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作品が声を上げる。僕の手を離れて成長を始めた。これは凄い作品になる。 [編集]


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何だかんだで編集を中断すると、

また調子が出るのに時間がかかる。が、撮影スケジュールをリストにしたお陰で、カットを探す時間が短縮。本屋さんのシーンまで進む。まだまだ、先は長いがここで一度、最初から見てみた。

どうも、僕はせっかちで、じっくりと素材を見てから考えて編集というより、作業開始と共にガンガン編集してきた。が、今回はなぜか?それができなくて、本当に恐竜の骨を掘るように、慎重にじっくりと進めている。

素材を何度も見ていろいろと考えて、

全体を想像して、その場面を考えながら、OKカットを並べて行く。それから細かい編集。本来はそちらが王道なのだが、いつもはドンドン編集していたのを思いだす。なのに今回は何かが違う。今までのような焦った作業をしてはならない。と第六感が知らせるのだ。

ということで、頭から見直して見た。オープニングは主人公・多香子が大人になっている現代。そこへ****があり、古里に帰る決意をする。その旅の途中で、1983年を思い出し、回想シーンに入る。それを見ていると、まだ感動シーンや号泣場面が出て来ないのに、涙が零れた。

「作品に思い入れがあるから、シナリオが映像になったことに

感動したんだね?」と言われるかもしれないが、違う。これで4本目の映画だし、テレビドラマやVシネマも何本も監督している。今更、シナリオが映像になったことで感動するほど新人ではない。監督業を続けているとめったなことでは感動できなくなる。(悲しいことだが感動する前に分析してしまう)なのに、涙が零れた。

特に、多香子が親友のエリカに会う場面。そして現代の多香子が高校時代の多香子にオーバーラップで変るシーン。涙が溢れた。何の涙なのか? かつて感じたことのない感覚。ひとつは映像を編集していない現段階でも、すでに物語が始まっているということ。そして、若き日の17歳の多香子が、あの悲しみに巻き込まれるのを考えると、堪え難いものがある。いや、問題はなぜ、僕がそう感じるか?だ。やはり物語が出来上がっているからではないか?

そう書いても、多分、意味が分からないと思う。

「監督。忙し過ぎて頭ヘンになったかな?」と言われるかもしれない。なら、こういおう。監督が映画を作るーと誰もが思う。しかし、ときどき、映画が勝手に成長を始めて、監督はその成長を手助けするだけーということがある。この場面はこうしよう! あのシーンはハラハラさせよう!とか考えなくても、映画が主張し、勝手に成長を始める。そんなとき監督や編集者は映画の声に耳を傾け。その声に従うことが大事なのだ。そのまま成長させれば、必ず素晴らしい作品になる。

シナリオを書くときも、

まさにその通りなのだが、編集でその感覚をここまで感じるのは初めて。NG抜きが終わったところまで、通して映像を見たことで、それをもう一度確信した。凄い作品になりそう。そこには人生と、悲しみと、絆と、希望がある。それを物語が声を上げる通りに、紡いで行くのが僕の仕事のようだ。

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