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「向日葵の丘」TSUTAYA東京・成城店でレンタル中! [DVD]

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「向日葵の丘」感想「胸を突き刺されるような思い。自分の事のようで涙が溢れました」 [再・感想]

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この映画、一番の感動シーンは主人公の多香子(常盤貴子)がトラウマとも感じていたと思える胸痛む思いの決着場面です! ネット記事などでは、微かに暗示させる記述はあったのですが…胸を突き刺されるような思い。自分の事のようで涙が溢れました

そして、これだけ数多くの登場人物に対して、様々な人生模様を、繊細な洞察力を持って重たくならずに、さらりと描かれる、深い描写。まるで上質な推理小説をスルスル紐解くようで、次の展開が待ちきれない思いでした。 

限られた上映時間の中で 其々の登場人物が、それぞれに主人公として観ても成り立つくらいのしっかりと細やかなストーリ—造りに監督の限りない人々に対する優しさと愛情溢れた監督の人柄、人間味を感じました。

最後に俳優陣が豪華で、其の演技力には圧倒されました。本当に凄い演技力です!!試写室にいたマスコミの方々からも、あちらからも、こちらからも 鼻をしゅんしゅん鳴らす音が 鳴りやまず。

正直、そのような現象は めったに見られないので、ちょっとやそっとの事では、感動しない私も、実はすでに、しゅんしゅんしていたのですが、本当に驚きの反応に思わず周りを何度も確認した程です。

私にとって「向日葵の丘」は家族や、友人の意味。そして本当に大切なものは何なのかを、思い知らされ、反省させられる映画でした。




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「友達」という言葉で全てを許す人たち? でも、大事な夢を実現するための「仲間」だ。 [【再掲載】]

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【「友達」という言葉で全てを許す人たち? でも、大事な夢を実現するための「仲間」だ】



「監督は女優さんなんかと、よく飲み会するんでしょう? いいなあ」なんてよく言われるが、そんなことはまずない。俳優とは基本、一線を引き、プライベートではなるべく会わないようにしている。連絡もまず取らない。キャストだけではなく、スタッフとも距離を置く。撮影前は打ち合わせで何度も会うが、用もないのに、飲みに誘ったりはしない。

なぜか? それは「友達」と「仲間」の線を引くため。「友達」というと、とてもいい響きがあり、かけがえのない大切な存在と思いがち。が、同時に「友達」という美名の元に勘違いした人たちが、夢破れて消えて行った姿も見てきた。少し長いがそんな話をする。

学生時代。自主映画というのをやっていた。友達を集め、8ミリフィルムを使い、映画を作る。大学の映研のような活動。僕もそんな1人、友達を集めて映画撮影していたが、なかなか大変。「将来、プロになる!」と断言する連中と映画を作った...。

例えば午前8時に代官山駅集合。ロケバスはないので、電車を使いロケ場所の公園まで行き撮影する。が、必ず遅れてくるものがいる。時間がもったいないので、置いて行こうとすると、こう言う奴がいた。

「可哀想だから待ってやろうよ!」

すでに30分待っている。が、彼は「待とう!」という。待つことで、どれだけ多くのものを失うかが実感できていない。


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撮影ができるのは夕方まで、だから、朝早くに集合して撮影。もし、撮り残しが出たら、もう一度、別日にその公園に来て残りを撮らねばならない。撮影終了が1日遅れる。交通費も食費も自腹だ。皆、それを負担せねばならない。その日だけ。という約束でバイトを休んで来てもらった友人もいる。その人にも、頼み込み、もう1日来てもらわねばならない。みんなの負担が増える。


実際、そうなったことがあったが、遅刻者を庇った友人は「日が暮れたんだから仕方ない」という。1人が遅刻したことで多くの負担が出てしまうこと。どれだけの被害が出るか?を理解していない。彼がお手伝いに来た大学生なら分かる。或はサークル活動ならいいだろう。けど、プロの映画監督を目指して映画作りをしている友人たちが、これでいいのか? 

「プロの映画監督を目指している!」

という同じ夢を持つことで親しくなった同士。なのに、遅刻したり、その友人を庇うのはどういうことか? 共に夢を追う友達同士なら、助け合い、励まし合うものであり、トラブルを起こしたり、撮影の邪魔をしてしまったことを庇い許し合うべきではない。

その手の友人はメンバーから外れてもらった。しかし、問題を起こした者に多くが同情する、その後も付き合いを続け、次第に僕だけ、飲み会に声がかからなくなった。で、彼らはというと、飲み会で映画談義で盛り上がり、「太田のやり方は間違っている」「あいつはダメだ」と悪口大会。

しかし、自分たちで別の映画を作ろうとはせず。やがて、メンバーは夢破れて、1人また1人と映画学校を辞め、東京を去って行った。その後、彼らは連絡を取り合うこともなく、互いに会うこともなかったという。そんな友人たちの背景を考えると、いろんなことが見えてきた。


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もともと彼らははみ出し者。クラスで友達も少なく、勉強もできず、映画が好きなだけ。家族にも疎まれた高校生だった。それが「映画監督になろう!」と東京に出て来て、同じようなタイプの存在と出会った。共感し、仲良くなる。

友達がいなかった彼らは嬉しかった。それゆえ、撮影に遅れて来ても、トラブルを起こしても、責めるより庇ってしまった。あまりに寂しい高校時代を送ってきたので「友達」に対する強い思いを抱いていたのだ。プロを目指していたのは嘘ではないが、それより目の前にいる友達の方が大事だった。


しかし、結果、傷ついた者同士が、共に夢に向かって励まし合うのではなく、傷を嘗め合う形となる。やがて、夢破れて古里に戻って行く。彼らはとても友達思いだった。が、「友達」という意味をはき違えたていた。結果、映画も作れず、夢破れて、友達も失った。

そんな経験があるので、僕はキャストやスタッフとも一線を引く。そして彼らは「友達」というより「仲間」だと考える。感動的な映画を一緒に作るための「仲間」。友達ありきで考えると、自主映画時代の悲劇を繰り返すからだ。

例えば、親しい俳優がいて「友達」だったとする。そいつは頑張り屋だが、なかなか出演依頼がない。それを「友達」なので応援、出演させる。でも、芝居がうまくない。そのために映画のクオリティが下がる。どんなに親しい「友達」でも、それをしてはいけない。

そんな訳で、僕は一線を引く。互いのことを深く知ると、どうしても甘えが出る。同情する。そして、相手に罪があっても許そうと思える。俳優は「監督は私のことを分かってくれているから、許してくれるはず」という甘えがでる。僕も「こいつのために何とかしてやりたい」と思う。本来それは「友情」と呼ばれるものだが、諸刃の件。映画作りではマイナス。だから距離を置く。

監督業で一番大事なのは何か? 「感動してもらえる素敵な映画を作ることか?」だ。「仕事に影響しても、友達を庇うこと」ではない。大切なのは「仲間」と素晴らしい作品を作ること。その「仲間」というのは手を抜いたり、作品を阻害することを許し合う存在ではなく、同じ夢や目的を持ち、助け合う存在。そんなふうに考えている。




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このところ、ソーメンばかり食べている。 [2016年]

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 このところ、ソーメンばかり食べている。

 夏だからいいか。

 たくさん、もらったし。





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