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シナリオは自身との対峙。情けない自分を見つめる作業? [映画業界物語]

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シナリオは自身との対峙。情けない自分を見つめる作業?

 シナリオを書くというと、多くの人はこんなイメージを持つ。「ここで主人公を絶体絶命にして....そのあと、死んだと思わせて....実は助かっていて、観客をホッとさせて...」というふうに作家は考えながら、面白い物語を作る作業だと思われがち。確かに、その一面はある。純文学でなければ、特に映画の多くはエンタテイメントであり、観ていて面白くなければならない。ワクワク、ドキドキさせることが大切。

 でも、それだけではいけない。作家の思いやメッセージが入っていると単なる娯楽に終わらない作品となる。それが文芸作品なのだろう。黒澤明監督の映画全般に通じるのは「いかに人は生きるべきか?」を問い続けていること。「生きる」「赤ひげ」「素晴らしき日曜日」はもちろん。「用心棒」や「七人の侍」でさえ、その種の問いかけがある。

 スピルバーグ映画の多くに共通するのは家族が再会する物語。つまり「家族の再生」だと感じる。「続激突 カージャック」では子供を取り戻そうとカージャックする夫婦の話。「未知との遭遇」はUFOにさらわれた子供が母親と再会する。「インディジョーンズ 魔宮の伝説」は誘拐された子供たちを助け、親元に返す話。「ジュラシックパーク」は恐竜に追われる子供たちが親ものに戻るまでの物語。「カラーパープル」は姉妹が再会するまでの話。「太陽の帝国」も子供が両親と再会するまでの苦難を描いている。

 こんな多くの作品で家族の再会を描くのはなぜか? それはスピルバーグが子供の頃。コンピューター技師だった父とピアニストだった母が離婚した経験が強いと思える。「ET」の主人公・幼いエリオットこそがスピルバーグ自身。彼の家庭も父がおらず、淋しい思いをしている。そこでETと出逢うという物語。同じように淋しい幼年期を送ったスピルバーグ。お父さんが戻ってくればいいのに...と思っていたはず。

 そんな心の傷を埋めるために彼は映画の中で、家族の再会を描き続けている。そうやって幼き頃の孤独感を癒そうとする。スピルバーグだけでなく、アーティストというのはそんなふうに過去の辛さを埋めるために作品作りをする。でも、その思いは前面に出ることはなく、物語の背景に存在し、観客が気付かないことも多い。ただ、そんな心の叫びが描かれているからこそ、作品は強くなり、単なる娯楽作を超えて記憶に残るのだ。

 その意味で自分の場合は何だろう?と考える。僕のテーマは「親子に伝える大切なこと」だ。近年、それがさらに明確になり「幸せって何だろう?」ということ。親がすべきこと。子供たちに伝えるべきことは何か? それをずっと考えてきた。でも、親がバカ過ぎて気付かないケースが多い。どうすればいいのか?

 そして子供たちもまた親の思いを気付かずにいることも多い。では、誰が大切なことを伝えればいいのか? それがなぜ大切なことなのか?をどう証明していけばいいのか? そんなメッセージが今回のシナリオでしっかりと描かれているか? 観客に伝わるのだろうか? そんなことを毎回考えながらシナリオを書く。

 シナリオ執筆は戦い。自身と対峙する苦しい戦い。自分の「情けなさ」や「哀れさ」「醜さ」を直視して、人生を考える作業。だから、ボロボロになる。でも、それを避けて書いた物語は心に届かない。だから、毎回、死の物狂いの葛藤を続ける。










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