編集は作業ではなく、悲しみとの対峙。 [映画業界物語]
今回の映画「向日葵の丘」
いつもと違う手法で描いている。「ストロベリーフィールズ」は昭和40年代の物語。全部が過去。「青い青い空」「朝日のあたる家」は現代。そして今回の「向日葵」は「1983年」と「現代」。初めて2つの時代を描いた。決して新しい試しみではなく、例がいくらでもあるスタイルなのだが、その手法で「人生とは何か?」を描いている。
僕の映画は
「親子に伝える大切なこと」が毎回のテーマなのだが、今回の「向日葵」は同時に「人生とは何か?」が主題ともいえる。そのために、主人公以外にもいろんなキャラクターが登場。その人生を描く。多くは普通の人々。でも、彼ら彼女らは何の罪もないのに、ささやかな幸せを求めているだけなのに、不幸な出来事にぶつかり、やがて悲しい結末を遂げることになる。
その物語。
机の上で想像したものではない。テレビドラマを見て借りて来たエピソードではない。全て実在の人物。僕が出会った人々であり、長年の親友をモデルとしている。だから、現場でそれを演じる俳優さんたちを見ていて、胸が詰まった。心優しき友人たちの末路を改めて見つめるような思いで、何度も涙が溢れた。
なぜ、彼は、なぜ、彼女は
あんな思いをせねばならなかったのか? どんな罪を犯したというのか? 平凡に小市民として生きて来ただけ。小さな夢を胸に秘めて、それすらも果たせずに、潰れていった。ある者は全てを失い、ある者は子供を残したまま、この世を去った。
でも、僕は何もできない。
手を差し伸べることもできなかった。いや、会うことすらできず、逝ってしまった奴もいる。今もその絶望の中で足掻いている友人もいる。なぜ、あの子が、なぜ、あいつが、そんな思いをせねばならないのか?憤りと怒りと悲しみが撮影の間中、交差していた。今も、その思いは続き、心から血が流れ続けている。
一因はそこにあるのかもしれない。その友人たちの過酷な結末を編集作業の中で、もう一度、見つめなければならないことを躊躇することもある。シナリオも、編集も、単なる作業ではない。人生と向かい合うこと。その中で希望を探し、答えを見つけること。それが作家の使命。その過酷な悲しみと、対峙せねばならない。それが映画を作るということなのだ。
2016-01-09 19:44
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