僕がとっても忙しい理由。映画監督って、ホントはここまで多忙ではない? [再・映画界]
2015年3月の記事より
「監督ってこんなことまでするんだ〜。ほんと大変だなあ」
と思ったという話。よく聞く。が、本来、僕はやり過ぎ。これが本当の監督業だと思ってはいけない。
正確にいうと、僕は監督、脚本、プロデュサー、編集、を担当するのにプラスして、撮影前のロケハン時には制作部。そして完成後は宣伝部。そして、経理やデザイン。パンフレットやチラシの文章書き等もするので、7人分くらいの仕事している。
本来、映画が完成すれば、監督は偉そうに座っていて、自分から何かをすることは少ない。「監督。お願いします」と言われて舞台挨拶に行く、マスコミの取材を受けるというのが本来だ。
だが、映画というのは本当にお金がかかる、いろいろと節約をせねばならない。だから、まず僕が何役かを兼ねることで節約ができると考えた。これが1人別に雇い、1ヶ月働かせれば、その期間は生活できるだけの賃金を払わねばならない。
が、僕が兼任すれば、0円でも言い訳だ。その分のギャラを現場費につぎ込めば、よりいい作品になる。スタッフの弁当におかずを1品加えるとか、スタジオ作業で1週間長く作業するとか、実質的なプラスが増える。
しかし、一番の問題。権化といえばがP(プロデュサー)という人たちである。もちろん、素晴らしい人たちもいる。僕も何人も知っている。が、そうでない奴が凄く多い! 自分は何もせずに、製作費から意味不明な名目で多額の金を抜く。癒着したタレント事務所の俳優をねじ込もうとする。1人入れれば***円もらえるとか?
そのくせ、スタッフのギャラはピンハネ。あるいは約束した額を払わない。いや、それはまだマシな部類でギャラを払わずに、開き直る。逃げ回るという奴も多い。僕も何度も騙された。また、そんな連中は制作会社を立ち上げていたり、その一員なので余計にごまかしがし易い。何にいくら使ったか? スポンサーにも報告しない。通常、製作会社の手数料は10−20%なのに、製作費の75%も抜いて映画を作った会社さえある!
なので、今は製作会社は入れないで、僕が全ての仕切りをして、スタッフ&キャストを集め、使途不明金は一切出さず、節約に節約を重ねて、関係者に払うべき者はごまかさずに払う。そうして、製作費以上の作品を作るようにしている。ただ、やり過ぎて、自分の取り分まで現場に投入。だから、いつも残るのは借金だけということが多い。
ま、それでメジャー映画に負けないスケールとキャストの作品ができるのだが、そのためにはまず僕が7人分働く。だから、毎回、医者に「休まないと過労死するよ!」と叱られて、完成したらダウンして半年も自宅入院生活となる。ま、毎回、遺作と思っているので、過労死してもいいのだけど。いい加減な作品を作ることだけはしたくない。
「監督がそこまでしなくてもいいでしょう?」とよく言われるが、昔のように監督は偉そうにしていれば、皆が全てやってくれるという時代ではない。価値観や習慣が変わり、時代のスピードが早くなっている今、それに合う行動をしていかないと、時代の波に押しつぶされてしまう。
映画1本監督するだけでも大変なこと。それが4本目が完成できたのは、そんな行動に意味があったと思いたい。ただ、これは監督業だけではない。会社員だって同じだろう。昔みたいに、大学を出て、何も技術がないのを5年くらい、経験を積んでから会社の戦力になればいい、という会社は多くはない。契約にして、いつでも切り捨てようとする。そんな会社とどう取り組むべきか?若い人は考えねばならないだろう。
商売でも、ビジネスでも、お弁当やさんでも、喫茶店でも同じ。昔と同じ価値観で、昔と同じ方法論でやろうとしても、うまくいかない。といって、これは正解!という方法がある訳ではない。今、日本の企業が直面している問題も同じではないか? 電気製品も韓国に抜かれ、いつまでも不況を抜け出せないのは、時代に相応しい経営ができていないからだ。そのしわ寄せを労働者に押し付けているように感じる。
過去の価値観を見つめ直し、問題点を探し、改善して、前に進まなければ、どの業界でも先には進めないような気がしている。僕も自分のやり方がベストだとは思わないが、映画作りの前に、映画作りの環境作りをしなければ、いいものはできない。だから、製作会社は入れず、Pも雇わない。だから、忙しい。自分で自分の首を閉めている。でも、いいものを作るのが仕事なのだ... /
映画を作りは「泣かそう」と思って作ると感動作はできない? [再・映画界]
【映画を作りはどんな題材で何を伝えることが大事か?を考える。「泣かそう」と思って作ると感動作はできない?】
映画監督が映画を作るとき「これを撮ってください」と依頼を受けて撮る場合と、自分がやりたい企画を映画化する場合とがある。前者が圧倒的多数だが、僕の場合は後者が多い。もともと依頼が少ないのに、せっかく依頼があっても自分に合わない作品だと断ってしまったりする。そして本当に作りたい!という作品は何年かかっても作るからだ。ただ、いずれにしても「これを作りたい!」と思えるものを作らなければ、素晴らしい作品はできない。
でも、そんなだから、僕の場合は4−5年に1本しか監督できないということになる。おまけに通常の映画は20%ほど製作費から手数料を抜き製作するが、僕の場合は何だかかんだで全てを映画に注いでしまうので、何も残らない。それどころか、監督にはギャラが支払われない宣伝活動まで全面的にやってしまうので、1本撮るごとに経済が大変なことになる。
そんな訳で「向日葵の丘」公開も終わりに近づき、今後はどうして行くか? 考えねばならない時期に来た。とりあえず、正式な依頼はまだない。が、声をかけられたから考えたのでは遅い。どこで仕事をするにしても、そのための企画を用意しておくことは大事。しかし、問題がある。「向日葵の丘」はもの凄く評判がよかった。僕の監督作品で1番評価された作品かもしれない。
嬉しいことだが、同時に恐怖でもある。次はよほどいい映画を作らないと「前の方がよかったなあ〜」と言われるからだ。例えば90点を取ると、次に85点を取っても「前より落ちた」と言われる。それと同じで、評価されると、次はもっと上を行かないと「駄目だ」と思われる。しかし、毎回、「感動した〜泣けたー」という映画を作ることなんて出来ない。感動作を1本作るだけでも至難の技だ。
ただ、僕の場合「泣ける映画」を目指しているのではなく、結果として観客が感動、号泣するというもの。泣かせ映画を作っている訳ではない。が、観客はそれを期待してくるのである。そのプレッシャーはもの凄いものだけど、気をつけねばならないのは「泣ける映画を作るにはどーすればいいか?」と考えてはいけないということ。
「泣ける」ではなく、何を伝える映画を作るべきか? を考えることが大事なのだ。今の時代に「親子に伝える大切なこと」とは何か?が僕の映画のテーマであり。何をどのようにして伝えるか?が映画作りである。僕の1作目はファンタジー映画だった。2作目の題材は書道。3作目は原発事故。そして今回は現代と過去の物語を繋ぐことで大切なものを伝えた。では、5作目は?
そう。その時代時代で一番興味を持ったものを題材としている。だから、毎回、評価されたんだと思える。自分が興味を持てないものを映画にしても、観客には伝わらない。「今、何を見つめることが大事なのか?」「何を見れば大切なことを分かりやすく伝えられるか?」それをまず考えなければならない。
でも、生活のための仕事もせねばならない。ハリウッド監督と違い、日本の監督は本当に大変。監督業だけで食えているのは5人といないだろう。もちろん、僕はその中には入っていない。多くの監督と同じで悪戦苦闘の毎日。そんな環境ではあるが、新しい題材を見つけスタートせねばならない。映画監督業とはそんな商売である。
「向日葵の丘 1983年夏」ロケ風景紹介 [再・向日葵解説]
こちらは映画館の撮影。合い間にポーズを取る2人。
多香子役の芳根京子さんとみどり役の藤井武美さん。
この2人が大人になると、常盤貴子さんと田中美里さんに
なるんです。
編集はセンス。それが一番欠けるのが年配の男性? [再・映画界]
撮影した映像を編集することで、
演技の間を延ばしたり、縮めたりすることで、その演技をより良いものにする。或いは、不自然な演技を自然な演技にすることができる。「愛してる」と男がいったあとに、「私も」と女が答える台詞があったとして、すぐに「私も」というのと、少し間があった場合。その意味さえ違って来るからだ。
だが、「間」何秒あれば感じが出るか? そこに決められた答えは無い。編集するものの「感性」や「センス」で決めるしかないのだ。以前、ある映画で粗編したものをプロデュサーに見せたら。「この間は長過ぎる! さっさと、台詞を言わせた方がいい!」と指摘された。が、その場面は間を十分に空けないと感じが出ないのだが、その理由を言葉で説明するのはむずかしい。というより無理。センスの問題なのだ。
そのPがセンスがある人の場合なら
「もう2秒。間が短い方がいい」「いや、1秒でいい」という具体的な議論ができるが、センスのない人であれば、どう説明しても理解してもらうことはできない。ただ、多くのPはセンスがない。さらに致命的なのはセンスのない奴に限って「俺はセンスがある!」と思っている。(もちろん、いいセンスのPもいるにはいるが、やはり少ない)
センスがないことを指摘するのも難しい。
指摘しても、そんなPに限って「センスがないのは、お前の方だ!」てなことを言い出す。まさか10人に見せて、間があった方がいいか? ない方がいいか? アンケートを取ることもできない。そんなセンスの問題が何十カ所も出て来て、昔はよく揉めたものだ。
総じて、センスの良さは若い人。そして女性に多い。もちろん、センスのない若者や趣味を疑う女性もいるが、明確に言えるのは一番駄目なのは年配の男性ということ。そしてPというと、見るからにセンスのないオジさんということが多い。80年代に日本映画を駄目にしたのは、その種の人たち。僕が監督業をスタートした頃はまだまだ、そんなタイプがいて悩まされた。(今も生存しているが)
しかし、そんな間の取り方で泣けたり、感動したりする。そこにセンスがないと、泣ける場面で泣けない。感動する場面で感動できないといことになる。僕は言い出したら聞かず、その映画のときも自分の編集で押し通した。Pからは「誰もが席を立って出て行く、最低の映画だ」と面と向かって言われた。勝負は一般試写。コメディなら笑いが起こればOK。感動ドラマなら泣けば合格だ。
試写会では皆、号泣。拍手まで起こった。
映画館公開されてからも場内は涙の連続だった。が、そのPは初号試写しか見ようとせず、(初号はスタッフと関係者が見るので、自分のパートの出来、不出来が気になり物語で泣く人はまずいない)その後も「これは失敗作だ」と言い続けた。
でも、その作品を見て「感動した!ぜひ、一緒に映画を作ろう!」というPと出会い仕事をした。なのに彼も編集になると「ここは違うんじゃないか?と言い出した。結局、Pという人種にセンスを理解させるのは不可能だと思えた。その後、プロデュサーは雇わず、僕自身がPをすることにした。
そもそも、編集に関してPがあれこれ指摘するべきではない。
監督が「こうだ!」といえば、それを信じて応援する以外にない。もし、監督にセンスがなければ、1、2カ所くらい意見して直しても全体として失敗作になってしまう。それが分からず、今もセンスのない人があれこれ口出す話はよく聞く。でも、いつしか僕自身が最もセンスのないオジさんの年になっている。
「俺は違う」と思いながら、間違ったセンスで編集していないか? といつも考えてしまう。あのとき、僕の編集を無神経に批判したオジさんたちと同じで「俺は正しい!」と思っているのではないか?そんな不安も常に付きまとう。編集はセンス。それを失ったらおしまいなんだ。