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映画「向日葵の丘」のストーリーはこうして生まれた?② [再・向日葵解説]

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今回の映画「向日葵の丘ー1983年夏」。最初は1983年が舞台ということで「スタンド・バイ・ミー」のようなブックエンド型のスタイルを考えた。あの映画では、まるで「アメリカン・グラフィティ」の後日談であるかのように、作家となった主人公(リチャード・ドレイファス)が過去を思い出すというスタイル。1960年代の子供時代を回想。それが物語となる。

「向日葵」も同じスタイルで考えていた。というのも、以前に「青い青い空」で書道部でがんばる女子高生たちの物語を描いたので(その後、同じ題材で映画やドラマが何本も作られたが「青」一番最初!)「向日葵」は映画研究部のがんばる女子高生たちの物語というふうにはしたくなかった。あの種のカルチャー挑戦ムービーは、もう今の時代では通用しない。

また、あのスタイルで描くと、

「青」と同じ構図でテーマを描くことになる。それでは面白くない。また、最近よくあるノスタルジックな映画。1960年代を描いた作品。あの種の「昔はよかったなあ〜」「懐かしいなあ〜」というだけの映画にもしたくなかった。そこで「スタンドバイミー」方式から3歩ほど進めて、現在と過去(1983年)の2つの物語を1本の映画にしてみた。


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「スタンド・バイ・ミー」のリチャード・ドレイファスが特別出演的な形で(というかクレジットではそうなっている)回想するためにだけ出てくるのに対して、「向日葵」では主人公の多香子は回想するだけでなく、現代の物語で活躍する。

高校時代の多香子と、大人になり東京で生活する多香子。

それが交差することで、比較することで、1983年がどんな時代であったか? 現代がどんな時代なのか? が見えてくる構図を考えた。それによって日頃気づかぬ、いろんなことが分かるはずだ。

そのテーマとは「親子に伝える大切なこと」そして「幸せとは何か?」それを2つの時代を交差させることで伝えようというのだ。といっても何のことだか分からない人も多いだろう。でも、完成した映画を見れば理屈や構図なんて気にせずに物語を楽しんでもらえるはずだ。

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映画「向日葵の丘」のストーリーはこうして生まれた?① [再・向日葵解説]

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「向日葵の丘」ーこのストーリー。何で作ったんだっけ?とふと考えた。撮影が済み、編集が進むと、ときどき自分で作った物語であることを忘れる。それほど僕から離れて物語が成長、一人歩きするからだ。

前作「朝日のあたる家」はなかなかハードな作品だった。だから、次は従来の路線に戻った青春ものを作ろうと考えた。が、「ストロベリーフィールズ」のような青春ファンタジーはもう駄目。宮崎駿監督もいっていたが、「今の時代、ファンタジーは通用しない」そう思う。平和な時代であってこそ、ファンタジーの世界からメッセージできるが、今は現実の中で考えねば伝わらない時代だ。

で、「青い青い空」の路線を考えた。あのときの題材は書道。ある友人は「次は茶道とか、どう?」というが、女子高生たちがふとしたきっかけで***を学び、次第にがんばり始めるという、カルチャー挑戦ムービーは山ほど作られた。相撲に始まり、ジャズ、フラダンス......よほど題材に魅了がないと、難しい。

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考えていたら、昔から作りたかった物語があったのを思い出す。1980年代前半。僕らは8ミリ映画、自主映画をやっていた。当時もう映画会社は社員監督の採用はせず、映画監督を目指すには8ミリ映画を作り、コンクール等で賞を取る、上映会で人気を得るような形が主流だった。僕もそんな1人で横浜で自主映画活動をしていた。そのときの経験をベースに、青春物語を作りたい。昔からそう思っていた。

それをいつものパターンで女子に置き換えて物語を作れば......と考える。が、8ミリ映画は「書道」「ジャズ」「相撲」というカテゴリーとはちと違う。僕にとって、あえていうなら藤子不二雄さんの「まんが道」のような物語になる。プロデビューする前の青春編。そして、どのジャンルでもそうだが、自らを描くのは1回勝負。漫画家ならマンガ。小説家なら小説を題材にして何度も物語を作るのは基本禁じてなのだ。

でも、本人が一番詳しい世界なので、素人はやりがちで自主映画時代は8ミリ映画を作る映画がやたら多かった。でも、それは自分を自分で描くこと。むずかしく危険。自分の世界に陥りがちで、自画自賛的なことにもなる。だから1回限りと言われるのだ。トリフォーも「アメリカの夜」深作監督は「蒲田行進曲」山田洋次監督は「キネマの天地」

よし、それなら、そんな1本を作ろう。「シコふんじゃった」「スイングガールズ」の路線ではなく、「アメリカの夜」を! と思った。8ミリフィルムはすでに生産中止。2014年に自主映画を作るならビデオだ。それではおもしろくない。時代は僕が8ミリを作っていた1980年代。でも、考えて行くと、20歳前のさえない兄ちゃんたち(僕らのことです)が8ミリ映画を作る物語。何だかパッとしない。いつかはやりたい思い出なんだけど、今回ではないだろう。

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そこで、いつものように女子高生を主人公にした物語を考えた。僕の映画は毎回、女性が主人公。なぜか? それがウケる。ということで、女子高生が8ミリ映画を1980年代に作るという物語がスタートする。で、思い出したのは僕自身がまさに1983年に自主映画を作っていた。それならその年を舞台にしよう。

ただ、単に8ミリ懐かしい!ではいけない。いろいろ考えて、8ミリ=アナログと最近のデジタルの比較することで意味が見えて来た。あの当時は8ミリカメラ。今は小型のハイビジョンカメラ。現像もいらない。撮影後すぐ見れる。あの当時はVHSとベータ。今はDVD。映画館も一戸建て。今はシネコン。CDどころかレコードだった時代。8ミリが存在した1980年代前半を思い出すと、家電もまだまだ少なく、不便な時代だったことを思い出す。

しかし、あの頃はとてもいい時代だった。不便だけど楽しかった。思い出が懐かしく記憶が曇っている訳ではない。あの時代にはあって、今の時代がなくしたものがいろいろとあることに気づいた。そう、それこそが今回の映画のテーマではないか?

というのも、僕の映画のテーマは「親子に伝える大切なこと」そして「幸せとは何か?」だ。前作「朝日のあたる家」では原発事故という究極の不幸と対峙したとき、家族の幸せとは何か?が明確になると考えて、あの作品を作った。社会派映画と言われたが、いつもの僕の映画と同じテーマ。今回も同じ。「親子に伝える大切なこと」それを1980年代の物語を見つめることで、探してもらうことができるかも?

そこで最初は「スタンドバイミー」形式を採用。ストーリーを考え始めた。んーー長くなってしまったので、続きはいずれ。


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ランチ [2016年]

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 ランチ







【僕が言ってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】 [再・opinion]

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【僕がいってもいないことを「太田監督はいつもこう言ってる」なんて書く人。何で?】

 映画の世界の価値観というのは、一般の人になかなか理解されない。

その映画界でも太田組の価値観というのは特別。以前はベテランの人からよく批判されたが、今では多くのスタッフが理解してくれていて、毎回、クオリティの高い作品を作れる背景となっている。が、やはり一般の人には分かりづらいようで、誤解発言をときどき聞く。

 先日も「太田監督は******と発言しているが、そこが素晴らしい」とか書かれた。が、それも僕が一度も言っていないこと。興味深いので詳しく説明しよう。「太田監督は常々、俳優は皆平等だと言っている。そこが素晴らしい」とある映画ファンが書いていた。褒めてくれてるようだが、僕はそんな発言をしたことも、その種の文章を書いたこともない。というのも、そんなことは思っていないからだ。ただ、こういったことはある。

「通常の映画では、この人は主人公。この人は脇役。

 この人はエキストラと分ける。でも、人は誰もが自分の人生では主人公なのだから、人生にエキストラなんていない。だから、僕の撮影現場ー太田組では誰もが主人公と考える。エキストラと呼ばず、市民俳優と呼ぶ」

 これはあちこちで言ってるし、ブログ等にも何度も書いている。が、読んでくれれば分かるように「役には上下はない」という意味。「俳優に上下はない」ではない。その映画ファンが指摘した「俳優は皆平等」でもない。明らかに、その指摘は間違いだが、その違いが分かるだろうか? 

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 通常の撮影現場では役に上下がある。

「この人は主人公だから重要。この人は脇役だからどっちでもいい」ということ。でも、僕の考えは脇役だって重要だし、通行人だって重要。それぞれにドラマがあるという意味。だから、誰も主人公なのだ。3人の女子高生が登場する物語だとして、通常は主人公は1人、相手役が2人。でも、太田組では全員が主人公だと考える。ただ、その物語を3人同時に描くと観客が混乱するので、1人を選び、その視点から物語を描く。それが一般に言われる主人公。

 でも、別の2人の視点から物語を見ればその2人も主人公なのだ。つまり、誰もが重要なキャラクターであり、不必要な登場人物などいない。その意味でどの役も主人公であり。どの役も平等なのだ。なのに、その映画ファンは「どの役も平等」というのを「俳優は皆、平等」と勘違いして解釈したのだ。「役」=「平等」であり、「俳優」=「平等ではない」。

 平等な訳がないし、平等ではいけないのだ。

例えば、何十年も役者生活をしているベテラン俳優と、駆け出しの新人は平等ではない。ベテランは実績と実力を持っている訳で、それを尊敬すべきだし、それなりのギャラが払われる。待遇もいい。出てもらうことで映画の格も上がる。

 が、新人はギャラが安い。それは演技力に定評もなく、経験も少ない。その俳優が出たからと、ファンが押し掛ける訳ではない。むしろ、現場は若手にとって勉強の場。ベテランと同じギャラ、同じ待遇がある訳がない。なのに、その映画ファンは「俳優は平等だ」というので、話がおかしくなる。

 人間は皆、平等だ。「あいつは死んでもいいけど、あの人は重要だから駄目」という考えは間違っている。が、人のために役立つ存在は評価され、優遇される。その人の価値であり、評価なのだ。それを混同してはいけない。俳優で説明しよう。メインキャラを演じる俳優はもの凄い集中力が必要。長台詞があったり、過激な立ち回りがあったり、自分のミスが多くの人に迷惑をかける。作品のクオリティも下げる。替えは効かない。

 それに対して小さな役なら、多少の失敗も監督に怒鳴られるだけで済む。最悪は別の役者と交代することで済む。こういうと勘違いして「差別だ。小さな役だって大変だし、集中力が必要!」というかもしれない。が、違う。メインの役に比べれば、その差は歴然であり、大物俳優、ベテラン俳優と呼ばれる人たちは、そんな経験を何度もして、現在まで来ている。新人とベテランを同じように扱う方が不平等なのである。

 実績や実力。人気に合わせてギャラの額も決まる。

これは「不平等」とではない。小さな努力で済む新人と、長年の経験を駆使して素晴らしい演技を見せるベテランの報酬が同じでは、理不尽。経験だけではない。若くても人気があれば高額のギャラがもらえる。演技力があれば評価される。そこに「平等」という物差しを持ち込むこと自体がおかしいのだ。

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 その意味では会社も同じ。

社長から新入社員まで平等。給料や待遇も皆、同じだろうか? 会社でそれぞれに待遇は違う。それぞれの実績への評価。では、社長が偉いのか?というと、これは違う。営業の達人がいて、技術の鉄人がいて、しっかり者の専務がいて、会社が成り立つ。社長だけでは成り立たない。同じようにドラマの世界も、メインキャラだけでなく、小さな役の存在も大事。暴れん坊将軍だって、斬られる侍がいるから成立する。誰が偉いではない。が、それぞれの待遇は違う。平等ではない。

 の辺を取り違えて「太田監督は俳優に上下がないと常々言っている」なんてブログに書く人がいる。***監督はと伏せ字で書くのならとにかく、僕の名前を上げるのであれば、正確に書いてもらいたい。以上の説明を読めば、そんな世界ではないし、そんな発言をする訳がないこと。分かるはずだ。

 人はすぐ「平等だ」「差別だ」といいがち。それはとても大事なことだが、使い方を間違えている人も多い。人は実力や努力。経験が評価される。それは差別ではない。何もできない。経験もない新人俳優はまず勉強であり、実力派と同じ評価や扱いを受けないのは当然。それを差別というのは大間違い。ときどき、新人俳優で「何日も撮影に出たのにギャラが安い!」と不満をいう者がいるが、バイトではない。ギャラは時給と違う。

 新人はノーギャラであっても、現場に出れば勉強になる。

授業料を払ってもできない経験ができるのに、さらに時給をくれというようなもの。別の新人は「今回はノーギャラで出たので、次回はギャラ下さいね! 他の役者はギャラもらってるんですから不公平ですよ〜」と笑いながら言った。冗談でもこれはアウト。彼の勉強になるので呼んだだけであり、ギャラを払って呼ぶほどの実力はない。それ以降、声はかけていない。

 会社員やバイトの世界ではない。いや、会社だって実力や経験が認められ、給与に反映される。その意味でその新人はバイト感覚でしかない。誰もができる仕事しかしないので、何をやっても時給換算してしまう。その価値観を映画界に当てはめるのは間違い。努力し、いろんな経験をし、多くの人の支持を得る。他の人にはできない実力や素養がある。それが評価されるのが映画の世界。そして実力がある者が集まるからこそ、いい作品ができるのである。


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「向日葵の丘 1983年夏」スチール紹介!あ、あの映画のポスター? [再・LC]

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主人公・多香子の高校時代を演じる芳根京子さんの場面。

うしろに貼られたポスター。何の映画か?分かるかな? 

あの当時大ヒットした日本映画だ。

ヒントは「愛の予感のジュブナイル」がキャッチコピー。

懐かしい時代を思い出すね。




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「夢見る力」シリーズ  「実力があれば認められる....というのは間違い。決め手は趣味?」 [再・opinion]

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 シナリオライターを目指す若い人から

よくアドバイスを求められる。「脚本家になりたい!」といいながら、シナリオを書いたこともない人が多いのが現実だが、努力している人もそこそはいる。助監督を続けながら、シナリオを書く努力家もいる。これまでも、それらの人たちに向けた応援文を書いたが、今回は少し違う方向で書いてみる。

ある助監督君。撮影撮影の毎日で体力的にも大変なのに、オリジナル・シナリオを書き続けている。完成したらプロデュサーに見せて「映画化したいんです」とアプローチする。が、ほとんどが却下。「そうか....まだまだ、オレに実力がないんだ。次は、誰もが映画化したくなる面白いシナリオを書こう!」と前向きにがんばっている。

が、プロデュサーのほとんどはシナリオを読めない。映画化するのはベストセラー漫画か小説。で、ないと企画会議を通せない。オリジナルを映画にしようなんてまず考えない。そんな人たちにシナリオを見せても乗ってくる訳がない。なのに彼は「オレの実力がまだまだ」と考えてしまうのが痛々しい。

同じく小説家を目指す若い人がいる。

原稿が書き上がると出版社を訪ね、編集者に読んでもらう。が、こちらも何だかんだで採用されない。「実力がないから認めてもらえないんだ....」と毎回、落ち込んでいる。が、それも少し違う。編集者は映画のプロデュサーよりずっと読む力がある。「表現力が貧しい」と言われれば、それは正解。けど、出版されなくても落ち込むことはない。

これは漫画でも同じなのだが、編集者という人たちは頭のいい人たちが多く、小説や漫画をよく読んでおり勉強家。だが、こんな問題点がある。

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あの大ヒット作「リング」も当初は

どこの出版社でも「???」という反応。出版されることはなかった。が、角川の名物編集者といわれる個性的な人が気に入り、出版。大ベストセラーとなった。京極夏彦さんの小説も、ある編集者が気に入って出版したが、「あの人じゃなきゃ、絶対に出さないよ」とあちこちで言われた。でも、これも大ベストセラーとなる。

つまり、編集者Aさんが「ダメ。これは出版できない」といっても、Bさんが「これは面白い。出版したい!」ということがあるのだ。もし、持ち込み原稿をAさんが読んだら、そこで終わり。たまたま、Bさんが読んだら出版!ということになる。要は編集者というのは実力ある人を選ぶのではなく、ある程度は実力がある作品で、大事なのは趣味。

だから、趣味が合う編集者と出会えるかどうか? が大きい。あの宮部みゆきさんの「魔術はささやく」だって、原稿を何ヶ月も読んでもらえず、保留のままだった。その後、別の出版社に持ち込み世に出たと聞く。「ドラゴンボール」の鳥山明さんだって、何度も原稿持ち込みしたけどダメで、その編集者の隣席の編集者が読んで気に入り掲載、大人気になったと聞く。

シナリオライターも同じだ。

オリジナルは映画化されることはまずないが、その物語テイストがプロデュサーの趣味に近ければ別の形でも、仕事が舞い込むことがある。結局は趣味! そんなことで作家はデビューしたり、消えて行ったりする。なので「オレの実力がないから....」と悩んだりするのは本質を突いていない。ダメでも「趣味が違うだけ」と自信を持とう。

そして「誰でも映画化したくなる力あるシナリオを書こう」なんて、考え方は間違い。基本は趣味なのだ。誰もが賛同する作品なんて本来ありえない。だから、「ウケる作品を書こう」とか「この路線が今は売れるから」なんて姑息なことを考えて書くのもダメということ。

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自分が書きたい作品を書き、

そこに趣味&志向がにじみ出したとき、同じ志向性を持つ人が、その作品を認めてくれるのだ。もちろん、表現力があった上でのことであり、実力もないのに「そうか、趣味で書けばいいんだ」というのは間違い。実力は大切だ。

これらのことは新人作家だけの問題ではない。製品でも、食事でも、玩具でも、サービスでも、同じ。お客さんの志向と合うときに売れる。でも、「誰もがおいしいと思う料理を作ろう」とか「今、***が流行だから」という思いでは成功しない。

シナリオや小説と同じで、自分はこれが好きだ!という自分の趣味や思いがそこに反映されてなければ受け入れられないのだと思える。もっと言えば、自分は何が好きなのか? どんな思いを持っているのか? それをしっかりと把握せねばならないということ。「好き」ということ「趣味」ということ、とても大切だということ。改めて感じる。


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おやつ [2016年]

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 久々のカップラーメン!






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本日は雨 [2016年]

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本日は雨

週明けから暖かくなるといったのに〜

今日も寒い。

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夕飯 [2016年]

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 懐かしのチキンラーメン




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