「向日葵の丘」いよいよ明日7日(土)大阪で公開!舞台挨拶も。 [映画館情報]
「向日葵の丘 1983年夏」いよいよ大阪十三で公開!舞台挨拶も。
大阪で3館目。十三シアターセブンで明日土曜日7日から公開。
初日は出演者の仲代奈緒さんと、私ー監督の太田が舞台挨拶をさせてもらう。
これが最後の舞台挨拶になる。
午後2時半から上映。
ぜひ、この機会に見てほしい。
当日、パンフお買い上げの方にサイン。
そしてポスターもプレゼント。先着20名様。
お待ちしております。
映画館HP=>http://www.theater-seven.com
「向日葵の丘」32年の時を超えた記念写真ー8ミリ映画は時をかける [【再掲載】]
「向日葵」はこの思い出から作られた①
「向日葵の丘」は僕自身のいろんな思い出を集めて物語を作った。まず、1983年パート。多香子(芳根京子)たちが高校の映画研究部で、8ミリ映画を作るくだり。実は僕自身も83年に8ミリ映画を作っていた。
タイトルは「バイバイ・ミルキーウェイ」もう高校生ではなかったが、多香子と同じように、出演者で悩み、フィルム代の値段に困らされた。
多香子たちはキャノンのカメラ、518を使ったが、僕らは1014を使った。内容はミュージカルではなく、幽霊ファンタジー。日本ではまだ、その種のジャンルがほとんどなかった頃。その8ミリ映画はのちに僕の監督デビュー作となる「ストロベリーフィールズ」の原型となる。
その8ミリ映画に出演してくれたのが、本物の高校生たち。主人公の2人は17歳と16歳だった。共に高校で映画を作っており。彼ら彼女らをモデルに多香子やみどり。そしてエリカのキャラを作った。その映画は大阪、東京で公開。あと静岡。さらにはLA留学のときにUSCのクラスでも、上映会をして好評。そのあとソウルでも上映。地元の映画青年たちが絶賛してくれた。
その中の1人は英語学校の同級生であり、のちにプロのカメラマンとなり、「グエムルー漢江の怪物」や「殺人の追憶」という大ヒット作を撮影したキム・ヒョンクーさんだ。
話を戻して、8ミリ撮影から32年。僕は映画監督になり、4本目の映画を撮った。それが今回の「向日葵の丘」である。物語のヒロイン3人が久々に集まり、自分たちが作った8ミリ映画を見て感度するシーンで、多くの観客が涙した。大阪の舞台挨拶では、藤田朋子さんと登壇。彼女にも撮影前に8ミリ映画とはいかなるものか?を伝えるために8ミリ映画「バイバイミルキーウェイ」を見てもらっている。
その藤田さんと僕が舞台挨拶をした映画館に2人の男女が来ていた。32年前に高校生だった主人公の2人である。すでにオジさんとオバさんだが、今も交流があり、男子高校生だった彼は「向日葵」のボランティアスタッフで撮影のお手伝いにも来て、女子高校生だった彼女は僕の前作「朝日のあたる家」のボランティアスタッフ。
その2人が揃って「向日葵」の丘を見て来てくれた。壇上から別所哲也さん扮する将太兄ちゃんのように彼らを紹介すると、2人は手を上げ、笑顔で観客に答えた。上映後の記念撮影会で、藤田さんを交えて4人で撮影。83年のキャストと、「向日葵」のヒロインの1人。そして両作品を監督した僕。かけがえのない記念写真となった。
(追記)
8ミリ映画「バイバイミルキーウェイ」当時のチラシ。上写真、右から2人目がチラシの左側の女の子。チラシ右側の男の子は写真上の右から2人目。32年の歳月。。。下チラシ。実は「向日葵」の中で二度と登場する。気付いた人いるかな?
1983年でない流行語が使われている訳。時代は過去を背負って存在するから [インサイド・ストーリー]
「ヒデキ。感激!」という多香子のクラスメートも実在する。名前が本当にヒデキで、何かあると「ヒデキ、感激」といい、学校でウケしていた。
その元となったのは、ハウスバーモンドカレーのCM。西城秀樹が決め台詞として言う「ヒデキ。感激」。これは1973年頃に人気だったもの。映画の舞台となる1983年にはもう放送されていない。
だが、その友人はそのあとも年数に渡って「ヒデキ感激!」を使っていた。同時にあのCMのインパクトは凄く。僕らは何年経っても、あのCMでは「ヒデキ感激」といっていると思っていた。当時は今ほど、流行の移り変わりが早くなく、かなり古いギャグを使っても皆、分かってくれるという時代でもあった。
その辺を指摘「あれは83年の流行語ではありませんよ」と批判する人もいるが、「向日葵」は83年の流行を紹介する映画ではない。時代というのは、過去と未来が融合している。そこに今が存在する。今回、ロケ地となった島田市の町のいくつかも83年を代表する町ではない。むしろ、70年代、60年代の面影が残る町。
しかし、町も時代も同じ。特に地方は時代に遅れて進化していく。以前にロケした別の地方でも、2000年代になり、ようやく80年代のバブルのような建設物が出来たり。都会とはスピードが違う。その意味で、70年代が多く残る町こそが83年を象徴していると考えた。
同じように83年の流行語ばかりを台詞に多様するのを避けた。「ヒデキ感激」は先に説明した通り。用務員さんは「あっと驚くためゴロー」という。これは70年代どころか、60年代。当時の人気番組「ゲバゲバ90分」でハナ肇が言っていた。それも時代考証がおかしいという人がいた。繰り返すが「向日葵」は83年の風俗紹介ビデオではない。
過去のギャグを何年経っても使うズレた人は少ないがどこにでもいる。それをその人の個性として表現しているのだ。用務員さんは未だに60年代を生きており。クラスメートは「聖子ちゃん」「明菜ちゃん」で83年を生きている。アイドルに興味のない多香子たちは「オードリー」「ジーンケリー」こちらは50年代だ。
それぞれが全く違った趣味志向をしている。それによってキャラクターが明確に見えてくる。ちなみに多香子(芳根京子)は古いハリウッド映画が大好きで新しいものは、そこそこだが、みどり(藤井武美)はもともと新しいハリウッド映画が好き。多香子とつきあうようになってから古い映画の魅力を知る。
多香子が古い映画に興味を持ったきっかけは、ウメさん。鯛焼き屋で古い映画の話ばかりするので、1度観て観よう!とテレビ洋画劇場で観て嵌ったのだ。その辺を紹介するエピソードはないが、物語から感じとってもらえるようにしている。映画は全てを説明しない。が、よく観ると、あーそういうことか?というヒントが必ずある。その辺を探すのもなかなか楽しい。
大阪十三シアターセブン。明日11月7日(土)舞台挨拶= 仲代奈緒さんX太田隆文監督。 [舞台挨拶]
「向日葵の丘」大阪十三シアターセブン。
明日11月7日(土)舞台挨拶予定。
14:30~16:53の回。
仲代奈緒さんX太田隆文監督。
HP=>http://www.theater-seven.com
日本版「ニューシネマパラダイス」と宣伝するのに、実はそうではない話? [インサイド・ストーリー]
「向日葵の丘」は日本版「ニューシネマパラダイス」と宣伝しているが、実際はそうではない。ああいう映画を作りたくて製作したのではない。「ニューシネマ」を観たのはアメリカ留学時代。シネフレックス・オデオンというシネコンのチェーンで観た。アカデミー外国映画賞も穫り、アメリカでも人気の映画だった。
観て驚いたのは、主人公のトトと僕は似たような人生を送っていたことだ。トトほど幼くはなかったが、中学時代。僕も勉強より映画が好きで、映画館に通い、支配人と親しくなり、いろんな話を聞かせてもらった。
その後、町を離れる。当時はLAにいて、「あーー同じだ」と共感した。映画を観てから20年少々。さらなる奇遇は続く。僕はトトと同じように、映画監督になり、町に戻る。すでに映画館はなく、支配人はどこに行ったか?分からなかった...。
その思い出に、8ミリ映画を撮っていた1983年夏の思い出。さらには後日紹介するLAでの思い出の3つを合わせて「向日葵の丘」という物語を作った。意地の悪い人は「ニューシネマ」のパクリというが、あの日本版がやりたかったのではなく、あの映画と非情に似た経験をしていて、それをベースにしたということなのだ。
そんなふうに「向日葵」はいくつもの側面を持つ物語。友情あり、青春あり、親子の絆あり、映画研究部の話あり、再会物語あり。それをどうアピールしようか?考えて、日本版「ニューシネマパラダイス」というキャッチコピーを考えた。あの映画の日本版を作ろうとした訳ではないが、そういう説明が一番分かりやすいからだ。
「ニューシネマ」もたぶん、あの監督の自伝的な作品だと思える。彼自身の経験、思い出をベースに作っているだろう。だから、作られたものではない感動がある。同じように「向日葵」も僕の思い出が数多く、散りばめられている。だからこそ、多くの観客が感動してくれたのだと思える。
先にも書いたが、物語は机の上で想像して書いたものでは観客を感動できない。本当にあった、現実の話をベースにすると不思議なくらに伝わり、感動を撒きこす。今回の「向日葵」でも、改めてそれを感じた。