビで放送してスポンサー料金を稼ぐという目的があるからだ。つまり、人々の記憶が新しいうちに、劇場に上乗せして稼ごうという意志があるため。
もう、二重取りに近い。
映画館でお金を払って映画を見たら、その数カ月後にその映画がテレビで放送されるのが分かっているならば、普通は映画館には行かないだろう。
だから、テレビ局製作主導のものは、テレビドラマの続編やスピンオフものが多く、最近では最終回を劇場版で、などという手法もまかり通っている。
つまり、映画を映画として大事に扱おうという考えは全くないのだ。あくまでお金を稼ぐ手段のひとつとして、テレビドラマを劇場でかけているだけのこと。そこでそこそこの集客が認められたならば、テレビ放送する時にスポンサー収入を取りやすくなる。
そんなものに〃映画愛〃がないのは、当たり前だろう。
そして、そうした製作費を出してくれる所がなければ映画を製作することが出来ない、というのも事実。
だから、映画はどんどんテレビドラマ化してきてしまっているのだ。このテレビドラマ化というのは、自宅で見ている画面サイズと同じものを劇場で見せられてる、という意味と、テレビドラマの製作スケジュール順守の傾向が、劇場作品にも現れ始めている、という点についてのこと(もちろん全てがそうだとは言わないし、テレビドラマだとしてもクオリティの高いものは必ず存在しているのも事実。だが、めったにはないと思う)。
スケジュールが絶対の現場では、
役者は最初に決められたこと以外はまず出来ない。
そこには役者自身が演技にそれを発露させる面白みはまず生まれないのではないだろうか。
(つづく)