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向日葵の丘ー監督日記  ラストシーンが駄目なら全てが終わる? [MA]

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そんな訳で映画の音楽にはこだわる。先にも書いたように先輩監督たちの多くは映画に音楽をつけるとき、音楽家さんにこう注文する。「ここはちょっと間延びしているシーンだから、音楽を入れてほしい」「ここは何か悲しい曲を入れて、主人公の悲しみを伝えたい」「ここは何となく後ろで音楽が流れていればいいから」中には、音楽家に全てお任せという監督もいる。

で、僕の場合を紹介する。どちらが正しいということではない。監督にもいろんなタイプがあり、いろんな方法論がある。ただ、僕の場合。よく知る先輩監督たちとは少し違う。

まず、編集中から映像に既成の曲を当ててみる。映画やクラシックでイメージする曲を探し、それを貼付ける。そして編集が終わったら、物語の盛り上がるところは音楽も盛り上がるように曲も編集。出来る限り、シーン終わりに音楽も終わるように着ける。

通常は編集が全て完成してから、音楽をどうするか?考えるのだが、僕の場合は編集時からどこに音楽を流すを考えて、音楽が生きるような編集にする。というのも、編集時に音楽を考えないと、ぎちぎちに編集してしまい、音楽が入る余地がないほど詰めて編集してしまう。映像だけで見ていると間が持たないからといって詰めて行くのではなく、音楽を入れることでそのシーンが完結するところもあるのだ。

台詞のないシーンでも、俳優の出てこない風景カットでも、そこに音楽という第二の主役が登場することで、意味ある場面になることもある。映画の主人公は俳優だけではなく、音楽も、風景も、音も、ときとして主人公になるからだ。それを俳優の演技だけで、編集してしまうと、何だか、テレビのホームドラマのように、会話だけで成立している物語になってしまう。


そうやって編集を終え、仮の音楽を着けたら、音楽家さんと打ち合わせ。個々の音楽について説明する。仮に着けた音楽はあくまでも仮であり、それに似た曲を書いてほしいという意味ではない。方向性、テイスト、匂い、そんなものを伝えるためのものだ。で、音楽家さんはこう訊く「この金管楽器はなくてもいいですよね?」うん。仮の曲にはトランペットが入っていても、その楽器を使うことがリクエストではない。また、逆に「ここはピアノで」とお願いすることもある。

そして、音楽が始まる位置。終わる位置を説明。絶対にフェードアウトで終わらないようにお願い。それから大事なのは音(SE)との兼ね合いである。映像に映っていないが、犬の声「わおーーーーーーん」というのを入れて、一拍置いて、♫ダダーーーンと入るとかいうことも伝える。

「ゴッドファーザーPARTⅡ」のラストも、落ち葉がパラパラパラパラ.....と風に飛ばされて行く音があって、あのテーマソングが入るのがいい感じだったし、「PARTⅢ」では最後、マイケルの叫び声はオフになって、インターメッツォが流れるのが鳥肌ものだった。音との兼ね合いも大事。

ただ、本来、音楽家さんはそこまで指定されるとやりにくい。位置は指定するにしても、だいたいのイメージだけ伝えて、自由にやる方がやりがいがあると聞く。とはいえ、全然、イメージの違う曲を書いて来られても適わない。それだけで、全てが崩壊するということがある。

あるヤクザ映画。1曲だけクラシックを使っていて、とても重厚でいい感じなのに、他の場面はギター1本。映画のクオリティを数段下げていた。全編をクラシックにすればもっとよかったのに....と思ったことがあるが、どんなにがんばって撮影しても、音楽がマッチしないと、そこまでの苦労は全て水の泡となる。

もうひとつ大事なのは、音楽が始まるタイミング。これが決まると、見ていてもの凄く感動する。特にラストは大切。主人公、振り返る=>音楽が始まる=>見上げる空=>白くフェードアウト=>クレジット=>同時に、音楽盛り上がりメーンテーマ!これはひとつタイミングがズレてもアウト。センスの戦い。


海外では、コッポラが凄い。さすがイタリア系で父親が作曲家で指揮者だけのことはある。イーストウッドもうまい。が、どちらかというと、アメリカよりヨーロッパの方がセンスがいい。「太陽がいっぱい」のラストなんて本当に凄い。「セニョール、リプレー」と呼ばれて、アランドロンが立ち上がり、微笑む。そしてフレームアウト。ニーノロータの曲が盛り上がり、「FIN」の文字。もの凄いセンス。

日本では北野武監督。「HANA-BI」の終わり方は本当に鳥肌もの。逃亡犯のたけしさんと、岸本加世子。波打ち際のベンチに座る。音楽が流れ始める。カメラは引きになり、パーンして海を映す。音楽が終わり波の音だけが聞こえる。「これで終わるんだなー」と思っていると、ピストルの乾いた音が二発「パーンパーン!」驚いている少女の顔(北野さんの本当の娘)フェードアウトではなく、いきなり暗転。悲壮な音楽がゆっくりと始まり、クレジット。「参りましターーー!」という見事なエンディング。これは音楽と音の見事なコラボで初めてできる芸当なのだ。

そんなふうに、音楽もただ着ければいいという訳ではない。付け方で大感動したり、「だから何?」と不満しか残らない終わりになることもあり。大きな差が出るのだ。エンディングも、1度音楽が終わり、クレジットが始まり、エンディングテーマという形もあれば、その曲が続いたまま、クレジットに入ることもある。

「ストロベリーフィールズ」は映画の最後のシーンの途中で主題歌が流れ出し、そのままクレジットに入る。「青い青い空」では物語最後に流れる曲のまま、クレジットが始まる。「朝日のあたる家」も同じだ。

本当にラストシーンというのは大事で、それで外すと、そこまでどんなによくても、全てが駄目になり、印象が悪くなる。「新幹線大爆破」という映画。めちゃめちゃ面白いのに、ラストシーンの音楽の入り方が全てをぶちこわすセンスのなさ。それに対して「太陽を盗んだ男」は見事な幕切れ。音楽の入り方だけで、名作となるとさえ思える。

そんな感じで「向日葵の丘」も音楽を依頼。MA時にスタジオで映像と合わせる。音楽が素晴らしければ、映像×音楽=3倍にも4倍にもクオリティが上がる。その意味でも、MA作業は楽しみだ。。


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